第12話

 『努力』。ちかちゃんはその言葉を一等大切にしている。


 だからちかちゃんは努力を理由に相手を許そうとしているのだ。


 そんなちかちゃんを、オレは歯がゆくて見ていられなくなる。


「ほんとのこと言うとわたし……失恋してから先輩のことよりもひなたのことを考えてる。わたしにとって先輩に失恋したことよりも、相手がひなただったってことがショックだったんだと思う。いつの間にかひなたが、わたしの知らないところで彼氏をつくってたんだって。でもようやく、こころからおめでとうって言えるようになった。それもこれも全部、ここにいる佐藤くんのおかげ。だからお願い。佐藤くんとケンカしないで」


 ポタン、と大きな雨粒が足元に落ちて、それを合図にあれだけ降っていた雨が止んだ。


 オレは呼吸も忘れて二人のやりとりを見つめる。


 多分オレには一生理解できない二人の関係。


 互いに嫉妬で歪んで、ぐちゃぐちゃになって、それでもまだ繋がっている。


 極めて穏やかなちかちゃんの言葉に、彼女は肩をブルブルと震わせ始めた。そして堰を切ったようにしゃべり出す。


「わたしだって、わたしだって先輩とつき合ってからずっとずっと千花ちゃんのことばかり考えてた! なのに、なのに玉之江先輩はっ」


 ぐしゃぐしゃと濡れた髪を掻きむしりながら、彼女は悲痛な声を上げた。ちかちゃんはそばに膝をついて黙ってその様子を見つめている。


「最初は千花ちゃんの好きな人だから近づいた。千花ちゃんの好きな人をとってやりたかった。それでやっと千花ちゃんと平等になれるから。でも先輩はそんなこと知らずにわたしを……好きって。もう、ダメ、別れないと。胸が痛んで張り裂けそう。どうにかして、わ、別れなきゃって。でも、でも」


 ボロボロと彼女の目から涙があふれて落ちた。それと同時に、彼女は体を折り曲げて、冷たいコンクリートに額を擦り付けた。


 流れる涙はそのままに、ダンッと悔しげに拳で地面を打ちつける。


「ほんとうに、好きに、なっちゃったぁぁ」


 最後の方は消え入るような叫びだった。


 しゃくり上げながら泣く彼女の背中を、ちかちゃんはしばらくトントンと撫ぜていた。


 雲の切れ目から淡いひかりがさす。大粒の雨は霧雨に変わり、オレたちを包み込んでいた。


「ねえ、ひなた。わたしたち少し距離をおかない?」


 ちかちゃんが掠れた声で言った。その目は遠くの空を見ている。


 どこか吹っ切れたような清々しささえ感じる表情で、ちかちゃんは続けた。


「いままでずっとそばにいて、お互いに息苦しかったよね。少し、友達おやすみしてみない? また友達になれる日まで」


「なんで……わたしのこと嫌いにならないの?」


 涙の跡が残る顔で呆然とちかちゃんを見上げる彼女に、ちかちゃんはあっさりと「いまのひなたは嫌い」と返す。


「でも、いままでのひなた全部が嫌いなわけじゃない。だからいつか、きっとまた友達になろう」


 ちかちゃんは改めて彼女に傘を握らせる。


 不思議な光景だった。


 オレがあんなに怒り狂った相手にさえちかちゃんは優しい。優しく、丁寧に突き放す。


 この二人がいつかまた友達になる日が来るのなら、それはちかちゃんが彼女を許し受け入れたということ。そこでオレが文句を言う筋合いはない。


 彼女はふらりと立ち上がってちかちゃんに背を向けた。そしてゆっくりと歩き出す。


「先輩と、お幸せにね」


 ちかちゃんのその言葉に彼女は一瞬足を止め、しかし振り返らずにその場から去って行った。


 ぴちゃん、ぴちゃんと屋根から水滴が落ちる。


 オレとちかちゃんはびしょ濡れのまま顔を見合わせ、緊張の糸が切れたように笑顔を向け合った。


「ごめん、佐藤くん。わたしたちのことに巻き込んで」


「ううん。ちかちゃんかっこよかったよ」


「佐藤くんのほうこそ、ありがとう。ひなたのことを怒ってくれて……」


 くしゅんっとちかちゃんがくしゃみをする。オレはちかちゃんの隣に座って、冷えた体に寄り添った。オレも濡れてるから意味がないかもしれないけれどとにかくそうしたかった。


「ねえちかちゃん。オレ偉かったでしょ? ゆーわく全然効かなかったの。相手が嘘ついてるのだってすぐに分かったよ。ちかちゃんのことが大好きだから。ちかちゃんがするはずないことは分かるんだ」


「うん」


 存外すなおな返事が返ってくる。おや、と思って顔を覗き込むと、ちかちゃんはへにゃりと眉を下げて笑っていた。


「でも少しこわかった。二人が話してるのを見つけたとき……一瞬、二人が抱き合ってるように見えたの」


「え!? そんなことしてないよ!」


 オレが必死に否定するとちかちゃんは「分かってるって」とまた笑った。


「ありがとう。わたしのこと信じてくれて」


 そう言うちかちゃんの目元には涙の跡があった。泣いていないと思っていたのに、オレの気づかないところでいつの間にか涙を流していたのだ。


 オレは無性にちかちゃんを抱きしめたくなってしまう。


 急にそんなことをして嫌われたくないのに。


 でも。でも。


「ちかちゃん……ハグしていい?」


「うん」


「『うん』!?!?!?」


 断られる前提のお願いがあっさりと受け入れられたことにオレは目玉が飛び出るほど驚愕した。


「ちかちゃん! ハグだよハグ。あ、ハグって分かる!? ギュッてするんだよ!? 意味分かって言ってる!?」


「いやさすがに分かってるし」


 ちかちゃんは呆れた表情をした後、スッと両腕をこちらに広げて言った。


「しないの?」


 目の前には頬を染めてはにかむちかちゃん。オレはいま起こっていることが信じられず思考停止する。


 じわじわと顔全体が熱くなる。空気に触れている肌がビリビリとしびれ、いま自分がどんな顔をしているか分からなくなっていく。


「や、やっぱり、しない……」


 好きすぎて触れられないなんて、情けなさで消えてしまいたい。思い返せば初めて手を繋ぐのだって、ちかちゃんに許しをもらってから差し出された手を取るのがやっとだったのだ。


 もじもじモゴモゴと縮こまるとちかちゃんが隣でぷっと吹き出すのが聞こえた。


「そんな顔もするんだ」


「ま、また今度」


「ダメ。いまがいい。お願い」


 そう言うちかちゃんの肩は震えていて、オレはハッとする。


 どういう形であれ友達を失ったのだ。表面上笑っていてもこころは泣いている。ちかちゃんはいま支えを必要としている。


(ああ、オレのバカ。言わせるなんてかっこわる)


 オレはそっとちかちゃんの肩を引き寄せた。ちかちゃんは黙ってされるがままオレに身を預ける。


 それからちかちゃんはオレの胸に顔を埋めて泣いた。


 その姿がいつもより小さく、幼く、脆く見えて、オレはこのままちかちゃんを包むだけのなにかになりたいと強く思った。


(このままずっと、ちかちゃんがオレだけにすがってくれたらいいのに)


 そうしたらきっと幸せなのはオレだけだろう。そんなどうしようもないことを考えながら、ぎゅっとちかちゃんの冷え切った体を抱きしめた。


「ひなたのことどうすればよかったのかな」


 泣き疲れてオレの腕の中でぐったりとしたちかちゃんがポツリとつぶやいた。


 オレはちかちゃんを抱え直して、自分の足の間に座らせてから、後ろからギュッと抱きしめる。


「――分からない。けど、まぶしすぎたんだと思う。太陽って近づきすぎると燃えてしまうでしょ? 見つめすぎても目がくらんでしまう。あの子にとってちかちゃんはそういう存在だったんじゃないかなぁ」


「太、陽。あ……」


 ちかちゃんが空を見てなにかに気づいたように声を上げる。


 その視線を追うと、雲の隙間から太陽が顔を出していた。もう雨はとっくに止んでいたらしい。


「オレも気をつけないと」


「なにに?」


「ちかちゃんにかれないように」


(もうすでに、いやだいぶ手遅れかもしれないな)


 オレとあの子は似ていた。ほんの少しだけ。努力の方向やちかちゃんに執着していたことが。


 だからオレもちかちゃんにああいう風に突き放されるのかもしれない。優しく、丁寧に、残酷に。ならばそうならないように努めるだけだ。


「ちかちゃん。好き。大好き」


 ちょうど顎の下にあるちかちゃんのうなじに頬をすりすりすると、ちかちゃんはしゅっと首を引っ込めて小さくなってしまった。


「なんで……」


「ん?」


「なんで、わたしのこと。どこが……す、好きなの?」


 耳まで真っ赤になったちかちゃんが消え入るような声で問う。オレはちかちゃんの耳元で答えた。


「ぜーんぶ」


「嘘。だってわたしかわいくないし」


「世界一かわいい」


「性格わるいし」


「世界一いいの知ってる」


「成績も普通だし」


「ちゃんと部活と両立してて偉いよ」


「佐藤くんに好かれるようなことなにもしてない……」


 なにも心配いらないのに、ちかちゃんの口からはネガティブな言葉がたくさん出てくる。


(こんなに好きって伝えても、理由がないと不安なんだな)


 どんどん小さくなっていくちかちゃんの声に耳を傾けながら、オレは初めてちかちゃんに会った日のことを思い出していた。


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