第1話 朝採れヒュドラーの生き血スープ魔王城風(9/4改稿)
「ヒュドラーの血が採れる季節になりましたね〜!」
晩餐の間に入るやいなや、カトリーヌは歓喜の声を上げた。
プラチナブロンドの髪。みずみずしく、甘い蜜を含む桃のような肌。そして透き通った湖のような、エメラルドグリーンの瞳。春の化身のような彼女の全身から、喜びが発されている。
料理を運ぶワゴンの上に載せられた銅製の鍋からは湯気がたっている。湯気に乗って、鍋に入れられたヒュドラーの血のスープの芳醇な香りが部屋全体に漂っていた。
「鼻がいいね」
先に席についていた、魔王の息子でありカトリーヌの夫であるフェリクス王子が答える。
「もちろんです! おいしいものの匂いは、鼻よりなにより、ここが覚えているんです」
カトリーヌは自慢げに答えながら、お腹を指さす。
「それはなによりだ」
王子の返答は短く、声色も表情も平坦と言っていい。それでも、結婚してになるカトリーヌには、彼がこの会話を楽しんでいることが分かった。頬がほんの少しだけ緩むのだ。
きゅうぅ。
そんなことを考えながら着席したところで、カトリーヌのお腹が鳴った。
今日の晩餐がヒュドラーの生き血のスープだというのを『
瞬間、向かい合わせに座った王子と目が合うが、王子はすぐに下を向いてしまう。
(あ、またちょっと嬉しそうにしてる……というより、笑いをこらえてるのかしら)
うつむいて口元を手で抑えるフェリクス王子を見つめながら、カトリーヌは幸せな気持ちでいっぱいになる。
お腹が鳴ったのは恥ずかしいけれど、王子が楽しければカトリーヌも楽しい。
逆に、カトリーヌの嬉しいことは、王子にとっても嬉しいことだという確信もある。
そんな当たり前の事実に気づけたのは、王子がありのままのカトリーヌを受け入れてくれたからだ。
だからこそ、好物のスープの香りに声をあげたり、お腹の虫を鳴らしたり出来る。
「今日は、スープとパンを一番はじめに出してもらうとしよう」
そう言うと、フェリクス王子は手を叩いて、調理場と晩餐の間を忙しく行き来する少女たちの一人に声をかける。
ピンク色のメイド服を着た少女たちは、人間ではない。
スカートから伸びる脚は無数の蔦である。蔦をうねらせてタコのように移動する。
そして彼女たちのピンク色のお下げ髪も、顔立ちも声も身長も……なにもかもがそっくりだ。見分けはつかないが、問題はなかった。
彼女たちは、花の精だからだ。『チェリー』と呼ばれている。
「え? それコースの順番と違うよ!」
一人のチェリーが素っ頓狂な声をあげた。
「料理長、怒らないかな?」
別のチェリーが蔦の脚で音もなく寄ってきて、カトリーヌのドレスの裾を引いて訊ねた。
「そうねえ、じゃあこう伝えて。『料理長のスープが美味しすぎるから、カトリーヌが我慢できない』って」
「ふむ。間違いない、その通りだ」
カトリーヌとフェリクス王子の二人にそう言われたチェリーは、「アイアイサー!」と答えて元気よく駆け出して行った。
ふう、と息を吐き出したフェリクス王子が、ゆっくりとカトリーヌに向き直る。新月の夜のような漆黒の髪が揺れ、黒いまつげに縁取られた紫色の瞳がカトリーヌをとらえて離さない。
恥ずかしくなってそっと視線を下にそらすが、王子はその頰に手を伸ばしてくる。
そのときだ。
カシャン!
という音とともに、スープ皿が二人の目の前に置かれた。
「『朝採れヒュドラーの生き血スープ魔王城風』! いっちょお待ちだよー!」
「『温かいうちに召し上がってくだせえ』って料理長が言ってたよー!」
「イチャイチャしてないで食べるといいよー!」
チェリーたちが元気いっぱいに給仕をしてくれた。
元気すぎるほどの勢いに、カトリーヌとフェリクスは目を見合わせて苦笑いをして離れた。
そんなチェリーたちはこぞってカトリーヌの席に近づくと、褒められたくてたまらない犬のような目で見上げてくる。口元には揃って、つまみ食いのあとが残っていた。
「ありがとう、チェリーたち」
頭を撫でて、口をナプキンで拭ってやると、チェリーたちはくすぐったそうに目を細めた。
「……夫婦として普通のふれあいだ。イチャイチャではない」
むすくれた顔をつくる王子の言葉に興味を示さず、チェリーたちは足早に去っていく。
「チェリーたちったら、困りますね。さ、料理長からの伝言どおり、温かいうちに頂きましょう」
「……」
無言でスプーンを手に取る王子に合わせて、カトリーヌもスプーンを取る。
美味しいスープに、愛しい夫。心がまた、喜んでいる。
ほこほことした気持ちのままスープを口に運べば、複雑に絡み合う旨味が口に広がる。とろみのあるスープが舌をくすぐり、喉をゆっくりと下りていく。芳醇な香りが鼻に抜けていく。
カトリーヌは五感でスープを味わいつくしながら、初めてこのスープを飲んだ日のことを思い出していた。
初めてこの料理を出されたときのカトリーヌの驚きといったらなかった。
けれど、一口食べてすぐに虜になった。
そして気まぐれなヒュドラーが血を採らせてくれる季節は夏と決まっていて、それ以外の季節には出会えない『旬』の食材だと知って、毎日でも食べたいと思ったカトリーヌは絶望したものだった。
(思えばあのときから、フェリクス様は細やかに私に気を使ってくださっていたのだわ。例えば、……)
「うふふ」
「それほど美味いか、カトリーヌ」
知らずに笑いが溢れてしまっていたところを、王子にしっかりと見られていた。
「フェリクス様が初めての晩餐の前に、してくださったことを思い出して、嬉しくなっていたのです」
改めて、あの日の気遣いに感謝を示したくなったカトリーヌは、正直に告白する。
「あれは当然のことで、今更感謝を述べられるほどのものではない」
「何度でも思い出して、何度でも感謝を伝えたいくらい、私にとって幸せなことだったのです」
微笑んだカトリーヌは、スプーンを置くと、姿勢を正す。
「本当に、私を受け入れてくださりありがとうございます」
フェリクス王子はカトリーヌの視線と言葉を正面から受け止めると、無言のままゆっくり頷いた。
話にあがっているのは、二人が初めて顔を合わせた婚姻の日の、晩餐の席での出来事だった。
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