第2話 たった一人での輿入れ

 初めて魔王城を訪れた夏の日のことは、カトリーヌには忘れようもない。

 恐ろしい魔族のなかでも、特別に残忍で強く、先代の魔王を殺害して今の王座に座ったと噂の現魔王。その城を、カトリーヌは一人で訪れたのだ。

 魔王の一人息子の王子との婚姻のために……。


 ◇



「カトリーヌ王女、恐れ入りますがここから先は歩いて参りませ。馬が一歩も動かなくなっちまいました」

 

 御者はカトリーヌにトランクを一つ手渡すと、後ろを振り向くこともなく、さっさと去って行ってしまった。

その馬車を、魔王城の建つ峠の入り口に残された彼女は、ただ見送ることしか出来ない。

 心細かった。

 親切な御者ではなかったけれど、それでも一人になってみると、後戻りできない現実が彼女にのしかかってくる。


「はあ……どうしましょう」


 自分の乗ってきた馬車の姿がすっかり見えなくなると、カトリーヌはため息をつく。


「行くしか無いのよね、行くしか……」


 溢れそうな涙をこらえながら、カトリーヌはトランクを両手で持ち直す。たった一つの小さなトランクに収まっているものだけが、十八年間生きてきた彼女の持ち物のすべてだった。

 のろのろと振り向くと、峠に続く道が見える。そのはるか先に、恐ろしい魔王の住まう城があった。

 

 馬車で通ってきた魔族の領内では、様々な種の民たちが、人間と同じように商売をしたり畑を耕したり、狩猟を行ったりしている姿を見ることが出来た。魔族の子どもたちも沢山見た。極端に小さいのも大人よりも大きいのもいたが、そろって健康に肥えていた。


(少なくとも領民たちは、恐ろしい存在ではないのかもしれないわ。もしかしたら、魔王様も、そんなに怖くなかったりして……)


 領内を見てそう感じていたカトリーヌだが、実際に魔王城を見れば心には本能的な恐怖が芽生える。

 

 尖塔に霧がかかる無骨な城は、カトリーヌを拒んでいるように感じられた。そのくせ、一度足を踏み入れたら出ることは叶わないような、そんな迫力があった。

 

 トランクを抱え直し、大きく深呼吸をする。

 

 魔族の領地は空気も淀んでいて、一歩足を踏み入れるだけで病気になると聞いていたが、王都よりもよほど澄んだ空気だった。

 領内の空気も、領民たちの様子も、噂に聞く地獄のような血なまぐさいものとは違うのが不思議だ。

 でも、これから向かう魔王城内はそうはいかないのだろう。

 

「民のため、国のため、平和のため。民のため、国のため、平和のため……神様、どうか私をお守りください」


 意志がくじけないように、自分を鼓舞する言葉を繰り返す。

 彼女は意を決して城への道を歩き始めた。

 

 

 

 どれだけ歩いただろうか。

 山道を行けども行けども、遠くに見える城は一向に大きさを変えない。

 毎日、王宮でこまねずみのように働かされていたので体力に自信はあったけれど、とても自分の足で辿り着けるとは思えなかった。歩けば歩くほど、絶望は深まる。

 

「はあ、はあ」

 

 息を切らせ、城を見上げたカトリーヌが、道に転がる石に、そうと気づかず足を乗せたときだった。

 

「きゃっ!」

 

 傾いた石に足を滑らせ、足首を捻ってしまった。

  

「このままでは、間に合わないかもしれないわ……」

 

 足首をさすりながら呟く。捻った部分が熱を持ち始めているのが分かる。遠からず腫れるだろう。

 それでも立ち上がらねば。

 輿入れの刻限は今日の昼なのだから……。

 真上に届きつつある陽にせかされながら、カトリーヌが立ち上がろうとした、その時。

 

 前方の道に突然、黒山のごとき騎兵たちが現れた。

 一瞬前までには何もなかった道に現れた騎馬隊の先頭に居るのは、一際大きな馬に乗った騎士だ。真っ黒な甲冑に身を包み、兜の中から光る点だけが彼女を見つめている。

 光は目の位置にあることにはあるが、眼球が反射して見せる光とは性質が違う。産卵期になると鱗の一部を光らせるメーラという魚が居るが、その魚の鱗のようにおのずから光を発しているのだ。

 

 また黒毛の馬の逆立ったたてがみに見えるそれは、よく見ると黒い炎だ。カトリーヌの顔よりも大きな馬の蹄も、黒炎に包まれている。

 後ろに控える騎馬兵たちも、大きさは異なるものの、炎の馬に乗っている。色は青から赤、灰まであるが、すべてが暗い色調でだった。

 

「あ、あの、あの、私。私は魔王様の、その、王子様の、その、」

 

「フェリクス王子のご婚約者、カトリーヌ・ド・マルセス王女に相違ありますな」

 

 びゅうと熱風を吹かせながら先頭の騎士が問う。声は静かなものだったが、城で怒鳴られ慣れていたカトリーヌでも恐怖のあまり気を遠くしてしまうような、恐ろしい声だった。炎の爆ぜる音のような、それに焼かれる亡者の悲鳴のような、そんな声だ。


「ひっ」

 

 正面からその声を浴び、カトリーヌは未体験の恐怖を覚えて気を失った。

 

「カ、カトリーヌ王女ぉ!? どうなされたぁ?」

 

 ごう、という突風のような声を上げて、黒い鎧の騎士が焦って騎馬から降りようとする。

 

「あーあ、だからアマデウス将軍を先頭にするの、反対だったんですよ。戦場ではその一喝だけで人間の兵士の戦意を喪失させてきたのですよ、いわんや、深層の王女様をやですよ、っとと」


 アマデウス将軍、と呼ばれた黒い騎士を止めたのは、脇に控えた灰色の騎士だ。

 騎馬を降りた拍子に彼の兜は転がり落ちて、首の上には『無』が乗っている。

 

「わ、我は優しく言ったぞ! 六歳になる娘に接するときのように言ったのだぞ!」


「はいはい。分かりました。とりあえず城にお運びしましょう。僕が乗せます。あ、将軍は離れていてくださいね」

 

 灰色の騎士の声は、転がった兜の方から出ていた。


「なんでだ?」


 不満げな将軍に向かい、灰色の騎士はチッチッチ、と舌で音を出しながら指を振って見せる。


「分かってないなあ。途中で目を覚まされて、またあなたのお姿に失神でもされたらお姫様の心臓が持ちませんから」


「う、うむ。我はそんなに怖いつもりはないが……あ、でも一昨日からパパと一緒にお風呂入らないと言われてなぁ。のう、聞いておるかぁ?」


「どうでもいいですよ! ほら、早く戻りましょう。王子がお待ちだ。今朝からずっとそわそわしていたんですから」

 

 灰色の騎士はカトリーヌを片手で小脇に抱えると、馬に飛び乗った。


 

 

 カトリーヌが目を覚ましたのは、見知らぬ薄暗い部屋だった。

 大きなベッドから見上げる天蓋は、どこか違和感がある。なにがおかしいのだろう、と見つめてみると、織柄が逆になっているのだ。鈴蘭に似た花の模様であるが、天地が逆さまなので、吊り下げられた獣のように見える。

 足元に柔らかなものが当たるので、身を起こしてみると、足元にも枕がたくさん置かれている。


 ベッドサイドには水差しが置かれているが、中には小さな魚が泳いでいる。

 なんの魚だろうか、と目を細めて見つめたカトリーヌは、次の瞬間のけぞって悲鳴を上げた。

 

「ひっ! し、し、鹿!?」


 糸のように細長い体をした魚の頭には、雌の鹿の顔がついていた。

 魔族領に入ってから異形の生き物はそれなりに見てきたが、これだけまじまじと見たことは無かった。

 

「お目覚めになりましたか」


 唐突に、背後から声がした。恐ろしくて身を硬くするカトリーヌに、再度同じ声が語りかける。


「ここはミノス王様の城にございます」


「ミノス王?」


 背を向けながらたずねると、背後の声の主は小さく笑ったようだった。


「ああ、カトリーヌ様におかれましては、『魔王』とお伝えした方が分かりやすいでしょうか」


「ここは魔王様のお城……なのですね」


「はい。そちらのマルセス王様は、迎えはいらないとの仰せでございましたが、当城への山道は人族の騎馬では通りにくいため、勝手ながらお迎えにあがりましたところ、倒れておられまして」


「そうでした! 私、山で倒れてしまいまして! すみませ……」


 状況を把握したカトリーヌは、急いで声の方へと向き直った。


 倒れているところを運んで貰うなど、最初から迷惑をかけ通してしまった。そのうえ背中を向けて話し続けるなんて、非礼でしかない。

 そんな非礼を詫びようと振り向いたカトリーヌだが、背後の声の主を見て、絶句するしかなかった。

 悲鳴をこらえるので精一杯だ。


「遅ればせながら、わたくし、ミノス王様に仕える四騎士が一人、サージウスと申します」


 うやうやしく礼をしたのは、灰色の鎧に身を包んだ痩身の騎士である。が、声は小脇に抱えた兜から発されており、胴体の上、本来顔が有るべき所にはなにも無い。見上げた彼女の目線は、虚しく背後の窓のカーテンに合わされる。


「……よろしく、お願いします」


 カトリーヌはまたしても気が遠くなるのを感じたが、すんでのところで踏みとどまったのだった。


(ああ、やっぱり魔王城は恐ろしいところのようだわ……)


 これからやっていけるだろうか、という不安がどんどんと膨れていく。

 だというのに、あろうことか、カトリーヌのお腹がきゅうと鳴いてしまった。

 おずおずと、首のあるはずの空間を見つめ、それから、脇に抱えられた兜の頭を見る。兜の方と目を合わせると、灰色の騎士はおどけたようすで兜を前に突き出した。

 兜が喋る。


「婚礼の儀として晩餐を、と王子から提案がありました。ご用意してもよろしいでしょうか?」


「あ、え、はい。晩餐。婚礼。えと」


 婚礼の義と晩餐が繋がらずに戸惑っていると、灰色の騎士は全身でしょんぼりとした雰囲気を醸し出した。顔が見えないのに、こんなに気持ちが分かりやすい相手というのも不思議だ。


「我々は内々で食事をするくらいで、華やかな儀式などをご用意出来ないのですが、やっぱりお姫様としてはガッカリでしょうか? 憧れますよね、結婚式、というものでしたっけ? あれ、素敵ですもんね」


「えっと……」


 ガッカリはしていない。この婚姻に夢を見てきたわけでもない。でもそれを正直に伝えると、この騎士はさらにしおれてしまうだろう。


 言葉につまったところで、またもお腹が鳴ってしまう。晩餐、と聞いたら、自分がいま猛烈にお腹を空かせていることに気づいてしまった。


「あの、とても嬉しいお申し出ですわ。どうぞよろしくお願いいたします」


 恥ずかしさから早口でそう言うと、カトリーヌはぺこりと頭を下げた。灰色の騎士から、ほっとした気配が伝わってきた。


「はい! ご用意いたしますね! ではこれを!」


 そう言ってカトリーヌに一枚の紙を渡すと、彼は恭しく礼をして、部屋から出ていった。


「これ、なにかしら?」


 紙に書かれた文字をまじまじと読んだカトリーヌだが、読んだことでより混乱は深まった。

 食事についての質問状だったのだ。

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