第2話 イアコとリル

「姉上、姉上」


 肩が揺すられ、イアコ・ハイビットは目を覚ました。どこかの日陰だということはわかったが、いまいち記憶が判然としない。青い草木の香りが、なぜかぴんとこなかった。やがて、獣の香りと独特の香が焚かれていることから、自分が馬車の上であることに気付いた。馬車はもう止まっており、こちらを不審そうに見つめる御者と目が合った。


「姉上、寝すぎです」


 妹の声にどんどん意識が蘇る。彼女はもう馬車を降りていた。


「ごめん、リル」


 そういってイアコは立ち上がり、ごん、と天井に頭をぶつけた。


「小さい馬車で悪いね」


 御者が無感情に言った。居心地が悪くなり、イアコは財布を取り出した。


「お代は」


「さっき妹さんから貰いましたよ」


「姉上はよっぽど大きい馬車に乗っていたようです。のんびりできてうらやましい」


 そういいながらリル・ハイビットはわざとらしく欠伸をした。御者は複雑な表情でリルを見た。


「よい馬車でした。こちらを本業にしてはいかがでしょう。それでは」


 一息にそういうと、イアコは外にいるリルを蹴飛ばす勢いで馬車を降りた。振り見れば、小さな荷馬車だった。無理を言って荷運びのついでに乗せてもらったのだ。馬も小さい。御者はこちらを一瞥もせずに去っていく。


「ちなみに姉上、大分ぼられました。なんとお値段三千二百タポスです」


「構いません。王宮に請求しましょう」


 そういってイアコは、視線を上げた。遠くには険しく聳え立つ山。ここからは見えないが、その中腹にある村、バイパに用がある。目の前の斜面を這うようにうねった道が走っている。地図によれば、ここを登ればすぐだという。


 しかし、そのとき、己に課せられた使命よりも、イアコの意識を引き付けるものがあった。眼前に広がる、どこまでも澄み切った青空に、緩やかな草原。日光と風を吸い上げ、体が勝手に伸びをして、そのまま深呼吸してしまう。


「姉上はお気楽ですな」


 そういってリルは手に持つ杖でイアコの脇をつついた。不意を突かれ、イアコは手に持っていた自分の杖を手から落とした。


「そういうのはやめなさい」


 イアコはリルを睨みながら杖を拾った。


「わたしと姉上の仲だというのに」


「わたし達は国の名前を背負っているのです。それを自覚しなさい、という話です」


「では、お役人らしくわたしはこれから一言も姉上と口を利きません」


 リルはぴしりと背筋を伸ばした。イアコはため息一つ、


「そういう話ではありません。人が見ていない時にしなさい」


「今がそうなのでは?」


 リルは首を傾げた。


「それは……あれ?」


 イアコは空を見上げた。真白な雲が、薫ってきそうなほど近く見える。


「なぜでしょうか」


 そのとき、風に乗って異臭がした。はっとして振り返ると、やや遠く、馬車で通った道の向こうに人がいた。真っ黒な外套に同じく真っ黒な髪。少々珍しい風貌の、しかして巨大なぼろきれのような印象の男だった。一瞬こちらを見た気もしたが、彼はべたべたと下っていく最中のようだ。或いは、本格的に山道に入っていく様でもある。


「はて、あんな人いたでしょうか」


「黒くて目立たない人です。仕方ないでしょう」


「ですが、臭いです。不覚ですな。それとも、あれがここに巣食う魔物でしょうか」


 リルはふむ、と腕を組んだ。


「あれは山頂を塒にして、夜行動すると書いてあります。人には化けないようですし、なにより全長は城を一巻きするとも」


 イアコは鞄から紙切れを取り出し読み上げた。


「冗談です、姉上。しかし、城一巻きは嘘にしても、三級魔術師どころか、有名も悪名も好き放題の〈真っ赤な背景に白い文字〉の騎士団が敗北した魔物です。今更ではありますが、ここは撤退も視野に入れては」


「いいえ、それはありません」


 イアコははっきりとそういった。


「いいですか、リル。これはチャンスです。きっとあの方はここに来ます」


 心なしか、イアコの声のトーンが上ずった。


「うそくさー」


 その様子に、リルはつまらなさそうに言う。一方のイアコは目を輝かせて山頂を見上げた。


「なにせ、あの方は東西南北陸海空を問わず、ありとあらゆる人類を脅かす魔物を倒す、まさに国が誇る大英雄です。それを讃え、王宮に連れ、勲章を授けるのがわたし達、叙勲騎士の使命です。そう、その対象に相応しいのはまさしく!」


「あーあーきこえなーい。聞き飽きました、姉上」リルは首を振った。だが、無視してイアコは続けた。


「そう、その名は〈灰を攫う勇者〉様! シャシャの大海月を倒したのならば、次に勇者様が現れるのはここ、バイパの大蛇、〈パッチャ〉に違いないのです!」

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