第8話
それからいつもどおり授業を終え、日直の仕事があるわたしはひとり教室に残っていた。
ぶ厚い雲から叩きつけるような雨が地面に落ちていくのを、窓越しに眺める。
(雨、だんだんひどくなってる。早く日誌書いて帰ろう)
ぼんやりと日誌を書いている間、わたしは今朝のひなたの様子を思い出していた。
ひなたは昔から、理解できないことがあると軽いパニックを起こす性質があった。暴れたりするわけではないから、しばらく黙っていれば自然とおさまるのだけれど。
最近は落ち着いていると思っていたが本質は変わっていなかったのだろう。
(多分、わたしのなにかが理解できなかったんだ。ひなたの中でなにかが噛み合わなかった)
こういうときは放っておくのが一番だとわたしの経験が言っている。
『千花ってさ、なんであの子と仲よくしてるの?』
亜矢に言われた台詞が頭の中をよぎる。
「なんで、か……」
理由が必要なら、わたしはなんて答えよう。
『これからもひなたと仲よくしてね』
昔、そう願われたからだ。亡くなったひなたのお母さんに。
優しくて素敵なお母さんだった。会うたびにひなたと仲よくしてくれてありがとうと言われた。
小学四年生のとき、事故で亡くなるまでは。
同じころにわたしの両親も離婚して、それからひなたとわたしは片親の元で育つ同じ境遇の仲間になった。
授業参観に誰も来なくて文句を言い合ったり、引き取り訓練のときは親が来れないから二人で手を繋いで児童館に帰ったり。
誰とも分かち合えない孤独を、ひなたと共有して生きてきたと思っている。
(まあ、そう思ってるのはわたしだけかもしれないけど……)
そのとき、窓の外でピカッと稲妻が走った。数秒後、空気を切り裂くような音が響く。
わたしは黙って窓の外を見た。
雷は、昔は怖かったけれどもう慣れた。ひとりのときに雷が落ちても、同じ思いをひなたもしていると思えば乗り越えられたのだ。
(ようやくひなたにこころからおめでとうを言える。今度時間をとってちゃんと言おう。わたしはもう大丈夫。それもこれもきっと、)
(全部佐藤くんのおかげ)
突然、ガラッと教室の扉が開く音がして、わたしはそちらに視線をやる。
重い雨の音しかしない空間に、声が響いた。
「やあ、千花」
名前を呼ばれたわたしは首を傾げる。
そこには知らない男子がいた。
いや、どこかで見たことがある。
ヒョロリと背が高く、おでこの見える短髪の男子。シャープな印象の目元とは対照的な、猫みたいな口。
直接話をしたことはないけれど、部活中の体育館で見かける顔だった。
「えっと、バスケ部の……藤井くん?」
「はは。なんだよ他人行儀に」
3組の藤井くん――亜矢が陰で推している人だ。藤井くんはスッと目を細めて微笑み、後ろ手でドアを閉めた。
(いまこの人、千花って言った? なんで呼び捨て?)
記憶を辿っても呼び捨てにされるようなやりとりはなかったはずだ。誰かにわたしの名前だけ聞いたのだろうか。それとも元々誰でも名前で呼ぶ派なのか。
空にまた稲妻が走る。藤井くんは窓の外をちらりと見てからわたしに視線を戻した。
「こんな日に日直だなんてついてないな」
「え、ああ。うん、でももう帰るところで……」
(きっと、こんな天気の中で自分以外に居残り組がいたから、気になって声をかけてきただけだよね)
とにかく日誌を終わらせようと目線を落とすと、視界にスッと影がかかった。
見ると藤井くんがわたしの対面に立ったまま、両手をそれぞれわたしの机の端に置いていた。
(え……?)
目線だけ上げると、視界には藤井くんの制服しか入らない状態だ。
突然詰められた距離に顔を上げられない。
「なァ千花」
ぞわり、頭の上から再び呼ばれた名前に背筋が凍りつく。
思わず止まった手からスルリとペンが引き抜かれ、わたしは目線を日誌に落としたまま戦慄した。
頭の先から首すじにかけて、なぞるように視線が突き刺さる。
藤井くんはわたしのつむじに向かって話を続けた。
(どうしよう、顔を)
「最近の千花は変わったよな」
(上げられない……!!)
「雰囲気がずいぶん柔らかくなった」
藤井くんはそう言って机に手をついたまま、わたしのペンを指で器用に回し始める。
「部活中のかっこよさにも磨きがかかった。オレ、いつもこころの中で千花を応援してる。バスケコートから千花の姿がよく見えるんだ。レギュラー選抜おめでとう。次の大会、見に行こうかなあ」
ごくりと無意識に喉が鳴った。藤井くんがわたしに覆いかぶさるような体勢をしているせいで、イスを引いて立ち上がることさえ封じられている。
『ねえ、なんか視線感じない?』
『あー分かる。最近部活でもときどき……』
こんなときになってようやく信頼する友達の言葉を思い出す。
「見て、たの……? わたしのこと」
わたしは必死に、絞りだすように声を出した。
「うん。ずっと。千花を見てた。――玉之江先輩だっけ? あの人はほんとうにカッコいいよな! 千花が好きになるのもよく、分かる……」
嫌な汗が髪の生えぎわから首を伝う。玉之江先輩のことまで知られていることに、わたしはうつむきながら目を見開いていた。
「でもあの人彼女ができたんだろ? 千花、泣いてたよな。わざわざその彼女が報告しに来て。
「なんで、そんなことまで」
見られていた?
ひなたがわたしに報告に来たあの瞬間も?
教室の外からわたしを見ていた?
ざわっと二の腕に鳥肌が立つ。わたしは自分を抱くように腕に手を回した。
(嫌だ……!!)
「日曜日の自主トレも、ずっとえらいなと思ってた。知ってた? オレも千花を見習って毎週あの公園で筋トレしてるんだ。千花はほんものの努力家だよ。その小さな積み重ねのひとつひとつが千花の力になってる。オレは千花のことを尊敬してるんだ」
「もうやめて」
ぐるぐる、ぐるぐる。ペンが回る。
ザアザアと激しい雨が窓を叩く。
「千花はもう覚えてないかもしれないけど。オレが試合でミスってひとりで居残り練習してたとき、声かけてくれたよな。『努力は人を裏切らない』って。『お互いがんばろう』って。オレはあのときからずっと……千花のことが好きだ」
好き。
その単語が出てきてわたしの頭は一瞬でまっ白になった。
いつだったか、恐らく去年の夏ごろのこと。体育館でひとり黙々とシュート練習をしているバスケ部の一年生に声をかけたような気がする。
けれどわたしにとってはそんなことは日常のささいな出来事で、相手が誰だったかも、話した内容も全然覚えていない。
(じゃああのときの男子が藤井くんで、それからずっと、わたしのことを――?)
だんだん自分の呼吸が浅くなっていく。
いつ、どこで、どんなふうに見られていたのか。教室、部活、公園。もしかしたらそれ以外でも。
想像すると嫌な心臓の音が止まらない。
「千花のことを一番知ってるのはオレだから」
(どうして、わたし)
藤井くんの両手が、うつむいたままのわたしの肩に乗る。
(こんなの、佐藤くんに好きって言われたときと全然違う)
「だからさ、オレが佐藤から千花のことを守るよ。あいつは千花にふさわしくない」
「え?」
なんの予兆もなく佐藤くんの名前を出されて、わたしは思わず顔を上げる。
藤井くんの顔は思ったよりも近いところにあった。わたしは眉を寄せて続く言葉を待つ。
「最近あいつと一緒にいるのをよく見るけどさ。千花は優しいから、付き纏われて困ってるのに言えないんだよな? 大丈夫。オレがちゃんと――」
「か、勝手なことしないで!」
肩に置かれた手を払いのけると、藤井くんは目を丸くして一歩下がる。その隙にわたしは立ち上がった。
「わたしは別に困ってなんかない。勝手に守るとかやめて」
「千花、ダメだ! 千花はあいつのことを誤解してるんだよ!」
藤井くんは焦ったようにわたしに詰め寄る。そのままジリジリと壁際に追い詰められてしまう。
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