第10話 未来を変えると……

「ガギィィィィーーーー!!! ピィーーーーーギャ!!」


 アラーニェの口から、鳴き声と共に糸が紡ぎだされる。

 白く透ける糸は四方に広がり、天井に、壁に、床にとくっついて、あっという間にカトリーヌたちを閉じ込めるような陣を作り出す。糸自体が意思を持っているかのように、自在に糸を操っている。

 

「キィン!」


 将軍の腕に抱かれた赤ん坊が共鳴するように鳴いて、アラーニェの血走った目が赤ん坊に注がれた。

 

「おぉ、まずいぞぉ! アラーニェが怒っておる!」

「『あんたたちっ、あたしの坊やになにしてんのよっ』みたいな感じすね」

 

「なんでそんなに呑気なんですかっ。アマデウスさん、サージウスさん、赤ん坊を私に!」


 誤解を解いて、赤ん坊をアラーニェに返さなくては。

 カトリーヌは将軍の腕の中の赤ん坊を受け取ると、急ぎ足でアラーニェの元へと向かおうとした。


「危ない!……ぐぅ……っ」


 王子が、カトリーヌの前に出て、アラーニェに背を向ける形でカトリーヌと赤ん坊を抱きしめる。その声は、苦しげなうめき声に変わった。


「フェリクス様? なにが……」

 

 顔を出そうとしたカトリーヌだが、抱え込むようにして頭を押さえつけられる。

 

「動くな。アラーニェの糸は刃と同じ。触れればその美しい肌に傷がつく」

 

 かすかに血の臭いがする。

 頭を押さえつけられた体勢のまま床を見れば、そこには血が落ちていた。

 ハッと気づいて、目だけで周囲を見る。いつの間にか、すっかりアラーニェの糸が作る結界に取り囲まれていた。

 そういえば、とカトリーヌは思い出す。

 城を掃除するときにはアラーニェが張った『巣』に気をつけろ、と王子に言われたことがある。

 触れれば箒の柄くらい簡単に両断されると。

 

 王子が止めてくれなかったら、今頃細切れになっていたかもしれない。そして、自分を止めるために王子は怪我を負った。

 恐ろしさと申し訳無さ。カトリーヌは冷たい汗を流しながら、全身を震えさせる。

 その間にも、アラーニェ親子は甲高い鳴き声で互いを呼び合っていた。

 

 怖い。

 怖い。

 でも。


「アラーニェ! 聞いて! 私たち、赤ちゃんを助けていただけなの!」


「ギィィーーー!!!」


「怒らないで、糸を解いて。この子まで傷ついてしまうから!」


「ギャギィーーーーーーー!!!!」


(だめだわ。とても通じる気がしない)


 困り果てたそのとき、カトリーヌの腕のなかの赤ん坊が、「キィ!」と短く鳴いて腕から飛び出した。

 小さな蜘蛛というものは、よく跳ねる。

 かつての王城の、地下にあったカトリーヌの居室。そこに居着いていた小さな黒い蜘蛛を思い出した。

 他の者たちは不気味がって潰そうとしたけれど、ぴょんぴょん跳ねる小さな蜘蛛が潰されるのは不憫で、カトリーヌは自分の部屋に放していた。ふとした折にその蜘蛛を見ては、部屋に一人きりじゃないと励まされていた。


 そんな蜘蛛たちのように、小さな八本脚の赤ん坊が跳ねて、母親のもとに向かおうとする。

「キュキィ。キュゥ」

 甘えた声を出して――。

「ギィーィ! ギュイ! ガギ!」

 アラーニェも赤ん坊を呼んで――。

 

「だめ! 行ったらだめ!」


 八本の脚でぴょんぴょんよちよちと歩く赤ん坊の前に、光るものがある。

 糸だ。


 恐れはなかった。なにを考えるよりも先に体が動いていた。

 何のためらいもなく飛び出すカトリーヌを、フェリクス王子は止められなかった。


 赤ん坊に手を伸ばす、その腕を覆う袖が避ける。

 頬に熱い痛みが走る。ふわふわとゆれるプラチナブロンドの髪が、糸に切られて舞い落ちる。

 赤ん坊の顔が、今まさに糸に触れようとした瞬間、アラーニェの悲痛な鳴き声が聞こえた。

 だがカトリーヌは間に合った。ずたずたに破れた裾、血の滲む腕、ほつれた髪。それだけの犠牲で赤ん坊が助かったのなら、良かった。そうカトリーヌは安堵した。


「キィ、キュゥイ!」

「ギィー! ギャッ! ギャッ!」


 赤ん坊の甘える声と、アラーニェの、いくぶん穏やかになった声が聞こえる。

 顔をあげると、すっかり穏やかな表情にもどった美女蜘蛛、アラーニェの顔があった。仰向けの状態で胴体から脚が生えているため、顔の天地は逆だけれど、それでも美しい顔であることに変わりはない。先程までの鬼の形相が嘘のようだった。

 

 アラーニェは自身が吐き出した糸を吸い込んでいく。シュルシュルと巻き取られて美女の唇に戻っていく糸は、不思議に官能を感じさせる光景だ。

 危険な糸が無くなったことを確認したカトリーヌは、赤ん坊を放してあげた。母のもとに一直線に飛んでいく赤ん坊蜘蛛は、元気いっぱいだ。母蜘蛛の腹に乗って甘える姿を見て、カトリーヌの心は切ないような幸せでいっぱいになった。


(おそろしい光景が、本当のものにならなくて良かった)


 カトリーヌに見えていたのは、糸を張ってシャンデリアに登ったものの、絡まって宙吊りになる赤ん坊の蜘蛛。赤ん坊は落下して、大怪我を負う。アラーニェは深く悲しんで、城中がそれを見守るしか出来ないでいる。

 アラーニェの庇護者であり、友人でもある、カーラ王妃の嘆きは特に深い。

 思い出すだけで心が痛むが、その不幸は避けられた。


「なんという騒ぎなの? あらやだ! 怪我をしているじゃないカトリーヌ!」


 緑の香りを連れて、広間に入ってきたのはカーラ王妃だ。


「アラーニェに坊やまで、ここで何をしているの? 一体なにが起こったというの?!」


「それについては、僕から説明します」


 フェリクス王子が混乱するカーラ王妃の前に出た。彼の服にも血が滲んでいる。カーラ王妃の下半身からのびる蔦たちがざわついたが、王妃は冷静を保っていた。




「――というわけで、カトリーヌがこの赤ん坊を助けたのです」


 カトリーヌの肩を支えながら、フェリクス王子がそう語りを終えた。

 説明を聞きながら、驚いたり考え込んだりと、忙しく反応していたカーラ王妃は、ついには王子とカトリーヌをまとめて蔦で包んで撫でた。蔦に生えた蕾が見る間に膨らみ、赤い小さな花がどんどんと開いていく。

 

「まあまあまあ! ありがとうカトリーヌ! アラーニェの坊やになにかあったら、彼女はどれだけ後悔したでしょう。私も、アラーニェと一緒に嘆くことしか出来なくなるところでした」

 

「ここにいる皆さんの協力で出来たことです。お礼は私から皆さんに伝えたいくらいなんです」


 振り向いて、広間に揃った面々を眺める。

 柱になってくれたチェリーたち、赤ん坊と王子を受け止めてくれたアマデウス将軍、首なし騎士のサージウス……はあまり活躍の場がなかったけれど。そして何より、赤ん坊を助けるために高いところにまで登ってくれた、フェリクス王子。


「皆さん、本当に、ありがとうございました!」


 ぺこっと頭を下げる。王子が、労わるように肩を抱いてくれる。

 頬の傷に触れた王子の眉が顰められる。


治療ヒールは使えないのだが、冷やすことくらいは出来る」


 傷を撫でる指先から、冷たい気が送られてくる。傷の熱が痛みと一緒に奪われていき、気持ちがいい。

 自然と瞼が下り、腕の力が抜け、肩と腰が重くなり、抗いがたい疲労が脚に伝わって、――。


(あれ、私……)


「カトリーヌ! カトリーヌ!?」


 膝から崩れ落ちそうになったところを、王子に支えられた。


「サージウス! 今すぐ赤騎士を召喚しろ! チェリーたちは水とタオルを用意しろ! 僕はカトリーヌを部屋に運ぶ!」

 王子の声が頭に響いて眩暈がする。カトリーヌが、大丈夫です、と言おうとしたときだ。体がふわりと持ち上げられた。

 一瞬、何が起こったか分からなかった。王子の腕の中で、横抱きにされていると気づいた時には、もう王子は足早に広間を飛び出していた。


「ギィ、ギギ……」

「ええ、フェリクスに任せておけば心配ないわ。貧血かしらね、きっと、安心して疲れが出たのよ」


 アラーニェの不安げな鳴き声と、それに答えるカーラ王妃の声が、遠くから聞こえてきた。


(貧血……そうか、これ、貧血というものなのね。すごく怠くて、何も考えられないわ)


 薄目を開けて、王子の顔を見上げる。

 その険しい表情を見て、ずいぶんと心配をかけてしまった、と思う。それでも――。


(恐ろしい未来を変えることが出来て、良かった……)


 安堵に身を浸しながら、カトリーヌはゆっくりと瞳を閉じた。

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