第二章 燃ゆる悪習の村
第15話 ヤニカス転生
マナー、というものがある。
ノックの回数、お辞儀の角度、名刺の渡し方、着席の位置、順番、飲み会だって酒の注ぎ方にいちいちケチがつく。得てして碌なもんじゃないが、いざ何か、初めてそれをやろうとしたとき、マナーなんてのをあらかじめ知っていると、まるで体がレールに乗ったように動く。意外に便利なものだと思った。
だからおれは、靴を脱いで、丁寧に揃える。その傍に遺書を置き、ビルの柵を超えて屋上の淵に立った。七階建ての雑居ビル。信用されたもので、鍵は、ビルのオーナーに、屋上で社内レクをやるから一晩貸してほしいと言ったらあっさり手に入った。休出中にたまたま喫煙所で話して以来、年末年始や土日に煙草を吸う仲だからだろう。息子さんとも会っていないようだし、きっとそういうところにおれがはまったのだろう。
ふいに抜けていく夜風が気持ちいい。月もない夜、深夜二時過ぎ。
『今日は死ぬにはいい日だ』
飛び降りたとき、コートを着たままだと邪魔だろう。脱ごうと思ったが、最後に一本ぐらい、と思って内ポケットから煙草とライターを取り出した。口に咥え、火をつける。煙が脳を通り、やがて夜をすり抜けていく。それを薄ら目で見ながら、もう一度煙草を通して息を吸う。煙が肺、脳を伝う。にわかに全身の血管が湧くのを感じた。そうして、ふぅ、と吐くと、辺りが真っ白に染まった。
そうしているうち、あることに気づいた。あっという間に短くなったそれを、どうやって捨てようか。あたりを見回すと、わずかな明かりに照らされて、さっきまで飲んでいたコーヒーの空き缶が目に入った。その蓋を開け、中に吸い殻を入れる。いつもやっていることだった。
レール。
生来、言われたことをやるのは得意だった。
勉強、スポーツ、中学受験、高校と大学をそのままエレベーター式に上がった。仕事だって適当に決めた。一番最初のOB訪問先にした。
――あと、もう一本だけ。
がちっ、とライターを響かせ、煙草を通す。
仕事は、少し大変だった。ルート営業が主な仕事だったが、それでも仕事として人と付き合うレールを見つけるのは難しかった。が、新しいマナーというレールを見つけると案外うまくいった。
――がちっ。
煙草に火をつける。もう一本。
レールを見つけ、それに乗り、あとは無心に逸れることがないように、乗り切る。
――がちっ。もう一本。
――がちっ。もう一本。
たまたま参加した先方の会社の懇親会で、彼女ができた。
――もう一本。
仕事も順調で、あっさり昇進した。同期の面倒も見ることがあったが、いよいよ部下もできた。
――がちっ。
子供もできて、結婚もした。
――がちっ。
家族のことは大事だった。同じくらい、部下も大事にした。仕事を回すことが家族のためになる、というのもあったが、単純に人として、彼らを軽率に扱うことはできなかった。
――がちっ。
部下のミスは責任を取って先方へ謝る。上司にも報告し頭を下げる。損失を賄うために資料を作り、方々へお願いを立てる。
――がちっ。
家事もやった。妻が苦しそうなのは見ていられなかった。自分が家にいる間だけでも、彼女がずっと椅子に座っていられるよう、率先して子供の相手をした。自動化も推進した。自動ロボット掃除機を購入し、それに応じて家具も買い替えた。食洗器も買ったし、調理器も導入した。料理なんてついぞしたことがなかったが、マニュアルを読んで食材を入れればすぐにできたし、洗い物も機械に詰めればそれで終わり。もっと早く買えばよかったと思った。
――がちっ。
子供はすぐに大きくなる。家計が、とそのころ妻が初めて切り出してきたことを覚えている。
――がちっ。
この仕事は、つまるところ人付き合いだった。内外問わず飲み会に行き、喫煙所に張り、エレベーターを待ち、ゴルフへ行き、麻雀を覚えた。人を教えてもらい、時に助け、利用されながらも、自分のレールを探した。
――がちっ。
酒は苦手だった。でも、飲み会は積極的にいくことにしていたし、それ故か、呼ばれることも多かった。便利な数合わせ要因としての責務を、おれはもちろん理解して果たしてきた。そんな、もう月曜日になったある夜。効きもしない三本目のウコンの空き缶を道端に捨て、家に帰っても、おれは違和感に気づかなかった。
朝、自分のコートやスーツが脱ぎっぱなしのまま家に散乱しているのを見て、家族が自分から離れていたことに気づいた。
――がちっ。
電話が掛かってきた。お義母さんからだった。取ろうとしたが、仲良くしてもらっている取引先の会社員から、やりやがったな、と一言メッセージが入っているのを気にしていると、お義母さんからの電話が切れてしまった。代わりに、上司から電話が来た。
部下がまたミスをした。作った大事な見積資料を別の会社渡し、問題になった。
朝一にかかってきた電話の応対を家で済ました。家族への連絡が遅れた。
お義父さんから、娘が泣いていると電話が来る。
『もういい』と言われた。
部下から
『もう辞めます』とメッセージが来た。
取引先から信用していたのに、と連絡が来て、
まったく関係のない会社からゴルフの招待が送られ、
雀荘の年末年始の営業日案内がメッセージで着信し、
二次会でよく使うカラオケのクーポンが届いた。
ダイニングで冷蔵庫を見上げ、来月車検だなあ、なんて思い出して、扶養控除、保険、税金。その時、ふと、もうおれにはどうしようもできない、と思った。
――がちっ。
そういえば、初めて自宅のダイニングで煙草を吸った。味がしなかった。体はニコチンを感じている。ただ、心も体も冷えていた。
『スマート清掃を開始します』
自動掃除機が動き、床に散らばったおれのスーツを吸い始めた。
――がちっ。
紫煙が昇る。おれと逆だ。夜風が止んでいた。
――目の前に、レールがある。
暗い暗い、見えない足元。いつもそこを歩いて出勤しているのに、初めて見るようだった。それもそうか、屋上の柵を超えて下を見ることなんてなかった。
『今日は死ぬにはいい日だ』
アメスピ、煙草の箱がそう言っている気がした。口の中の唾液を集めて一飲みする。鼻で息をしてみる。もう、なにもない。何も感じなかった。後輩が吸っていたアイコスだってまだ癖があったと思う。
ふう、と一息。体の一挙手一投足がレールに乗って動く。
そのあとの行動にも迷いはない。最後の一本はまだ大半が灰にならず残っていたが、吸いきるとまた新しいのを始めてしまうだろう。それを柵に押し付けてシケモクにし、コーヒー缶に詰めて蓋をした。全ていつも通り、レールに乗った作業。
コートは邪魔になりそうなので直感的に脱ぎ、冷たい空気にスーツを晒す。急に掴んでいた柵の冷たさを感じ、まるで後押しされているように思った。
コートは空き缶の傍に畳んで置いた。
と、そこまで自然に動いて、いまだに左手の中に煙草の箱があることに気づいた。どうしようか。つい、眺めてしまう。
もう一本ぐらい、まあいいか。
おれはついつい、もう一度箱を開け――。
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