第142話 彼らの通り道

 ガザゴザン砦はちょっとした城塞都市の様相を呈していた。しかし、囲んでくる衛兵は煙=〈ヘビィ・スモーカー〉を突破できず、煙に絡まれ動かなくなる剣や槍に驚いている間に重さで自滅し、遠くから魔術をかける術師たちは、その効果がないことに首を傾げた。やがて、ラーピースは城壁を飛び越えてガザゴ仙岳の麓に至った。しばらくは背中を矢がつついたりすることもあったが、放っておいたらついにそれすらなくなった。


 霧はないが、鬱蒼と茂る植物に圧倒された。もう誰も、城壁の向こうに行こうとしていないのが知れた。それもそのはずだった。ラーピースは生来、体が極めて鈍感である。空腹も眠気も疲労もほとんど感じない。寒さも暑さも関係ない。それなのに、ほんの少し歩いただけで、妙な息苦しさを感じる。学生の頃、冬。換気扇が壊れた雀荘で徹マンしたときのことをなんとなくラーピースは思い出した。締め切った狭い雑居ビルの一室で、石油ストーブだけが煌々と光っていた。


 植物はみな、軒並み背が高く、芒のような葉を持つ植物の一葉一葉が顔や髪を掠めたり、蔦のような植物が、いつの間にか足や腕に絡まっているのはかなりのストレスになった。霧も煙もないくせに、少し先さえ見えもしない。


「ああああっ!」


 ストレスの籠った咆哮が、植物を薙ぐ。すると、恐れをなしたかのように蔦が彼の体をするすると離れ、芒はあっという間に枯れ始めた。最初からそうしろ、と思った。


 だが、それも精々前五歩分ほど。しかも、歩くごとに結局植物はその葉をそっと伸ばしてくる。その度、ラーピースは絶叫した。そうして、漸く道が快適になり始めたころ、ずぼ、と足が急に膝ほどまで沈み込んだ。沼になっていた。


「しいいいいいっ!」


 もはや獣の唸り声。両手をわなわなと震わせて、ただの泥を威嚇すると、彼の全身から沸く煙がぴりぴりと震えながら泥を跳ねのけ、沼の中でも道を作る。幸い、そこまで深くはない。そうして、自分の体の周りの泥だけを弾いて歩いていると、沼は静かな水面に代わり、どこまでも澄んだ泉になっていた。よく見ると、小さな魚や水草も見える。ラーピースが水を跳ねのけて歩くのを察し、するすると遠くへ泳いで行ってしまう。空腹感はないが、捕って食ってやろうというのは無理だと察した。


 あたりの空気は澄んでいるが、遠くに陸も山も見えなかった。曇りではないが、晴れでもない。薄青いどんよりとした不思議な空。湖から突き出た巨岩のみが距離の目安となる。


 やがて、ラーピースの足元に、大きな大きな魚が見えるようになった。彼らはラーピースのことを恐れず、しかし捕食の意思もなく、じっとこちらの様子をうかがうばかりであった。これには、逆に、襲い掛かる意思が生まれなかった。そも、その体長は、彼の半身を超す。剣を振るったとして、捕まえるのは至難の業であったし、このあたりに陸はない。快適な狩りや、その後の調理は難しいと知れた。遠くの背の高い岩だと思っていたものが、ゆっくりと移動し、大あくびをした後沈んでいく。静かだがぞっとする光景でもあった。確かにここは異界であった。


 陸が見える。それに伴い、気づけば隣を、六本脚の山椒魚のような生き物が歩いている。軽自動車ほどの大きさで驚くが、やはり害意はない。齧って見たらうまいかどうか、そんなことを考えた。


『なぜ、煙草を欲する』


 急に、そんな言葉が聞こえた。はっとして振り返るが誰もいない。六本脚の山椒魚を睨みつけるが、それはゆっくりと陸に腹を擦りながら移動するのみ。到底話しかけてくるようには思えない。


「てめえみてえのが、耳元でうるせえからだ」


『なぜ、煙草を吸う』


「イラつくんだよ。いろいろとな」


 そういえば喉が渇く。湖のど真ん中だというのに空気が乾いている。ふと、先ほど思い出した学生時代の雀荘が頭を過る。誰のせいか、手牌がまったく揃わず、煙草があっという間になくなった。


「そうだ。あれがあれば、全部解決する。イライラが消えんだよ!」


 思わず剣を抜き放ち、のっそりと歩いている山椒魚へ振るった。ぱっくりと体が頭側と尻尾側に分かれた。どろり、と内臓がとろけだす。下半身は湖にすぐに沈んでいき、上半身もまた、それに続く。しかし、ラーピースが・メビウスタのイライラは収まらなかった。


「くそ、イラつく」


『そうですか。ラーピースさん、たばこはいりませんか』


 急に、脳裏に言葉が浮かぶ。死に掛けていたイアコ・ハイビットの言葉だった。


『どんなにねだったって、たばこは手に入りません。ざまあみろ』


「くそ、イラつく」


『だから、わたし達姉妹は、旅を続けるのです』


「うるせえよ!」


 妙に頭を過去の出来事が巡る。


「誰だ! また、わけのわからねえ術を使ってやがるな! でてこい、ぶっ殺してやる」


 ラーピース・メビウスタは歯茎を剝き出しにし怒鳴った。


『違いますよ。姉上はずっと、嘘をついているのです』


 また、言葉が浮かんだ。リル・ハイビットの言葉だった。


『本当は、姉上が嘘なんてつかなくていい、そんな場所を作りたいのですが、わたしにはさっぱりわかりません』


「くそ、なんだってんだ。おれが、何をした」


 脳天をつく焦燥感。血管が騒めく。煙草が欲しい。


「くっそ。ふざけやがって。何が不満だ」


『何が欲しい』


「煙草だっつってんだろ。出せ、持ってんのか」


『何が望みか』


「だから……」


『大学? うまくいってるよ。高校からの友達もいるし。心配いらない』


 親にそんな電話を掛けたことがある。傍には煙草があった。初めての一人暮らし、寝坊に寝坊を重ねていたら単位を一つ落としたのは、内緒だった。しかし、心配をかけるわけにもいくまい。


『仕事は順調だから気にしなくていい。ほら、初任給だし、こういうのに使うっていうからさ』


 つい、よくある話に流されて、初任給で親に飯を奢ってしまった。しかし、本当は、慣れない仕事に、言いたいことがあった。アパートに帰った後、窓も開けずに煙草に火をつけた。


『■■■■さんの契約更新の話、忘れてたろ。まあ、やっといたから気をつけて。次、半年後な』


 部下のミスを未然に防いだ。気づいたその日、残業後の煙草がうまかった。


『なぜ、煙草を欲す』


「そりゃ、だって、どいつもこいつも阿呆だし、なんでおれがいちいち面倒見なきゃならねえんだ……煙草があれば、全部どうでもよくなる。頭も冴えるし、次に移れる……それでいいじゃねえか」


 なぜか足から力が抜け、どしゃり、と泥に膝を埋めた。


『その時、決して偽るな。己の、真の願いを口にしろ』


「〈ゼルノテクラク〉……」


 ハイオークの言葉を思い出した。


「まさか……」


 相変わらず晴れなのか曇りなのかもはっきりしない、不思議な空が広がっている。しかし、まるで針のように細い山が、遠くに連なっているのが見えた。


「真の願い……」


 ラーピース・メビウスタ、否、■■■■は、ふと考えた。考えてしまった。ぶるぶると震える、両掌をじっと見つめる。


『でも、あんただって、親しかったんだろう。近いうちに戻ってきてやってくれ。なるべく早い方がいい』


 ーー。


『あの姉妹を助けたいなら、彼女たちの故郷、この国の北西の海にある島、ジガを訪れてほしい』


 人形が言っていたことを思い出す。


「別に、そういうんじゃねえよ」


 ラーピースは項垂れて、独り言つ。

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