第143話 彼の名前はココア。ココア・シガレット
針のような山はしかし、近づけば大きく傾斜がついており、きちんと登ることができた。しかし、その表面は土ではなく、ほとんど岩に近かった。そして棘のような突起で満ちていた。靴底はすぐにずたずたになり、足の裏が痛む。それがストレスを生み、無意識のうちに噴出した〈ヘビィ・スモーカー〉が岩の表面を嘗めていく。どれほど登ったのかわからない。あたりに霧が立ったと思うが、実は雲なんじゃないか、そんな考えが過り始めたとき、急に小さな人影が見えた。
「おいおいおい、まじかよ」
そして、その人影は、ぼう、と突っ立っているのだが、それだけではない。何か、小さな箱のようなものを片手に持っており、もう片方の手には、指ほどの長さの棒がある。そして、人影はついに、それを口にくわえ、しばし動かず、再び動いたかと思えば、棒を片手に、ふー、と息を虚に吹いた。その所作、間違いなかった。
「あの、すみません」
急く気持ちを抑え、落ち着いて声をかける。この薄もやの中はまるで喫煙所のようであった。深呼吸し、記憶を探る。そう、たまにやったり、やられたりした、あのテンションを思い出すんだ。
「あの、一本いただけませんか」
渡されて当然、一本ぐらい当たり前、そういう空気感でそろり、と指を突き出す。生意気すぎてもいけないし、下手に出過ぎてもいけない。
「いいですよ」
相手もまた、独り言のようにそういうと、箱から一本の棒を取り出す。
「ありがとうございます!」
つい、声が上ずった。その棒切れを前に、ついに頑張って纏っていた平静さが消失し、跳び付いた。肌触りが懐かしい。ただの紙であるのに違いないが、しかし。その滑らかな触り心地は異界の製紙技術にないものだ。全身の毛が逆立つ。漸く、漸くだ。
「あ、あの、火も!」
「本当にいるかい?」
「え?」
相手から言われて、改めて棒切れを観察する。よく見れば、それは綺麗かつ丁寧に磨かれた、正真正銘の棒切れだった。丁寧に白い巻紙風の部分とフィルターっぽい色分けで塗装されているのが余計に腹が立つ。
「おいこら! なんだこれは!」
「ほっほっ」
相手は笑った。その時初めて、ラーピース・メビウスタは相手の姿をはっきりと認識した。
真っ白な髪、真っ白な髭は両方とも地面に着くほど長い。眼は深く窪み、まるで洞窟中からラーピースを見つめているようだった。
「笑ってねえで何とか言いやがれ! なんだ、どういうつもりだくそじじい」
「別に、わしは煙草をくれてやるとも、吸っているとも言っておらん」
老人は手に残った棒切れを無意味に吸いながら言った。ストレスで髪が抜けそうだった。
「ぐぐぐうぐぎぎぎぎ」
ラーピース・メビウスタは歯ぎしりした。確かに、老人は煙草のことなど一言も言っておらず、嘘は微塵もついていない。すべてラーピース・メビウスタの勘違いである。それがまたストレスを増幅する。否、本当にそうであろうか。
「いやいやいや、待て待て待て、お前、今……」
ラーピースは、この異界において、今、初めて、相手から自発的に、その言葉を聞いたのだ。
「煙草、つったよな? おれが、言う前に」
「ほっほっほ。そうだったかな」
「お前、とぼけんなよ。何か知ってるのか?」
ラーピースは相手に掴みかかる。
「何も知らん。わしは、相手が欲しいものを手に入れることができる。どうじゃ、うらやましいじゃろう」
「ごごごごごご」
泡でも吹きそうな勢いで、怒りとストレスがラーピースの口の端から漏れ出した。一方で、老人の言うその自慢話、聞いた覚えがあった。
「お前が、スナートの師匠か」
ラーピースは無意識のうちに、スナートから貰った剣を掴んだ。
「そうかもしれんし、そうでないのかもしれん」
「あいつが、お前なら煙草を持っているといった。出せ。こんなパチモンいらん」
ラーピースは目を血走らせ詰め寄る。今すぐ指先のこの偽物を捨てたかったが、悲しいかな、偽物でも縋りたいという情けない思想が、彼の指と偽煙草をぐるぐるに縛っていた。
「焦るな焦るな」
老人は歯を剝き出しに、がりがりと唸る怪人を前にしても一切動じない。
「わしの名前を知っておるかの」
「なんつったっけ、スティング・つらぬき丸とか……」
「そうそう。その通り、わしの名前はココア。ココア・シガレットじゃ。お主の欲しいものの、その全てを持つ、神から見放された最初の人間よ」
かみ合わない会話に、しかし不思議と、ラーピースは肩の力が抜けるのを感じた。どうやら彼は彼で尋常ではないとラーピースの直感が解釈していた。
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