第8話 マダラ薔薇と先見の力
「――懐かしい、あれからこの料理名が変わったのだったな」
婚姻の日を懐かしみながら、フェリクス王子が言った。
「ふふ、そうですね。ただの『ヒュドラーの生き血のスープ』だなんて勿体ないですから」
「『朝採れ』に『魔王城風』。僕たちには無い感覚だったから新鮮だった。ゴーシュなんかは照れて最後まで反対していたがな」
「そうなんです。でも、今年も料理名を使ってくれましたね」
スープを忙しく口に運ぶ合間に、口を手で抑えながらカトリーヌが言った。
「あれで喜んでいるんだ。ただ、讃えられることに慣れていない」
「喜んでくれていたなら良かったですわ。なにしろ、私ったらずいぶんとはしゃいでしまっておりましたから」
カトリーヌが王城でこき使われていたころ、朝採れ野菜や果物を行商が売りに来るのをよく見ていた。
料理係たちは追い返していたけれど、安くて新鮮な野菜を求めて、使用人たちはこっそりと彼らを利用していた。とくにそのままかぶりつける、水々しいトマトや瓜、それに甘い果実が人気だ。
カトリーヌは賃金をもらっていなかったので、指を咥えて見ているだけだったけれど、ある日、売れ残りの桃をもらった。夢のように美味しかったのを、ずっと覚えている。その時に縁のなかった人の優しさもふくめて、思い出の味として心に残っている。
だからカトリーヌは、新鮮で美味しい食材は『朝採れ』と呼びたい。
そして魔王城料理長であるゴーシュの腕を讃える意味で、『魔王城風』とつけた。
ゴーシュの名前をつけることも考えたけれど、多分恥ずかしがるだろうということで、『魔王城風』だ。
「パンあるよー」
「パン食べなー」
「小麦は子宝にいいよー」
口々に言いながら、チェリーたちがやってくる。カトリーヌとフェリクス王子の間に、籠に入った山盛りのパンを置いていった。
「もう、最近はチェリーたちったらそればっかり」
火照った頬を両手で抑えるカトリーヌの皿に、フェリクス王子がパンを置いてくれる。
「まあ、 ありがとう」
「随分と腹を空かせているようだったからな」
「そうね、ペコペコだった」
パンを手にとって、千切ろうとしたカトリーヌの手をフェリクス王子が止める。
「うん、考えてみれば確かに君は腹を空かせすぎている」
なんだろう、と顔をあげると、どこまでも深い紫の瞳が、真っ直ぐにカトリーヌを見つめていた。
「チェリーたちによると……」
そう言ってフェリクス王子はカトリーヌの千切ったパンを取って、宝石でも検分するように明かりに透かして眺める。
「君はティータイムの菓子は全て残していたそうだな。体調でも悪かったか?」
「はい。ええと、……いえ」
「君はヒュドラーの血が採れる季節を待ち望んでいた。今日の晩餐か、明日か、そうやってソワソワしていた」
「はい……」
カトリーヌがすっかり萎縮したところで、フェリクス王子は手元のパンをカトリーヌの唇へと運ぶ。
反射的に口を開けて、パンの餌付けを受け入れる。
口中の水分を奪われながら、咀嚼する。水がほしい、などと言える雰囲気ではない。
フェリクス王子は背もたれに深く体を預け、ため息をついていた。
「カトリーヌ、
「……ひまひた……」
パンを飲み込めないままのカトリーヌは、情けない声で告白した。
「未来を見る力は。世界にも能力者にも、過大な負担がかかる」
「ふぁい」
表情を観察するまでもなく分かる、フェリクス王子はいま、本気で怒っている。
先見の力を使ったカトリーヌを心配するが故の怒りだ、ということは分かる。カトリーヌを心から思っているからこその。
それでも、普段は寡黙なだけに、フェリクス王子に理詰めで諭されるのは緊張してしまう。
「もうひまへん……」
「そうしてくれ。勿論、洗濯物ごときのために使うのも厳禁だからな」
すっかりしょげてしまったカトリーヌに、フェリクス王子がグラスに入ったエールを手渡す。
両手で受け取って口をつけると、もそもそしたパンはやっと喉を下りていった。
「洗濯物ごときだってー」
「雨が降ったら大変なのにね」
「アタシたちの苦労を分かってないよね」
途端に周囲のチェリーたちが騒ぎ出す。
先見の力が発動してすぐのころは、力の使い道を探って色々と家事に役立てたものだ。
雨を察知して、チェリーたちと一緒に洗濯物を取り込んだのもそのうちの一つ。チェリーに感謝されて、カトリーヌとしても嬉しかったのだが……。
「カトリーヌの命と比べたら『ごとき』だ」
そうフェリクス王子は切り捨てた。
怒られた、と思ったのか、チェリーたちは固まってカトリーヌの椅子の後ろに隠れる。
背中をぎゅうぎゅうと押すチェリーたちの頭を撫でてやりながら、カトリーヌは先見の力に気づいたときのフェリクス王子の剣幕について思い出していた。
◇
嫁いでから半月ほど過ぎた頃のことだった。
その夜、カトリーヌは部屋に飾られたマダラ薔薇を眺めていた。
当初に比べて、部屋は格段に片付き、明るくなっている。カトリーヌの掃除のたまものだ。
とはいえ、チェリーたちが用意してくれた、足元まで埋め尽くす枕や、逆さの天蓋、ドー・フィッシュの泳ぐ水差しは手をつけていない。初めて嫁いだ日に、魔族の心遣いと、双方の文化の違いを教えてくれたインテリア達は、カトリーヌのお気に入りだ。目にするたびに、心が嬉しくなる。
それ以外の、ランプの埃とか、カーテンの汚れとか、窓の曇とか、床の塵とか、そういったものを少しずつ掃除していったところ、部屋はすっかりカトリーヌの落ち着く場所になった。
魔王城の住人として、やっと城が認めてくれたような、そんな喜びがある。部屋が、城が、カトリーヌの居場所になったとしみじみ思っていた。
ときおり部屋を訪れるフェリクス王子が、感心してあれこれと訊ねてくれるのも嬉しい。
「箒が欲しいと言われた時は、何かの術にでも使うのかと思ったが、なるほど床を掃くわけか。しかしカトリーヌ、昨日もやっていなかったか?」
掃除中に訪れた際には、そんなことを訊ねられた。
「塵や埃というものは毎日溜まるものですわ。毎日掃き清めるのが大事なのです」
「きりが無いではないか! 溜めてから、窓の外にでも吹き飛ばせばいい。つむじトンボを捕まえて使役すれば済む話だ」
「それでは、部屋と仲良くなれません。部屋は、毎日手入れをすることで主人として認めてくれるものです」
カトリーヌの言葉は亡き母の口癖だった。母の部屋はいつでも清潔に保たれていて、良い匂いがした。
部屋の空気も気持ちよく、部屋の主人である母を好いているように感じた。幼くして母を亡くすまでの、ほんの僅かな思い出だけれど、幸せに満ちた思い出は、いつもでもその部屋とともにあった。
その時のフェリクス王子は、唖然として頭をふり、「分からん」と言った。
「何もしなくとも、僕の部屋の主人は僕だけどな……」
部屋を退出する間際に、納得いかないという風にそんなことも呟いた。
カトリーヌの掃除の陣地はどんどんと広がり、魔王城の廊下、バルコニー、夫婦の晩餐の間、にまで及んだ。
なにしろ嫁入り前に住んでいた王城では、使用人の誰よりも早く起き、誰よりも働き、誰よりも遅く寝ていたのだ。魔王城での生活は、暇すぎる。
そんな中、フェリクス王子はとうとう観念したように言った。
「カトリーヌ、僕の負けだ。僕は廊下の床を見てもバルコニーで風に当たっても、ずっと君の胸のなかに居るような気持ちになっている」
淡々と告げる彼の手の中には、赤と白のマーブル模様の花びらの薔薇があった。
美しいけれど、見たことのない薔薇だ。カトリーヌは花びらに視線を注いだまま、フェリクス王子の次の言葉を待った。
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