第15話 見てしまった未来
その夜のことだった。
マダラ薔薇の華やかで濃厚な香りに包まれてカトリーヌは眠っていた。
初めて贈られて以来、部屋に王子が通ってくる際にはマダラ薔薇を持ってくるのが習慣になっていた。
カトリーヌの部屋を訊ねる場合、その日の昼に、
「花はまだ咲いているか?」
と王子が問う。
「ええ、枯れる気配がありませんわ」
とカトリーヌが答える。
ここまではお決まりだ。
「では、花瓶はもういっぱいか?」
と王子が訊ね、
「そうですね」とカトリーヌが答えれば、その夜は別に寝る。
「まだ空きがありますわ」と答えれば、その夜はマダラ薔薇を携えた王子が部屋を訪れる。
その夜は、『花瓶がいっぱい』だったので、カトリーヌは一人で眠っていた。
事実、連日の訪問が続いて花瓶はいっぱいだったし、疲れてもいた。
だからだろうか、カトリーヌは恐ろしい夢を見たのだ。
火矢が放たれて燃える領地の家々がある。
逃げ惑う領民たちを相手に、人間の歩兵が剣をふるい、騎兵が馬上から槍を突き立てる。奪われ、殺戮されていく、種々の魔族たち。一方的な虐殺の光景がそこにあった。
魔王城の騎士たちは、アマデウス将軍を先頭に城を出ていく。
城の外側の守りはアラーニェの糸だ。城自体を覆うように、刃のような切れ味の糸が張り巡らされている。
人間の騎兵たちが正面から突入し、歩兵たちは塔に綱をかけて、侵入をはかる。すると、アラーニェの糸によって、兵士たちの首や腕が落ちる。
うめき声と血が地面に染み込んでいく。
この山城は、ただの住居ではない。守りを重視した、戦いのための城だとカトリーヌは思い出す。
でも自分にとっては、訪れた日から今までずっと、家だった。
血と怒りと怨嗟に満ちた城の光景は、信じたくないものだった。
苦しみながら、カトリーヌは目覚めた。
「……嫌な夢」
そう呟いて、カトリーヌは水差しを覗き込む。魔力を集めるドー・フィッシュと目が合う。目がほんのりと、碧色の光を放っている。初めて見たときは不気味に思っていた。しかし今では、水ににじんでいく碧色の光はカトリーヌの心を癒やすようになっていた。
「大丈夫、きっと大丈夫。ただの夢だもの……」
呟きながらふと水差しに触れると、瓶の表面は冷たいのに手のひらの内側には熱が生まれた。熱は心臓にまで届き、血流が速くなる。こめかみがドクンドクンと鳴り、やがて額にまで音が伝わっていく。気づくと、額に熱が集まっている。
何が起こっているのだろう。
水差しに顔を映そうとさらに顔を近づける。歪んで間延びした自分の顔の、額の中心が赤く光っていた。
「え?」
思わず声を上げた瞬間だ。
パリン!
甲高い音を響かせて、瓶が弾け飛ぶ。反射的に手で顔を覆う。水を被るかと構えたけれど、一向にガラスも水も被る気配がない。どうしたのだろう、と薄く目を開いてみると、水もガラスも空中に浮いて、窓からの明かりを反射して光っていた。ドー・フィッシュだけが床に落ちて、弱い光を放っている。
床に落ちた小さな光が、命を奪われたばかりの体に、閉じ込められたままの魂に見えた。
ドー・フィッシュの目の光は徐々に弱まっていく。
(消えないで!)
叫びたかった。が、声が出なかった。
部屋に赤色の光が広がって、それはどうやら自分の額から出ているものらしかった。
赤い光のなかで、球となった水と、ガラスの破片が急速に回りだした。
そして、
夢ではない、明らかに景色としてカトリーヌの中を通り過ぎていった。
月の無い夜、王家が派兵した兵団が、舟を出している。
恐らくは、王国と魔族の領地にまたがる、メリテ湾だろう。湾を通って、魔族側の領地に侵入すれば、魔王城の麓までは森を抜けて密かに移動出来る。
果たして、兵団はその予想通りに進んだ。
さきほどと同様に繰り返される、殺戮の場面。
そして人魔戦争は統率を崩したまま再開した。
人側も魔族側も、民は飢え、常に戦火に怯えて生き、大量に死んでいく。
人族と魔族の民が一緒に作った青空演芸場が、打ち壊されていく。市のテントは焼かれ、後には閑散とした石畳の道だけが残る。
つう、と頬を流れる涙の感覚で、カトリーヌの意識は現実のカトリーヌの部屋へと引き戻された。
床は濡れ、ガラスの破片が散っていた。その合間に、すっかり息絶えたドー・フィッシュたちが転がっている。
(あんなことは決して起こってはいけない)
床の惨状を眺めながら、カトリーヌは思う。
魔王城で過ごした日々で知ったのは、種族を越えて、愛し合えるということだ。
領民たちだってそうだ。人族も魔族もこの一年で互いを知って、誤解を解き、交流を深めている。それは双方の民にとって、良い結果をもたらしているはずだった。
それに、魔族と人族が共存している国も遠く海を隔てたところにあると、カトリーヌは王子から聞いていた。海や空に住まう種族と交流のある魔族たちは、多くのことを知っていた。
海の向こうの、夢のような国。この国も、これからそうなっていけるはずだった。
「こんな未来は絶対に変えないといけないわ。前の世界に戻ってしまう。いえ、もっと酷い世界になってしまう」
拳を作って自分に言い聞かせる。そうするしかない、と思っている。
けれど、同時に恐怖も生まれていた。
死への恐怖。根源的な恐怖は、カトリーヌの気持ちを大きく揺るがせる。これまでにない大きな改変は、どれだけの反動をカトリーヌにもたらすだろうか。
怖い、怖い、怖い。
肩を抱きしめて震えるカトリーヌの肩に、そっと、ショールがかけられた。
振り向くと、いつの間にかフェリクス王子が部屋にいた。
「ノックの返事が無いので入ってしまった。どうした? 眠れないのか?」
そう言ってカトリーヌの前に回り込もうとした王子は、ガラスの破片を靴で踏み砕いて、眉を潜めた。
「何が起きた? 魔力を溜めた水差しが割れているが」
「嫌な夢を見て、触れたら、砕けました」
その後に先見をした――というよりも向こうから
俯くカトリーヌの頬に、王子の指が触れた。
「それだけか? 震えて、涙まで流しているのに、本当にそれだけなのか? どんな夢を見た?」
「それは……」
口ごもるカトリーヌが、なにげなく肩に手をやった。先程かけられたショールが、指に触れる。とても薄く、軽く、しかし暖かい。絹のようだが、絹よりもさらに滑らかだ。
心地よい手触りに誘われてショールを撫でていると、王子がショールを胸の前で結んでくれた。
「アラーニャの糸だ。子を包むときにだけ吐き出す特別な糸で、一度に少しずつしか吐けない。赤子を助けた礼にと、渡して欲しいと頼まれていた」
「アラーニャの……」
「あれは最後まで人間を城に迎えることに反対していた。まあ城の守りでもあるからな、警戒心が強いのだ。だが、君を認めた。直接礼は出来ないようだが、時間をかけてこれを編んだ」
アラーニャの糸、城の守り。その言葉で、また惨劇の模様が蘇る。
糸を張り巡らせて、敵の体を両断していくアラーニャ。彼女が同じ口から吐き出した糸は、こんなに暖かく赤ん坊を包むのに。
ああ、やっぱり、先見した未来は防がないといけない。
ショールを掴みながら、カトリーヌは心を決めた。
「……フェリクス様、告白しなくてはいけないことがあります。私、先見をしたんです。恐ろしい光景が向こうからやってきたのです。聞いてくれますか?」
顔を上げて、フェリクス王子に伝える。
王子は、真剣な眼差しでカトリーヌを見つめると頷いた。
「どれだけ恐ろしい未来でも、君と僕の未来だ。聞こう。聞かせてくれ」
そこでカトリーヌは、見たもの語り始めた。語るうちに、一度収まった震えが再び蘇える。
王子に抱きしめられながら、彼女は全てを伝えた。
語り終えたころには、日が昇り始めていた。
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