第17話 おめざのシフォンケーキ
バターと砂糖の香りがする。
目を覚まして、まずそう思った。
目を開けると、午後の西日のなかにいた。相変わらず逆さまにかけられたままの天蓋の隙間から、陽光がカトリーヌの体を上を横切っている。
甘い香りのなかに、紅茶の香りが混じっていた。
もっと香りを堪能したい、と鼻を動かしていると、ふいに隣から手が伸びてきた。
「僕を見るより先に、ケーキの香りに反応するとはな」
「えにくすぅ、おうにぃ」
鼻をつままれたために、おかしな発声になった。
つまむ手をなかなか離してくれないので、王子の手を叩くと、やっと離してくれた。
「何するんですか!」
「君が何日眠り続けていたのか教えてあげよう。二十日間だぞ。どれだけ心配したか。その僕を無視してケーキの香りなど嗅いでいるからだ」
いじけたよう言うと、王子はふいと顔を背けた。
「はあ……」
「はあ、って。もっと何か、言う事があるだろう」
「だって、目が覚めたばかりで、いえ、本当に目が覚めてるのかな? 分からないんですよ。私、生きてるんですか? 本当に?」
ベッドの傍らに座る王子の姿は、天使のように美しい。現実感を失わせる光景だ。
記憶は曖昧だけれど、確かに自分は未来を見て、そして改変のために魔王にそれを告げた。体が破裂するような圧迫感を覚えて、その先は途絶えている。
意識を手放す瞬間、確かに死を感じた。そして、受け入れた。
だから目の前に居るフェリクス王子も、本物と思えなかった。
「実感させてやるか?」
王子を見つめて呆けていると、ぐっと身を寄せてそう言われた。
鼻先で指を動かされて、カトリーヌは反射的に目をつぶる。
と、唇に柔らかな感触があった。
「フェリクス様……!?」
「実感、したか? していないならもう一度するが」
「しました! しましたからもう良いです!」
顔を近づけてくるフェリクス王子を押し戻しながらカトリーヌは慌ててそう叫んだ。
大きな声を出してみると、喉が痛んだ。それに、王子を押し戻そうとする腕には、ほとんど力を入れられない。
腕の使い方を忘れてしまったような頼りない感覚に、カトリーヌは戸惑う。
「もう一度くらいしても良かったが。まあいい。調子が戻るまでは、休んでおけ」
そう言うとフェリクス王子は立ち上がった。テーブルに向かい、盆を持って戻ってくる。
「どうぞ。お姫様」
ヘッドボードに背をあずけて座るカトリーヌの前に、ケーキセットの乗った盆が差し出される。
シンプルなフォンケーキから、カトリーヌは目が離せなくなる。
急に、猛烈な空腹感がカトリーヌを襲った。ずっと気付いていなかった不足に、内蔵が突然気付いてしまった。不満を訴える胃に、早く食べ物を入れてあげなくては。
ぐぅうう。
伸縮する胃が、これまでにないほど大きな音をたてた。
「胃に優しいものを作らせているが、詰め込みすぎないように」
いたずらな笑みを浮かべてフェリクス王子が言った。
失礼な、と言いたい所だけれど、詰め込まない自信がないのでカトリーヌは黙っていた。
それよりも、フォークの先をシフォンケーキに沈める際の夢のような感触に、歓声を上げるのを堪えることに必死だった。
フォークに乗せたケーキの、空気を沢山ふくんだ柔らかなケーキの断面が輝いて見える。眺めているだけで口のなかからじゅわっと唾液が溢れてきて、たまらずに一口ほおばる。全く力を入れずとも、口のなかでケーキはふわんと崩れる。
砂糖のもたらす快感が、脳を揺らした。
「ふわぁま〜い!」
思わずそう叫ぶと、カトリーヌは次々と口にケーキを入れていく。手を止められない。
あっという間に、紅茶まで飲み干していた。
「こんなに美味しいケーキは初めてです。これは、ゴーシュが?」
「そうだ。病み上がりでも食べやすいもの、と最初はスープなどを作っていたが、チェリーたちが甘いものの方がいいと横から口を挟んできてな。ゴーシュは連日シフォンケーキを焼く菓子職人になったわけだ」
「ゴーシュの作るスープも美味しいですが、今回はチェリーたちに感謝ですね。こんなに美味しいケーキが食べられたんだもの」
「毎日、余ったスープを飲んでいたからな。どうせ余り物を貰うならケーキが良いと思ったんだろう。花の精は砂糖に目がない」
「あら、チェリーたちは上手くやりましたね」
笑って答えたカトリーヌの頭に、ふと疑問がわきあがってくる。
「フェリクス様、もしかして、毎日付き添ってくれて下さっていたんですか? ケーキセットを用意して?」
「当然だ。……君は分かるか? 目を覚まさない妻をただ見ていることしか出来ない、そんな時の夫の気持ちが。食事も睡眠も執務も、なにもかもが手につかない」
眉を下げたフェリクス王子が、腕を伸ばす。愛しげにカトリーヌの頬を撫で、それから長いため息を吐く。
よく見ると、王子は少しやつれたようだった。それが王子の美しさをさらに凄みのあるものにしていたということに、カトリーヌは気づいた。
「すごくお疲れみたいです。お休みになられては?」
カトリーヌは盆をサイドテーブルに置くと、横にずれてフェリクス王子の場所を開けた。
「今日は花を持ってきていないが、君の隣に寝てもいいのかな?」
「ふふ、どうぞ」
カトリーヌはそう言って微笑んだ。
仰向けにならんで寝て、手をつなぐと、懐かしいぬくもりが手のひらから伝わってきた。
意識が無かったとはいえ、二十日間のあいだカトリーヌの心と体はこのぬくもりを求めていたのかもしれない。そう思うのは、フェリクス王子から伝わる体温によって、自分の居場所に帰ってきたという実感が湧いてきたからだ。
命があってよかった。
王子の隣に戻って来られてよかった。
この城を、領地を守れてよかった。
平和を守れて――。
「そうでした! 交渉は? 交渉はどうなったのです?」
起き上がろうとするも、体がギシギシと痛んで小さく寝返りを打つにとどまった。
そんなカトリーヌを横目で見たフェリクス王子は、馬をなだめるように、繋いでいない方の手で額をなでる。
優しい手はくすぐったくて、あたたかい。
「万事予定通りだ。先見のとおり、新月の夜に兵士たちが小舟で渡ってきたそうだ。全て捕らえたが、魔族側も人族側も、血の一滴も流していないと聞いた。引き渡しは昨日済んで、その際に、二つの条件についても書面で締結している。民の税金を下げて軍事費を削ることと、都市間の移動にかかる関税を下げること、だったな」
話を聞いて、まずは安堵した。平和が守られたことに。
しかし同時に、気になることもあった。
「良かったです。でもあの、なんで途中まで伝聞なんですか?」
訊ねると、フェリクス王子は、ふい、と顔を反対側に逸した。
「それは、……うん。僕も、一緒に倒れていた。僕が寝ていたのは一週間ほどだが」
「え、倒れて……?」
なんでフェリクス王子まで? と考えるカトリーヌの手をフェリクス王子が軽く握り直す。すっかり同じ体温になっていた二人の手の平は、握り直される前までは一つの生き物みたいになっていて、手を繋いでいるという事を忘れていた。
フェリクス王子の手の存在を思い出したとき、魔王に進言しに行く前の彼の言葉が同時に蘇った。
『僕とずっと手を繋いでいてくれ』
そう言ったのだ。そして実際、ずっと手を繋いでいた。
「もしかして、共鳴を?」
「すまない」
フェリクス王子は、気まずげに顔を逸して言った。
「どうして謝るのです? 私を、助けるためにして下さったのではないですか」
体ごとフェリクス王子の方に向けて訊ねても、王子は顔を背けたままだ。
「危険な賭けだからだ。結果として僕の生命力を少し分けることが出来た。だが、共鳴が先見の力に影響するようなことがあったら、君の作戦を台無しにするところだ。君が望む平和よりも、君の命を取ったんだ。君を失ってなお生きていくなんて、僕には耐えられそうも無かった……我が儘で勝手なんだ」
とうとう体ごと反対側を向いてしまったフェリクス王子の背中にとりついて、抱きしめる。愛しさが溢れてくる。強く抱きつくことで、膨らんでいく想いを少しでも抑えたかった。そうでないと、どうにかなってしまいそうだった。
(フェリクス様だって、死ぬかもしれなかったのに……)
どれだけ強く抱きしめても、愛しさは止まらなかった。
想いはとうとう決壊して、涙として溢れ出る。
「困りました。母の言葉には『愛は惜しみなく返しなさい』とあったのに、これからは守れないかもしれません。フェリクス様のせいです」
フェリクス王子の背中のシャツに、顔を擦り付ける。涙が生地に吸われていって、染みを作っていた。
「勝手な人間になってしまいそうなんです。ね、分かりますか? 私いま震えているんです。生きていて良かったと思ったら、死の恐怖がぶり返してきたんです。また同じことが起こったら、今度は一緒に逃げよう、って言うかもしれない。力は、より多くの民の幸福のために使わないといけないのに、死にたくない。広く愛を返したいのに、惜しんでしまう。…………フェリクス様が特別すぎるから。フェリクス様のせいです……」
一息に言って、スン、と鼻をすする。
すると、王子が突然に寝返りを打った。そのまま、のしかかるようにして抱き返される。
「同じことが起きないよう、僕も、父王も、人族の王家の動向には注意を払っていく。それに、君が言っていたじゃないか。民が居る。君のくれた平和のおかげで、民はこれからどんどんと力をつけ、意思を表すようになる。もう戦争など起こさせないと、彼らは行動するだろう」
鼻先が触れるほどの距離で、王子は柔らかく微笑んだ。
美しい黒髪がカトリーヌの頬をくすぐる。それが、どうしようもなく王子の存在の確かさを感じさせる。
夢じゃない。現実に、生きて、ここに二人居る。触れ合っている。
たまらずにまた、涙が溢れた。
「よかった……皆さんが生きていて、フェリクス様が生きていて、私も生きていて、本当によかったです」
「分かっている。僕もよかったと思っている」
幼子にするように、頭を撫でられて、頬に口づけをされる。
「それに……」
と王子は何か考えるような顔をすると、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「力の解放条件が『様々な愛を受け、感じること』だとしたら、それは、自分の全てを犠牲にして力を使って欲しいということではないと思う。母君は、君が君自身も愛せるようにと願ったはずだ。だから、君は恐怖を恥じなくて良い。恐いなら、僕はいつでも手を繋ぐ。二人の未来だ。僕にも助けさせてくれ。城の皆も、きっと同じように思っている」
王子の唇が、そっとカトリーヌの唇に近づいていく。
ケーキよりも甘い、甘い口づけだった。
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