五、真実のち、恋

第13話

♢♦︎♢


 それは中学の入学式を終えた翌日だった。


 朝、いつものように鳥の鳴く声で目を覚ます。


 そしてしばらくぼうっとしてから、寝間着にしている浴衣の合わせに手を通し、枕元に畳んである制服に着がえる。


 姿見の前でで身なりを整えていると、床の間に生けられた白い花が水をかえろと言わんばかりにこちらをじっと見つめていることに気がついた。


 がらんとした和風の寝室は、朝露に湿った畳の香りが充満している。まるでこの家にただよう雰囲気そのものだ。


 オレは格子窓を開けて新鮮な空気を吸った。


(学校、行きたくないな)


 小学校で良好な人間関係を築くことができなかったオレは、すでに楽しい中学生活を諦めていた。


 変わっている、親の七光り、ノリが悪い。そんな陰口はもう聞き飽きている。


 それでも一日中この家にいるよりは、学校に行く方がマシだ。


「おはよう謙信。ちゃんと勉強してくるのよ」


 のろのろと居間に向かうと、訪問着を着付けた母親が玄関から声をかけてきた。


「おはよう母さん。分かってるよ」


「あとその前髪、いい加減切るか上げるかしなさい。うっとうしい」


 母はオレが中学受験に失敗してからより目付き鋭くオレを見るようになった。特に勉学を怠ると見るや否や大声を出して叱りつけてくる。


 多忙な父は家に帰ってこない。


(なんか、ジンセイってこんなもんなのかな。なにも楽しいことないや)


 雲の浮く空を眺めながら重い足を引きずるように登校する。


 同じ制服を着た近所の同級生がオレの姿を見てあからさまに距離を取って歩く。


 小学校となにも変わらない現実が、ついにオレの歩む力を奪っていく。


 学校まで三、四分といったところでオレの足が止まった。そこで永遠にも感じる時間ずっと立ちすくむ。


 オレの後ろを歩いていた生徒たちは不思議な顔をしながら次々とオレを追い抜かしていった。


 嫌なイメージがぐるぐる頭をかけ巡る。


 またオレは周囲に馴染めず終わるのか。


 空気を震わせるように予鈴が鳴った。あと五分で学校が始まってしまうというのに、オレはその場から動けない。


(嫌だ。帰りたい。嫌だ嫌だ嫌だ。帰る? 一体どこへ。家に帰ったところでオレの味方はいない)


 いっそこのまま消えてしまえたら、とまで考えたそのときだった。


「遅刻ーーーっ!!」


 歩道の横の植え込みから突然女子生徒が飛び出してきたのは。


 スローモーションのように、目が合う。


 その凛とした目に前髪で隠した自分の目を見られてギクリとした。


「あ」


 彼女はオレの存在に気づいて目を丸くする。


 スローモーションが終わり、ぶつかりそうになるのをお互いすんでのところで回避した。


「うわっごめんなさい!」


 頭に葉っぱを乗せながらその女子はぺこりと謝ってくる。オレはまだ呆然としていて反応することができなかった。


「新入生ですか?」


「あ、うん……」


「ラッキー! 遅刻ギリギリ仲間発見!」


 彼女は嬉しそうに笑い、あろうことかオレの背中をバシンと押して言ったのだ。


「行こっ」


 そのなんの含みもない笑顔に、鉛のようだったオレの体が一気に軽くなる。


 一歩、二歩、足を進めるうちに、ドタバタと前を走る彼女についていくために足が勝手に走りだす。


「朝起きたらお母さんが熱出しててさあ。色々してたら遅くなっちゃった。入学早々遅刻とかねえ」


「じ、事情があるんだからっ先生に言えば……」


「ちがうちがう! もったいないじゃん」


(もったいない?)


 猛スピードで走る彼女についていくだけで精一杯で、オレは疑問を投げることもできない。


 あっという間にげた箱にたどり着き、彼女は勢いのまま靴をそこらへんに脱ぎ捨て、上履きを引っ掴んで靴下のまま校内を走りだす。


 まるでレーシングカーだ。もしくはバズーカ。オレは一瞬ポカンとして、慌てて彼女と同じようにした。


「あはは。間に合った! じゃあね!」


 本鈴が鳴る数秒前。オレたちは教室の前で別れた。肩で息をするオレをクラスメイトたちが目を丸くして見る。


「佐藤だっけ? ギッリギリだな」


 前の席に座る名前も知らない男子が珍しそうに話しかけてきたのを、オレは驚きながら見返した。


「あ、うん……あの、おはよう」


「おー、おはよう。部活決めた?」


 なんでもないように交わされる言葉に、自然と目の奥がジンと熱くなる。


 小学校ではうまくいかなかったけれど。いまからやり直せる。ここにはオレのことを知らない人がたくさんいるのだ。


 次の日からオレは学校へ行くことが苦ではなくなっていた。


 長かった前髪を切り、なるべくたくさんの人に自己紹介した。自分を知ってもらえば会話も広がる。


 そんな中、あの日オレの背中を押してくれた彼女の名前を知った。


(北田千花。女子バレー部所属……)


 あとはもう、知ってのとおり。気づけば恋に落ちていた。



 茜色のひかりが水たまりに映るのを視界の端でとらえる。


 手を繋いで帰りながらそんな昔話をすると、ちかちゃんは目を白黒させていた。


「ああ! いま思い出したよ。あのときの遅刻ギリギリくんが佐藤くんだったんだ。印象ちがうから全然気づかなかった」


「だろうねえ。あのときのオレはほんとうに暗くて卑屈だったから。……ひとの目を見るのが怖くてずっと前髪伸ばしてたし。ちかちゃんはずっと変わらないね」


「むっ。それってどういう意味?」


 口を尖らせるちかちゃんにオレは身を寄せる。


「ずっとオレが好きになったちかちゃんのまんまってこと」


 ちかちゃんの笑顔が陰るのが耐えられなかった。二年になって念願の同じクラスになれたと思ったら、ちかちゃんは恋に行き詰まっていた。


 おかしいかもしれないけれど、失恋して泣きそうになっているちかちゃんを見てもっと好きになった。


 だってあの明るくて友達が多くてエネルギッシュなちかちゃんでも、涙が出るほどうまくいかないことがあるのだと思うと、親近感がわくのと同時に安心したのだ。


 完璧に見える人間にも悩みや悲しみがあるということ。


 そのことが分かってオレは安堵した。オレが家で求められている完璧も、それでいんじゃないかって。


 だから人は支え合うんじゃないかって。


「もう。調子いいんだから。これでも最近大人っぽくなったって言われるんだよ」


「うん。それはそうかも」


 オレはちかちゃんの手をギュッと握る。


「ちかちゃんにはさ、大きなエネルギーを感じるんだ。足を止めそうになるオレを突き動かしてくれる、まるでバズーカみたいな」


「バズーカ」


「だからちかちゃんがメンタル弱ってるときはオレが支えたい、オレが止まりそうになったら、また背中を押してほしい。ちかちゃん、オレとつき合ってください」


 足を止めて、ちかちゃんの顔を見てはっきりと言う。


 今回のようなことからちかちゃんのこころを守りたい。まっさきに頼ってほしい。一番の味方でいたい。


(ちかちゃんの特別になりたい。それ以外はいらない。なにも)



「うん」


 

 夕焼けに照らされたちかちゃんが、はにかみながら答えた。


「『うん』!?!?!?」


「いやだから驚きすぎ」


 ちかちゃんの手がオレの手を握り返す。オレは夢見心地で繋がれている手を見つめた。


「い、いいの? だってちかちゃん、いまからオレの彼女ってことだよ?」


「うん。佐藤くんの彼女になりたいです」


「ど、どうしたの急に!!」


 これは夢だ。間違いない。現実のちかちゃんはそんなこと言わない。自分に都合のいい夢だ。


 現実はそんなに甘くないと散々思い知らされた。


 ちかちゃんのことを好きになってすぐに気づいた。ちかちゃんには他に好きな人がいることを。ちかちゃんの恋の相手は見た目も中身も超絶魅力的な先輩だった。


 だからこの気持ちは一生隠し通そうと思っていた。ちかちゃんが幸せならそれでよかったからだ。


 同じクラスで同じ授業を受けて、ちかちゃんの姿を毎日見れるというだけでもう十分だった。


 告白だって玉砕覚悟の上だった。あのときちかちゃんの目から涙が落ちるのを止めたくて、なんの飾り気もないとにかく捨て身のようなものだった。


 なのに、ちかちゃんはオレの気持ちに応えてくれるという。


「あの、先輩のことはもういいの……?」


 それを問うのは勇気が必要で、思ったより小さい声しか出なかった。


 そんなオレにちかちゃんは笑顔で頷く。


「さっきも言ったけど、わたし失恋してから先輩のことよりもひなたのこと考えてた。でもそれよりもっともっと、佐藤くんのこと考えてたよ。頭がいっぱいになるくらい」


「ちかちゃぁん……!」


 ジーンと目頭が熱くなる。繋いだ手を両手で包み込んでちかちゃんに向き直る。


「自分の気持ちに気づくのが遅くなってごめん。……実はね、さっきここに来る前に告白されて」


「は?」


 ピシリとオレの幸せな気持ちに亀裂が走る。


(告白? ちかちゃんに? 誰だそいつは)


 急激に冷えていくオレの心中を察してか、ちかちゃんは焦ったように首をブンブン振る。


「もちろん断ったよ! よく知らない人だったし……それになんかちょっと怖かったし……」


 尻すぼみになっていく言葉は聞き捨てならないものだった。オレは改めてちかちゃんの両肩に手を置いて言う。


「これからはオレがいるから。必ずオレを頼って。分かった?」


「う、うん」


「相手は?」


「藤井くん」


 ちかちゃんの口から小学校の同級生の名前が出る。藤井といえば女子にモテるが性格は粘着質だ。オレの頭の中でパズルのピースがはまった。


(もしかしてあのダジャレ手紙の差出人は……)


「告白されて、それで気づいたの。佐藤くんに告白されたときと全然ちがうって。わたし、最初から佐藤くんのこと特別に思ってたんだって。佐藤くんにならなにを知られても構わないし、もっと、知りたいって……」


 そう言いながらちかちゃんの顔はどんどん赤くなっていく。


 オレはたまらずちかちゃんの手を取り頰を寄せた。好きが限界を超えて、もはやこの世のなにからも守らねばという気持ちになる。


「オレがいるよ。もし藤井が付き纏ってきてもオレが絶対になんとかするから。だからオレのそばにいて」


「う、うん。ありがと……。あのさ、けんけんは恥ずかしいから、謙信って呼んでもいい? わたしのことは千花って呼んで」


「けっ『謙信』!? 『千花』!?!?」


「だからさあ……ふふ、まったくもう」

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