第10話 山頂にいる未成年(子供)

「略儀、山を満たす煙の香り、香木に同じく。風に交じりて崖を駆け、われらを隠す大箕なり」


 ぱっと両手を前に突っ張り、宙に向かって印を切る。リルは声を上げた。


「姉上、杖がなくなったのでこれがわたしの限界です」


「わかっています!」


 すでにイアコは走り出していた。ぴい、と杖を吹いて風を起こし、それを外套で受けて宙を舞う。そして、地面に倒れ込んでいるネチル少年の首を掴み、引っ張った。


「逃げます!」


「いやだ! おれは!」


 抵抗するネチルへ、イアコはさっさと地面に落ちたリルの杖を手に取り、その先端から煙が出ていることを確認する。それをさっと少年の鼻先にやれば最後、少年はうぶっ、と変な声を上げて動かなくなった。


 周囲に煙はほとんどないが、代わりに臭いともいい匂いともつかぬ奇妙な香りが満ちていた。木を燃やしたようでもあり、獣の息遣いのようでもあった。リルの最後の攪乱魔術が利いている――鼻が利かないどころか周囲の音も視界もぼやけている。だが、〈パッチャ〉にしてもそれは同じなようで、口内の火傷が治ったのか大人しくなったそれは、長い舌を何度も出し入れしながら、静かに辺りを見回していた。


 その隙にイアコは素早く自分の外套を外し、リルの杖と一緒にネチルに結び付ける。そして一瞬、〈パッチャ〉の様子を振り見ると、自身の杖を吹いた。甲高い笛の音に〈パッチャ〉は当然振り向くが、イアコの笛の音に呼ばれた風を受け、ネチル少年とイアコの外套は、ふわりと宙を舞い、リルの元へと帰っていった。


 それを見届け終わるその寸前、イアコの傍を大蛇の尾の打撃が襲った。上位の魔導具〈獣母の外套〉がない今、イアコは路傍の石と同じく簡単に弧を描いて空を飛び、地面を無様に転がった。受け身は取ったつもりだったが、腕の感覚もなく、目で見るまで自分の手から杖が離れていることにすら気づかなかった。


 蛇の頭は今、ついに正確にこちらを見ている。逃げよう、そう思って足を突っ張るが、ピクリとも動かない。走ることが出来れば、火をつけながら森に逃げることもできる。リルにもう少し時間があれば、まやかしで〈パッチャ〉の動きを封じることもできただろう。でも、全部、もう叶わぬ。


 だが、それが今、ここで怪物にただ食われるだけの理由にはならない。


 イアコは、奴の口内を焼いた感覚を思い出す。その中、〈パッチャ〉の舌こそ最大の感覚器官。それさえ焼き切れば、『次』につながる。


「一級魔術師がどんなにおいしくないか、最後に教えてあげます」


〈パッチャ〉が、イアコをしかと認め、大口を開けて接近する。その姿目掛けて、イアコはその舌を焼くべく意識を集中した。もはや目を開ける必要もない。が、そのとき、ぶちん、と彼女の集中が切れた。断たれたのである。


 はっとして目を開けると、その時初めてイアコは、〈パッチャ〉の絶叫を聞いた。己の身が火に包まれようが、酸を浴びて溶かされようが、口内を焼き尽くされても叫ばなかったのに。それが今、絞り出すような悲鳴を上げていた。


 遅れて、ばん、と破裂音に似た音を立て、イアコの目の前に何かが落ちた。人間の身ほどの大きさの肉の塊――〈パッチャ〉の舌だった。理解が及ばなかった。なぜこれが、千切れているのか。


「お前が勝手に蛇退治に出たクソガキか?」


 リルが撒いた匂いのまやかし、その全て台無しにする最低最悪の悪臭が傍に立っていた。

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