第9話 赤ちゃん蜘蛛の救出作戦

「とうとう僕は自分の部屋の窓を拭いて、空気の入れ替えなんかしてしまった。サージウスが笑っていたよ」


 なんでも、王子の部屋を訪れた灰色の首なし騎士サージウスは、「王子はすっかり掃除教に入信された」と手も叩かんばかりに笑ったそうだ。手は叩かなかったが、首は落ちたと聞いて、カトリーヌはすっかり可笑しくなってしまった。


「それは素敵なことですわ。フェリクス様のお部屋は私でも入れませんもの」


「いつ呼ぶかを僕としては考えているところなんだがな」


 そう切り替えされてカトリーヌの耳は熱くなる。

 実はまだ、朝を共にしていない。婚姻の儀の夜には、形として王子が部屋を訪ねてきたけれど、手の甲にキスをしただけで、出て行ってしまった。

 自分があまりに緊張していたから、王子は気の毒に思ったのだ……とカトリーヌは反省したけれど、もう遅い。

 その後、改めて夜に通い合うにはきっかけがないと難しい。カトリーヌからも言い出せず、王子からの誘いも無かった。

 

(や、やっぱりフェリクス様もどうしようか悩んでおいでなんだわ)


 いっそ強引に来てくれたなら、と思ったこともあったけれど、フェリクス王子の気遣いをそんな風に感じてしまう自分も恥ずかしかった。

 ぐるぐると考えて固まるカトリーヌに、フェリクス王子は静かに近づく。

 そして、マーブル模様の薔薇を手渡した。


「あ、ありがとうございます! いい香り……初めて見る花です」


「マダラ薔薇という。あまり嗅ぎすぎない方がいい。……これは恋人同士が、より睦まじくなるときに使う花だ。成分を精製しなければ効果は強くないが、香りだけでも幾分か作用はある」


「睦まじく……!? え、と、その。フェリクス様……?」


 上目遣いにカトリーヌがフェリクス王子を見つめたときだ。

 王子が花束ごと、カトリーヌを抱きすくめた。ぽわん、ぽわん、ぽわわん。

 心がそわそわするような、例の感覚がある。

 固まる彼女の耳元で、王子が低い声で囁いた。


「これは、君の部屋に似合うと思って選んだ花だ。それから、君に近づくことを許して欲しいという、僕の気持ちだ。……飾ってくれると嬉しい」


 そう言って、王子は一歩下がった。

 もう少し、もう少しだけ腕の中に居たい。そうカトリーヌの心が叫ぶ。

 気づけば手が伸びていて、自分から王子の胸に飛び込んでいた。

 二人の間で押し潰された薔薇が、抗議の声を上げるように濃厚な香りを放つ。


 王子の細い顎が目の前にある。唇が、近づいて――。

 吐息が唇に忍び寄る。柔らかく触れ、そして離れた。


「ま、マダラ薔薇の香りとは、とても罪深いものですね!」


 思わず背を向けたカトリーヌだが、次の瞬間に息を詰まらせた。

 背中から抱きしめられている。動悸は止まらないけれど、不思議な安心感があった。世界から守られているかのような。


「香りのせいではなく、僕は僕の欲望としていま君に口付けた。許してくれるか?」


「ははは、はいっ! 私も……です」


 ぽぽぽぽぽわん。わん。わん。ぽわ、わん。


 心の疼きが激しくなる。そしてとうとう、ヒビの入っていた卵のようなものの殻が、完全に割れた。


 ぱぁん!


 頭のてっぺんから、指先、つま先、なんなら髪の毛の先に至るまで、力が巡っていく。それまでは生ぬるい低気圧の風のようだった、力の気配は、暴風に姿を変えた。

 向こうから沢山の、ものがやってくる。体を突き抜けていく。

 そして、彼女は『見た』のだ。


 カトリーヌは王子の腕の中で体の向きを変え、王子に向き合った。


「どうかしたか?」


「大変ですわ、フェリクス様。広間へ!」


 マダラ薔薇を取り急ぎチェストの上に置くと、カトリーヌは部屋を飛び出した。


「どうしたと言うのだ!」


 そう叫びながら、フェリクス王子がその後を追った。

 

「どしたのー」

「なにごとー」

 いつの間にやらチェリーたちが集まってくる。

「フェリクス王子なにしてんすか?」

 騒ぎを聞きつけた首なし騎士・サージウスもどこか楽しげに着いてくる。


「知らん! カトリーヌが突然走り出したのだ!」


「全然分からないすけど、面白そうだから見に行きますね。あ! しょうぐーん!」

「うぉい! 王子殿なにをされておりますかぁ!」


 軽やかに走りながらサージウスが手を振る先には、曲がり角を曲がってきたところのアマデウス将軍がいた。黒衣の将軍の声は相変わらず山崩れの音のように恐ろしく響くが、必死に走るカトリーヌの耳には入らない。


「勝手にしろ!」


 カトリーヌの背を追いながら、王子はやけくそで声を張り上げる。


 一団は連なって広間へと突入した。

 広間はがらんとして、静まり返っている。

 何も起こってはないではないか、と王子が広間を見渡したときだ。


「あれ! 上です上! あそこに赤ん坊が居るんです!」


 カトリーヌが指差す先、広間に吊られたシャンデリアには、糸に絡め取られた赤子がぶら下がって居た。

 キイキイと鳴く赤子が手足を動かすと、糸がくるくるとねじれ、赤子は宙吊りのまま回転する。細い糸は頼りなく今にも落下しそうだ。

 赤ん坊の手足は短く、また、生え方も本数も人間とは違う。

 八本の手足が体の脇から生えている。地面にその手足をついたとしたら、赤ん坊の腹は天を向くだろう。

 要するに、人間の体を持つ蜘蛛なのだが、胴体の部分は常に仰向けだ。


「アラーニェの赤ちゃんだー!」

「大変だよ、落ちちゃうよ!」

「受け止める? 受け止める?」

 シャンデリアの真下に集まったチェリーたちが口々に騒ぐ。

 

 アラーニェは女の体を持つ大蜘蛛で、カーラ王妃の庇護下にいる。ペットのような、友人のような、カトリーヌにはよく分からない関係だ。ただ、カーラ王妃がとても大事に思っていることは分かる。

 最近生まれたアラーニェの子どもを、王妃が孫のように可愛がっていることも知っている。

 王妃を悲しませてはいけない。

 そしてなにより、赤ん坊は絶対に守られなければならない! その思いでカトリーヌは、ここまで走ってきた。

 

 突然見えてしまった悲劇の光景。それが本当に起こることなのか、なぜそれが見えたのか、そんな疑問もあった。でも、考えるよりも先に足が動いた。

 

 無我夢中に走ってきたので息がすっかり上がっているけれど、休む暇はない。

 チェリー達のピンク色の頭の山をかき分けて、カトリーヌが赤ん坊の下に立った。


「誰かこの子を助けてあげて! もう、もたない!」

 声が裏返るのも構わず叫んだ。

 カトリーヌの喉から、血の成分を含んだ息が上がってくる。

 

「そんなこと言ったって俺たちにはどうしようもないっすよお……いってぇ!」

 サージウスが言うのを、アマデウス将軍が殴りつけて兜の頭が転がる。

 転がった頭はフェリクス王子の足元にまで転がって止まった。


「あ、それ拾ってくれ、ませんね。はい」

 サージウスの言葉を無視して、フェリクス王子は前に進み出た。

 そして張りのある声で告げた。

 

「チェリー達、連なって柱になれ。僕が登ってあの子を助けよう」

 

「フェリクス王子殿ぉ! 危ないです、我におまかせをぉ!」

 アマデウス将軍の声で、びりびりと空気が震える。

 赤ん坊を吊るす糸も震える。広間に居た全員が一斉に口に指を当てて、しぃー! と将軍を睨みつける。

 

「将軍殿では重すぎる。チェリーが耐えられないだろう。僕ならば問題ない。僕が行くべきだ」


 きっぱりとそう言いきった王子は、チェリー達に素早く指示を出して蔓同士を絡めて柱をつくらせる。

 梯子はしごと柱の中間のようなものが出来上がり、王子は短く息を履いてから、意を決したように登り始めた。


「フェリクス様、気をつけて……! 赤ん坊をどうぞ、お守りください」


 カトリーヌは手を組んで、目を開けたまま祈る。目をつぶってしまうと、先程悲しい光景が蘇りそうだった。

 落下する赤ん坊。発見して悲しむアラーニェ。

 そんなことは起こってはいけない。


 チェリー達の柱に登ったフェリクス王子が手を伸ばす。あともう少し、というところで、また赤ん坊が動く。糸がとうとう、切れた。落下する赤ん坊を受け止めようと、王子はとうとう柱から両手を離した。


「フェリクス様っ!」


 落下していく姿を見たくないのに、目が離せない。空中で体を反転させる王子が、スローモーションのように、やけにはっきりと見える。

 赤ん坊を守るように抱きしめたまま落下した王子は、しかし、その下で待ち構えていたアマデウス将軍の太い腕に収まった。


「むぅぅ、王子殿、無事であられるかぁ!」


「大丈夫だ。だが、少し耳にダメージを負った」


「なんとぉ! ぶつけられましたか!」


「煩いのだ、将軍。貴様の声が」

「ギキィィィイイイイィィ!!!!!!」

 

 王子の答えに、火のついたような泣き声が赤ん坊の泣き声が被さった。


「おお、おお、どうされた赤子殿。王子の抱き方がお気に召しませんでしたかな」

 小声で言った将軍が王子の腕から赤子を取り上げる。

 

 「貴様の声に驚いたのだろう」

 というフェリクスの抗議は、赤ん坊をあやす将軍の声と、赤ん坊のキャッキャとした笑い声にかき消される。

 納得いかぬという顔をしながらも、将軍の腕の中の赤ん坊を見つめる王子の眼差しは優しさに溢れていた。

 

 ホッとしたことで腰が抜けていたカトリーヌだけれど、そんなフェリクス王子の姿を見たら、今すぐにでも抱きつきたくてたまらなくなる。

 

「王子! ありがとうございますっ!」


 覚束ない足で立ち上がり、王子の胸に飛び込むようにして抱きついた。


「ずるーいアタシたちにもギューしてー」

「がんばったよー」

「アタシすごい踏まれたよー」

「アタシの蔦、まだ絡まってるたすけてー」


 まだ解けきれないチェリー達が、塊のまま寄ってくる。

 それをサージウスがしっしっと払い、「お邪魔したらあとで怒られるぜ」と軽口を叩く。

 一言余計だけれど、でも今は王子に少しでも長く触れていたいから、ありがたくもある。


「よかった、フェリクス様が怪我をされたら、私どうしたらいいか……」

「無事なのだから、そんなに泣きそうな顔をするな」

「でも、でも私のせいでフェリクス様が危険な目に」

「良い。君が知らせてくれたお陰で、悲劇を避けられた。赤ん坊の声が聞こえたのか?」

「あ、それなんですけど……」


 カトリーヌがそう言いかけたときだった。


「ギィィィィーーーー!」


 耳をつんざくような鳴き声が聞こえてきた。

 全員が振り向いた先、広間の入り口には大きな女の蜘蛛のモンスター、アラーニェが居た。

 逆さ向きについた頭には美しい女の顔がついているが、いまや怒りで人相が変わっている。

 目は血走り、真っ赤な白目が広間にいる全員を睨みつけていた。

 

 

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