三、溺愛のち土砂降り

第7話

♢♦︎♢


「いってきまーす」


 玄関を開けると、しとしとと雨が降っていることに気がついた。わたしはお気に入りのクリーム色の傘を手に、後ろ手で鍵を閉める。


 雨は昼からの予報だったのに。どうやら降り始めが早まったらしい。今日から数日間は雨予報が続いている。


 これから本格的に梅雨入りの季節になりそうだ。


(今週末はジョギングできないかな)


 佐藤くんと温室で手を繋いだ日から数日がたった。


 実はあの後、温室の暖かさやら恥ずかしさやらで頭がクラクラしてしまって、佐藤くんに家の近くまで送ってもらってしまった。


 ジョギングをした後でもあったし、一種ののぼせ状態だったのかもしれない。


 あれから夜眠る前にメッセージのやりとりをして、学校ではなるべくなんでもないふりをしている。


(結局、手繋ぎたいって言われてこっちから手を差し出しちゃったし。ああもう、思い出すだけでも恥ずかしい……)


 勝手に熱くなるを頬をこすりながら道に出ると、家の前の交差点でひなたと会った。


「千花ちゃんおはよう。一緒に行こう?」


「うん、おはよう。ひなた」


 ひなたと肩を並べて登校するのは久しぶりだ。


 いつもはわたしが朝練で早く出るから会わないけれど、今日は授業前に全校集会があるから朝練がない。


 お互いの傘が触れ合う距離で、ひなたがもじもじと話を切り出す。


「実はね、この前のデートで先輩と手繋いじゃった」


「え」


「デート三回目でやっとだよぉ。遅いと思わな――」


「ほ、ほんと!?」


 タイムリーな話題に思わず食いついてしまう。ひなたは目をパチクリさせて頷いた。


「どうだった? ひなたから? 先輩から? いつどこでどういうシチュエーションで!?」


「え、えっと。たまたま手が触れてその流れで……」


「そ、そっかあ」


 戸惑うようなひなたの表情に、自分でもちょっと気持ち悪い質問だったと反省する。ごほんと咳払いをするわたしにひなたは問いかけた。


「千花ちゃんなにかあった?」


「えっ。なにかって?」


「もっと聞きたいって顔してる」


 ギクリと肩が跳ねた。本音を言うとものすごく聞きたい。他の人がどんな風に手を繋ぐまでにいたるのか知りたい。


 そこまで考えて、わたしははたっと思考を止める。


(聞きたい? ひなたののろけを? 先輩と手を繋いだ話を?)


(わたし――もしかしてもう、)


「千花ちゃん。もしかして……もう先輩のことはどうでもいいの?」


「え」


「佐藤くんだっけ。ほんとうにあの人が本命だったの? 先輩のこと好きって言いながらあの人と陰でつき合ってたの?」


「そ、そうじゃないよ。ただ、その」


 純粋に不思議がるような、そんなひなたの視線が突き刺さる。おかしな誤解を生むのは避けたい。


「先輩のことは好きだったよ。佐藤くんには最近告白されて――」


「つき合ってるの? 好きなの? 先輩よりも?」


 食い気味にひなたが問う。


 わたしはいつもとちがうひなたの様子に驚いていた。


「まだ返事はしてない。でも、この前……わたしも手を繋いで。だからひなたが手を繋いだときのこと聞きたくなっちゃったの」


(もしかしたら聞かれたくなかったのかも。そりゃそうだよね。わたしだって恥ずかしいし)


 ひなたの表情は傘で隠れて見えなくなってしまった。突然ざあっと重たい雨がわたしたちを襲う。


「変なこと聞いてごめんね」


 学校に急ごう、と言いかけたそのときだった。


「なんで?」


「……ひなた?」


「どうしてそうなるの?」


 刻々とひどくなる雨の音でひなたの声がかき消されていく。


「失恋したのに――――告白されて?――つき合って――のに――――――手を――――?」


「ひなた? 聞こえな……」


「なんで――――」


 ひなたは傘の陰からまっすぐにわたしを見ていた。感情のなくなった人形みたいに、まんまるな目をわたしに向けていた。


 肝心の言葉が聞こえなくて、でも聞き返すのが怖くて、わたしはその場に立ちつくした。


「……ううん。なんでもないよ。行こう、千花ちゃん。遅刻しちゃう」


「う、ん」


 にこり。ひなたは笑ってみせるけれど、目が笑っていない。よほど怒らせてしまったのだろうか。


(わたし、謝ったよね……。一体なにがひなたの地雷だったんだろう)


 ひなたは黙って足を進める。わたしは呆然としながら青い傘から覗いたひなたの表情を思い出していた。


 土砂降りから逃げるようにひなたとわたしは昇降口に駆けこんだ。傘をさしていても横なぐりの雨のせいで制服がしっとりと濡れてしまっている。


 他の生徒たちも同じように足早に屋根の下へと走ってきた。


「おはよー。最悪、髪濡れたわ」


「亜矢だ。おはよ」


 沈んだ表情の亜矢がこちらに寄ってくると、ひなたは「それじゃあ」と言って去って行った。


 まだ違和感があるひなたの態度にわたしは軽いため息をつく。


「ウチのあいさつはシカトかい」


「ひなたは人見知りなの。昔から少し気むずかしくて……ん?」


 そのとき、ふと視界に入ったのはひと足先にげた箱にいる佐藤くんの姿だった。ニヤニヤ顔の亜矢に肘で押されて声をかける。


「佐藤く、」

 

「わあっ!」


 後ろから話しかけると、佐藤くんは大げさに飛びあがった。その拍子で佐藤くんの手元からぐしゃりと紙が握りつぶされる音が鳴る。


 見ると佐藤くんの手の中では、一枚のコピー用紙が無惨にもシワシワになっていた。


「ちかちゃん! びっくりしたあ」


「うん、おはよう……? それ大丈夫?」


「まーったくどいつもこいつも。ウチ先行くわあ」


 そう言う亜矢に手で応えてから佐藤くんに向き直る。


「もしかして、ラブレター?」


「あ、これ? ううん。朝来たらげた箱に入ってたんだけど、なんかダジャレが書いてあった。ただの悪ふざけだよ」


「ダジャレ?」


 ぐしゃっとさらに握りつぶしてしまったところを見ると、ほんとうにどうでもいいものだったらしい。


(まあ、もしラブレターならあんな紙ペラ一枚なわけないか)


「気になった?」


「え?」


 佐藤くんは妙にいたずらな目線をよこして言う。


「もしオレがラブレターもらってたらって。気になった?」


「な、べ、別に……そんなこと」


 ない。


 と言い切れないのが悔しい。


 むむっと唇を引き結ぶわたしに、佐藤くんは嬉しそうな笑顔を向ける。


 そして、わたしの耳元に口を寄せて囁いた。


「言い忘れてた。おはよう」


「〜〜〜ッ!! おはよっ!!」


 目の前には朝からわたしのこころを乱そうとする確信犯。


 わたしは熱くなる顔を隠したくて、シュバッと忍者のようにその場を去ることしかできなかった。


 全校集会を終えてみんなでゾロゾロと教室に戻っていると、人の波の中から「北田」と呼び止められる。


 振り返るとそこにはこちらに片手を上げる玉之江先輩の姿があった。


「玉之江先輩。どうしました?」


「今日は大雨洪水警報が出てるから、午後も部活なしだとさ。女バレの二年に伝えといてくれ」


「あ、はい。分かりました」


 なんてことないただの業務連絡だ。雨はこれからさらにひどくなるらしい。先輩は「よろしくなー」とだけ言って三年の教室へと去っていった。


「亜矢ー、双葉ー。今日部活ないんだって。さっき玉之江先輩が――」


 言われたとおり亜矢と双葉に部活がないことを伝えようとして、わたしはふと気づく。


(先輩と自然に話せた……。胸の痛みが、ない)


 呆けるわたしの肩を双葉がつつく。


「玉センがなんて?」


「あ、うん。女バレ二年に伝えてくれって」


「りょーかい」


 わたしは胸のあたりをさすってみて考える。


 先輩を前にしても、いまのわたしには辛さもない。心拍数も変わらない。つまり平然としている。


 ひなたののろけ話を聞いたときも、わたしは話の続きをせかしていた。


 あのとき、もう先輩のことはどうでもいいのかとひなたに聞かれた瞬間は言葉に詰まってしまったけれど、それは言葉選びの問題で。


(これってやっぱり……完全に立ち直ったってこと!?)


 こころの底からむくむくとポジティブな気持ちがわきあがる。


 安堵感と嬉しさが混ざったような、不思議な気持ちだ。


「あーなんで今日部活ないの!? いまのわたし絶対最強なのに!!」


「え……最強の千花とかこわすぎ……」


「それ今度の大会にぶつけてほしいわ」


 メンタルが回復した反動なのか、とにかく体を動かしたい欲が高まる。引き気味の亜矢と双葉にウザ絡みしながら、わたしはやっと重い荷物をおろした気分になっていた。


(これでやっと、やっとひなたと先輩のことを祝福できる)


 二人の幸せを願えなかった自分はもういない。


「ねえ、なんか視線感じない?」


「あー分かる。最近部活でもときどき……」


 わたしは自分の気持ちの変化のことで頭がいっぱいになっていて、二人のそんな会話を軽く聞き流していた。

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