第139話 喫煙マナーはちゃんと守ろう。

「すみませんでした。わたしの監督不足です」


 おれは馬鹿正直に頭を下げた。部長は弱視で色の入った眼鏡を少しずらし、こちらをじっと見ると、


「わかってる。君の今後の提案書も読んだ。始末書に加えて、あんなもん書くなんて、君も必死だね」


 と頷いた。もう興味はないらしく、視線はすでにパソコンに戻っている。仕事をしているのか、新しいゴルフクラブでも探しているのか、勿論詮索はしない。


「それだけのことだと思っています」


「戻りな。経営も、もう理解している」


 顔を上げ、ついあたりを見渡す。こちらを見ていた社員たちが一斉に視線をそらした。内心辟易した。気づけばスーツの上着の胸ポケットに手をやりそうになり、自制する。代わりに、静かに息を吐いて席に戻る。


「あの、少しお時間いいですか」


 部下だった。今年の新卒で、そろそろ半年になる。


「ああ。いいよ」


 そういったが、部下はなかなかその続きを口にしない。気にして様子を見ると、


「その、外でいいですか」と言った。


 ため息を飲み込む。


「いいよ。空いてる会議室は……」


「いえ、大丈夫です、そこまででは……」部下が首を振る。


「わかった。ちょっと行くか」


 おれは立ち上がって、オフィスを出る。部下は静かについてくる。ビルの外に出て、一番近い喫煙所に出た。正確には喫煙所ではない。なんとなくちょうどいいビルとビルの隙間がある。コンクリートで固められたそこの上に、ぽつぽつと吸い殻が落ちている。もちろん、おれの物ではない。


「すみませんでした」


 部下は少し落ち着く前に、素早くそういって頭を下げた。


「もう聞いた。取引先との支払いはなんとかなる。確かにあちらがオフィスに怒鳴り込んできたときはびっくりしたが、もう済んだからいいだろ。まあ、その、おれの机の上にあった請求書、いきなりシュレッダーにかけるのはほんとあれだと思うけど」


「すみませんでした」


「いや、いいって」


 おれはそういって、つい自然に、煙草を取り出して口にしていた。多分、こいつがわざわざ外で謝るのは、おれが煙草を吸いたがっていることを察してだろう。そういう気配りは今後、届いた書類一通一通に向けてほしい。


「自分、会社辞めようと思うんです」


 しかし、その一言で、思わず煙を咽こんだ。げっほげっほとせき込むおれにしかし、相手に慌てる様子はない。ちょっとイラついてふり見ると、泣いていた。煙草吸いてえ。おれは指先のまだ半分以上残っているそれを忘れてそう思った。


「一回ぐらいでそういうなって。気を落とすのはわかるけど」


「でも、おれ、決めたんです」


 急な覚悟に、おれは素直に戸惑った。


「いや、おい、待てって」


「■■■■さんにはお世話になったので、一応直接言いました。あとは、退職代行から電話がいくと思います」


「おいおい、え、まじかよ」


 おれが戸惑っている間に、なんと彼は、そのまま走り去ってしまった。青空喫煙所に、おれだけがぽつんと残される。すると、急にスマホに着信があった。妻だった。


「■■■■が熱を出したの! 何してんの!」


「わかった。帰るから、ちょっと落ち着いて」


 おれは眉間に指を当て、自分を落ち着ける。そして、吸いかけを口にする。


「煙草吸ってんじゃないでしょうね」


 どきりとした。


「もうほとんどやめただろう。家じゃ吸ってないし」


「とにかく、お願い」


 思うところはあった。妻は専業主婦、という考えが脳天を突き抜ける。なんのために家にずっといるんだ? 蟀谷から火が出そうだ。吸いかけをその場に捨て、踏みつける。マナーが悪いのは知っているが、今はもう、そうするしかなかった。でないと、もう一本吸ってしまいそう。時間がない。早く帰ろう。部長に頭を下げ、その直後に早退。思うところはある、が、仕方ない。印象は……とか考える自分を頭から追い出す。が、やっぱり煙草は拾い、携帯灰皿に押し込む。マナーは大事だし、ここが禁煙になったり塞がれたりするのは困る。


 そのとき、スマホが振動した。メッセージアプリに着信があった。


『ヨシマル君の徹マンのお知らせ! 無視したら死! 絶対集合!』


 煙草を携帯灰皿に押し込んでよかった、そう思ってしまった。そうでなかったら、真っ先にスマホの画面に押し付けていただろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る