第8話 その男、ヤニカス
歩くことを忘れ、座す。
われは地面の冷えを知った。
もはやすべては煙の中。
全てを忘れ、呆けるため、われは気づくと酒を煽った。
世は全て煙の中。全てを忘れ、酒の味を知り、われは立つ。
ジェノバ・バナヤ『教詩編ヤータ記』第二節より
***
酒場の奥から黒い塊が蘇った。それが身を揺するだけで拡散する、山では到底嗅ぐこともないだろう磯臭さに皆が鼻をつまむ。小さく蹲っているときは気づかなかったが、立ち上がるとその身長は酒場の天井に近い。しかも、がりがりに痩せているおかげで、一種の化け物に印象は近かった。目の隈もひどく、まるで死人のよう。癖が強く長い黒髪が化け物の肉垂れを彷彿とさせた。それが、あ、と音を発した後、大口を開け、その体を折り曲げた。そして、
「おぇえええええ」
と床に盛大に吐き散らした。全員がさらに顔をしかめた。
吐瀉物もまたすごかった。何を食ったのかわからないが、白い触手のようなものが床を跳ねている。それが五本も。それぞれが跳ねたり伸びたりと収縮を繰り返す。本当に、一体何を食べたのかわからなかった。
「何喰ったんだ、お前」村人の誰かがつぶやいた。
本当に何を食ったのか、誰もが皆目見当もつかない。皆が皆顔を見合わせた。
「何食べてたのかは、わからんが、おい、あんた……」
店主は恐る恐る男に近づいた。睡眠薬代わりの酒代の請求、床の清掃、臭いによる営業妨害、そもそも一晩店の隅で寝こけたんだから宿代も請求したい、あとこれ、何を食べたんだ、など様々な考えが頭を過り、はてさて何から話せばいいのやら。元凶たる男は今、四つん這いになって全身をがくがくと震わせている。酒だけが悪いのかわからなかった。
「だ、大丈夫か」
さすがのターラーもここで金の話をするほど鬼ではなかった。全ての疑問を飲み込んだのだ。もちろん、本心から彼の体調を心配しているわけではないが。
「大丈夫、だ。これは、いつものことだ」
呼吸は荒く、がくがくと震え、唇の端から涎を垂らしながら男は言った。
どれがだ。どれが大丈夫なのか。どれもがやばい。いつもだからと流せるものが何一つなかった。男の顔も青白かったが、今更ながらにこの化け物のような男に対し、ターラーは血の気が引いていくのを感じた。
「煙草、煙草はないか」
男は身を起こし、壁に寄りかかる。そして自分の外套の裏を見たりめくったりしながらそう言った。
「なんだそれ。知らないが」
ターラーは困惑交じりに答えた。
「……そうか。そうだよな。知ってた」
男は落胆したようだった。はあ、と溜息一つ。
「それより、なんか聞こえたぞ」
「どれですか? いろいろとありまして……」
ネチルのことか、〈パッチャ〉の話か。それとも魔術師姉妹のことだろうか。
「灰が、灰がどうのって言ってなかったか?」
男は震える指で外套の中から一本の、指より短い棒切れを取り出し、咥えた。それをがじがじと嚙み始める。おしゃぶり替わりか? と誰かが小声で言った。なんにせよ、恐ろしく気味の悪い絵面だった。
「おい、灰の話だ」
ぺ、と棒切れを吐き出し男はもう一度言った。
「あ、ああ。灰だな。確かに、昼頃店に来た魔術師がそんなことを言っていた。なんていったかな、灰とかさらとかって」
「灰って言ったか? もっと詳しく教えろ。正確に言え」
男の圧に押され、ターラーは必死で魔術師の言葉を反芻した。
「確か、灰の、さら、とか? 灰をどうして、何と言ったか、さらうんだとか……」
自信なさげにターラーは、昼間聞いた言葉を口の中で何度も噛んだ。
「まさか、ハイザラと言ったのか?」
男の手が素早く伸び、ターラーの首を掴んだ。さっきまで震えていたとは思えないスピード。その瞬間、ターラーは解放されたい一心で叫んだ。
「そうです、そうそう、ハイザラを探していると、魔術師の姉妹が言っていました!」
「まじかよ。灰皿っつったのか。どこだ、そいつはどこにいる」
男は顔を寄せた。ターラーは間近に、磯臭い男の顔面を突き付けられ、目に涙が浮かんだ。呼吸ができない。息を吸った瞬間、床の吐瀉物がもう一つ増えるだろう。充血した瞳が震えるターラーを睨む。
「多分、山頂の方に……〈パッチャ〉を追いかけて行ったはずです。あと、子供も、ニコルの息子、ネチルっていうやつが……」
「なんだそのむかつく名前のやつは。ニコ……ネチル、パッチ?」
「ネチルは村の子供で、〈パッチャ〉は蛇の魔物です。とくに魔物は強力で、でかくて……」
「そうか。とにかく山の上に行けばいいんだな。よくわかんねえが、ありがとう」
急に素直になると、げっほげっほと咳をしながら男は立ち上がった。ターラーは乱暴に、ゴミでも捨てるように解放された。
「やめておけ。相手は魔物狩専門の賞金稼ぎだって手に負えなかったんだぞ」
少しむっとしてターラーは言う。
「知るか。今は灰皿の……なんだ、誰だっけ?」
頭を押さえ男は言った。彼にはそういえば、眠らせるために一番度数の高い酒をお見舞いした。体質にもよるが、本来だったら、立つことはおろか、会話もままならないぐらいのはずだ。自分たちの話した内容すら、十分に飲み込めていないのは、想像に難くない。
「魔術師が山の上にいる。そいつに……」
「そうだ。灰皿の魔術師が大事だ。この世界の煙草について何か知ってるかもしれない」
なんか違う、とターラーは思ったが、口には出さなかった。もう勝手にしてくれ、という思いが勝ったのだ。
「何の話だ。とにかくやめておけ。どうせ、あの魔術師だって食われちまうさ」
ターラーはこの男との会話を降りたが、別の村人が声を上げた。
「なんだと。それは困る。ますます行くしかねえ」
いよいよ男は酒場の出口に向かって歩き出す。
「やめとけよ。あんた、丸腰じゃねえか」
この村で武器商をやっているブット・アジーがヤジを飛ばすように言った。
「一級魔術師はともかくとして、お前みたいなやつが〈パッチャ〉に食われたってなん得にもならないんだ。やめてくれ」
「ああ? 知るか」
その場の全員が後悔した。こいつ、喋ると口があまりにも臭い。
「おい、剣を売れ。何かあんだろ」
男はブットに呼びかけた。
「あるが、金は?」
「ない」
男はきっぱりと言い放った。
「じゃあ駄目だ。とりあえず、川かなんかで体でも洗ってから宿に行け。それか、村から出て行って……」
ターラーの言葉を無視し、男は外套を脱ぐとばっさばっさと振り始めた。即座に酒場無期限営業停止級の悪臭が充満した。そんな中、ぱらぱらからからと、床に小さな破片が落ちた。男は、それを卑しくかき集めた。そして、ターラーに突き出す。小さな、鱗だろうか。赤い破片が見える。
「これは赤獣とかいうやつが、魚から獣になるとき鱗だ。あと、こっちは岩の化け物の溶岩の結晶らしい。どれも高く売れると聞いた」
ターラーにはいまいちぴんと来ない言葉ばかりだ。一方で聞いたこともある気はしたが。だが、ブットが素早く反応した。
「そりゃ、確かに本物だったら凄い値が付く。赤獣の幼体は透明なでかい魚だが、陸に上がると赤く染まって嵐食いの獣になる。赤獣の鱗はその過程でしか生まれない。赤獣の鱗は嵐避けの縁起もので船乗りに人気だし、魔術師にとっては金色鳥の羽より頑丈で人気がある。あと、岩の化け物の溶岩だが、そいつは鍛冶屋が跳んで喜ぶぞ。いくらでも値を付ける」
その言葉に、男の口角が吊り上がった。
「へえ。じゃあ相当いい剣が貰えそうだな。出せよ」
「わ、わかった。店に来い」
「急げよ。魔術師が死んだらおしまいだ」
「だけど、一体これはどうやって手に入れた?」ブットは訊ねた。
「決まってるだろ。おれが倒した」
平然と男は言った。
「まさか。一番最近でてきた赤獣は歴代最大で、危なく終末級だったって話だ。まあ、運が良くて、自重で崩壊したらしいが」
「そんなことは知らねえ。陸には『ない』から、海に行ったらあるんじゃねえかと思っていってみたら、ちょうど海藻をたっぷり食ったでかい化け物が出てくるって言うから、陸から上がったところをぶち殺しただけだ」
「そんな気軽に殺せるもんじゃねえが……まあいい。一枚ぐらいは拾うこともあるかもな。本物かは店に鑑定装置がある。あんた、名前は?」
「ラーピース・メビウスタ。名乗るたびにイライラするからあんまり聞くなよ」
「わかった。ついてこい」
武器商ブットと男はさっさと酒場を出ていく。ターラーは酒代そのほか諸々の経費としてその欠片たちを押収したかったが、言い出せなかった。結局、村の男たちはラーピース・メビウスタなる浮浪者を見送るしかなかった。
「あいつ、なんなんですかね」
と言ったのは誰だったか。
「一応調べるか? 言ってたことが本当なら、大物だぞ。本当に〈パッチャ〉を倒しちまう」
「無理だろ。見ろ、まだふらふらだ」
ターラーはラーピースの後姿を指差した。全員が納得した。あれでは如何なる宝剣を与えても、虫一匹殺せないだろう。
「それに、なんにせよもう遅い。いくらあの二人が優秀な魔術師とはいえ子供だ。魔術師だけで魔物は殺せない。おれ達がすべきは、ネチル探しと、魔術師の遺品を王都へ送る準備だ。手紙を用意しろ。今頃もう死んでるさ」
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