第3話 料理長はゴブリンでした
『1.生の脳みそは 好き・どちらかというと好き・焼いた方が好き・どちらかというと嫌い・嫌い・その他』
一行目から、カトリーヌには意味の分からない質問だ。
「脳みそ!? 生の!? そんなものを食べる!? 信じられない……やっぱり魔族に嫁ぐなんて、無理だったのかもしれないわ……」
血なまぐさい食事風景を想像して、カトリーヌの覚悟はゆらぎそうになる。逃げてしまいたい。
しかし、逃げることはできない。
(民のため、国のため、平和のため。私のわがままを、火種にしてはいけないの。平和の、ため……)
ここに来るまでに何度も唱えた言葉を胸のうちで唱えて、やっと心を落ち着かせると、カトリーヌは書き物机に移った。
机の上にはインクと羽根ペンが用意されている。
見たことのない極彩色の羽根ペンを手に取ると、羽根の部分から星屑のような光が溢れた。
わさわさと羽根が揺れ、ペン先代わりの、鉤爪が動く。
「ヒッ!」
驚いて放り投げるが、ペンは羽ばたいてまたカトリーヌの手の中に戻ってきてしまう。
早く書け、というように羽根が揺れ、光の粒がカトリーヌのスカートに落ちた。
「わ、分かったわ。書けば良いんでしょ。インクに浸けるからね」
鉤爪をインク壺に浸すと、爪はくいくいっと動く。インクが散ってカトリーヌの頬に飛んだ。
なんて扱いにくい羽根ペンなのだろう、とカトリーヌは恐怖も忘れて呆れてしまった。これから万事がこの調子なのではないか、という確信に近い予感もある。
しかし、ただの羽根ペン一本にまごついていては、これからの魔王城での生活なんて、とてもままならないだろう。
カトリーヌはキッと厳しい顔を作って羽根の部分を握った。
「大人しく文字を書かせてちょうだい! じゃないとこの綺麗な羽、むしっちゃうんだから! 私、鶏肉の下処理だって沢山してきたのよ。どうやってやるか聞かせてあげましょうか?」
そう脅してみると、ペンは途端に真っ直ぐになった。
羽根の色が全体的に青っぽくなって、羽毛はしおしおと萎れている。
「うん。そうしていてくれたら良いわ。脅してごめんね」
少しペンが可哀想になったのでそう言ってやると、ペンの羽根は頷くように上下に揺れた。
ペンと仲直りをしたところで、カトリーヌは改めて質問状の回答にとりかかる。
「嫌い、にチェックするのは、なんだか失礼な気もするし、どうしよう。生よりは火を通した方が……でもそれで脳みそのグリル焼きをわざわざ作ってくれたとしたら? 食べられない、なんてなったらもっと失礼」
うんうんと頭を悩ませたカトリーヌは、結局『その他』にチェックをつけた。
その下には『食べたことがありません』と付記しておく。正直に答えるのが一番だろう。
インクは見たことのない濃紺で、角度によっては白色にも紫色にも赤色にも光る。
(不思議で恐ろしいけれど、ちょっと綺麗だわ。昔、お母様が身につけていらしたオパールみたい)
誘惑するようなインクの色に見惚れながら、カトリーヌは亡き母を思い出していた。美しくて優しかった母とは幼い頃に死に別れている。母が亡くなってから、城では辛いことばかりだったけれど、幸せな思い出を宝物にしてなんとか生きてきた。
カトリーヌの頬を、涙が伝う。様々な色へと偏光するインクを眺めていると、次から次へと思いが溢れてくるから不思議だ。
と、そのとき、柔らかなものがカトリーヌの頬をくすぐった。
見ると、手から抜け出した羽根ペンが、その柔らかい羽毛で頬の涙を拭ってくれていた。
「ありがとう……なんだ、あなた優しいのね」
そう答えるカトリーヌの手に、今度は羽根ペンが文字を書いていく。
『魔法のインク。ザコは幻惑される。おまえザコ』
「ざっ、ザコじゃない!」
『それなら、弱虫』
「弱虫でもないわ! 魔法のインクなんて、そうと知ってたら惑わされなかった!」
カトリーヌがムキになって言い返すと、ペンは「どうだか?」というように揺れてみせた。
「さっ、次、次! ペンになんて構ってられないんだから! ええと『2.生き血のスープは 好き・どちらかというと好き・生き血はワインが至高・どちらかというと嫌い・嫌い・その他』……う、う〜ん?」
首を捻ったカトリーヌは、ざっと質問状の全体を見渡す。
全部で三十項目あることにまず白目を剥きそうになる。そしてそのどれもが、恐らく似た質問なのだ。
そのときだ。
「おうい! まだ回答は貰えねえんですかい? メニューが決まりませんぜ」
しゃがれた声が扉の外から聞こえてきた。
続けて、思い出したようにノックが二回。「あ、いけねえ」という大きな独り言つき。
「ど、どなたでしょう!」
扉に駆け寄り、閉じた扉に顔を寄せて誰何する。
「料理長のゴーシュでさあ! すんませんが、質問状の回答を貰えませんかね」
荒い口調だけれど、腰の低い人物らしい。それに心から困っている様子だ。
「お待ちください、すぐ持ってきます!」
カトリーヌは急いで書き物机に戻ると、まだ一問しか回答を書き込んでいない用紙を手にとって、扉に向かう。
扉を開けると、そこにいたのはゴブリンだった。ゴブリンというと、昔から恐ろしい魔物として絵本で読み聞かせられている。小さなころ、夜中にゴブリンが怖いと泣いて母親を困らせたこともある。
そんなトラウマを思い出したカトリーヌは、一瞬動きを止めた。
「あ、カトリーヌ様。すんませんね、調理場に立ちっぱなしなもんで、油っこくて、汚えで」
目の前のゴブリンはそう言うと、恥ずかしそうに頭を掻いた。
絵本で見ていたのとは随分と違い、素朴な優しさを感じさせる。
料理長だというゴーシュと実際に顔を合わせたことで、カトリーヌの心は決まった。
にっこりと微笑み、質問状の紙をゴーシュに手渡す。
「ごめんなさい。回答は間に合わなかったのですが、あなたが美味しいと思うものを作っていただいて構いません」
「へ? でもそれじゃあダメだって王子……いやいや、なんでもねえです。とにかくお口に合うものを作らねえとならないんで」
焦って紙を突き返そうとするゴーシュを、やんわりと制して押し戻す。
「多分、ここに書いてあるのは私の食べたことの無いものばかりです。だから、好きとか嫌いとかで答えられません。私は、あなたの一番得意な料理が食べたいです」
「そ、そうですかい?」
まだ納得しきれないという様子のゴーシュだったが、得意料理で腕を振るえるということで、最後には張り切って厨房に戻って行った。
その姿を見送りながら、カトリーヌは密かに自分を恥じていた。
魔族への恐怖はまだ拭えないけれど、それでも、食材や料理について「信じられない」と最初から拒絶して、野蛮だと思ってしまった。魔族側は、質問状まで作ってこちらに歩み寄ろうとしてくれていたのに。
「こんなことではダメだわ。私は今日から、魔王城の住民なんだから」
手の甲に書かれた『ザコ』『弱虫』の言葉を見つめながら、カトリーヌはそう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます