あのニコチンをもう一度~シケモク探して異世界散策~

杉林重工

序章 煙草の煙に振り回される

第1話 シケていやがる

目の前は依然として真っ暗で、息をするとむせかえった。

いつまでこんなことを続けるのか。

何故われはここにいるのか。

嘆くわれの声を聞け。

せめて、眼前のこれがなんなのか。

われの前を――ものが欲しい。

すると、われの目の前に翳りが生まれた。

それが光であり、われはずっと、煙の中にいたことを知る。

なんと恐ろしいこと。

知らなければ、足の擦り切れることのなんと幸福なことか。


ジェノバ・バナヤ『教詩編ヤータ記』第一節より


***


 伸び放題の髪が、ずぶ濡れの真っ黒な外套に張り付く。さすがに視界が悪いと、男は前髪をかき分けると同時にそのまま後頭部へ回し、荒っぽく固結び。

 そして、盛大に咳をすると、喉の奥からたっぷりと海水を吐いた。


 ――最悪だ。


 海から上がり、ごつごつした岩の上を歩く。外套が重く体を支配した。月は雲に隠れ、前髪をどかしても視界は悪いまま。


 男は旅人。大事な持ち物は真っ黒な外套と護身用の剣一本。腹は減るが食わなくてもいい体質故、それ以外に特にこだわりはなかった――否、一つだけ、高い金を払って手に入れた魔術のかかった頑丈な箱と、その中のマッチがある。それ以外は簡素な服が上下と靴だけ。これは気分で買い替えたり、物々交換で手に入れる。死体から剥ぎ取ってもいい。窮まれば、踝まである外套が隠してくれる。だから、なくてもよい。


 海水で膨れた外套を、男は捨てた。否、遠く岸壁の上、木の枝に向けて投げたのだ。水で濡れて重たくなったそれは、引っかかるというよりもボールのように飛んだ後、水玉のように弾けて枝に絡まった。これで男の持ち物は衣服と剣だけになった。マッチは外套の中だ。


 風が吹き、雲が流れる。そうして漸く月が出て、男は再びその怪物と相まみえた。


 海に浮かぶ小島、否、それは頭。そして、同じく海面から突き出た触手たち。


 ――蛸だ。


 それも、特大。二階建ての家ほどある頭部に準じ、その触手も極太である。しかも、その数は八本以上。


 あえて世界に合わせて呼ぶなら〈クラーケン〉だろう。男は小学生以来読んでいない児童書を思い出した。

 

 ――きゅうきゅうきゅうきゅう。


 足の本数以外にも蛸と違うところがあった。その〈クラーケン〉は、触手の、普通の蛸ならば吸盤がある場所から八本の触手がそれぞれ生えているように見える。普通の蛸の触手一本に対する吸盤の数を二百とすると、単純計算で一本の触手に千六百本もの小さな触手を持つ。だが、その触手を数本切って、その認識が誤りだと男は知っていた。


〈クラーケン〉が持ちあげた触手に生えた八本の触手。その奥からぎょろりとした瞳が見える。ついでに、九本目、十本目の触手も間から顔を出す。


 ――きゅうきゅうきゅうきゅう。


 そう、この怪物は触手に無数の蛸を飼っているのだ。ファンタジーな世界故、ここの蛸は鳴くのかもしれないが、男は触手の中で子蛸が蠢いているから、べちゃべちゃした水っぽい声のようなものが〈クラーケン〉の触手から聞こえるのだと思っている。ちなみに、その触手を切るとその中から無数の蛸が飛び出て男を締め上げ食い殺そうとするのだが――今、血気盛んな子蛸が触手の穴からぼちゃりと零れ落ち、その奥から新しい子蛸が顔と触手を表に出した。


 頭から蛸の飛び出た両目が左右を見回し、ついに男を捉えた。と、同時に千を超える視線を男は感じた――来る!


 男は岩を蹴って跳躍する。男のいた岩場に〈クラーケン〉の触手が叩きつけられ、弾ける。吸盤の位置から押し出されるように子蛸が飛び散り、波となって男を追った。


 男は海岸の岩場を駆ける。蛸の群れから逃げ、触手の殴打を躱す。ある時は触手を剣で撥ね退け、蛸の群れを踏む。その中に、たくさんの小さな瓶や宝石を見た。


 そうだ、これが始まりだった。


『そんなに瓶が気になるなら、それを集めている魔物がいる』


 どうせ〈ゴブリン〉か〈ハーピー〉ぐらいだろうと高をくくっていたが、存外面倒なのが出てきてしまった。


 銀だこもねえのにこんなやつ殺したってなんの得にもならない。


 子蛸と〈クラーケン〉の動き、ついでにあの、名も知らぬ村人Aの発言を思い出せば、こいつが何に反応しているかはすぐに分かった。


『中身に興味があるんですよ』


『へえ、中身かい。もしかして、あんたが咥えてる棒っきれを探してるんかい』


『知ってるんですか?』


『おうとも。シャシャはわかるかい。西にいくと海がある。そこの海にはいつも霧が立っていて、不思議なものが入った瓶が流れつくって噂だ。で、それをこつこつ集める魔物がいるって話だぜ。そいつから巻き上げれば、その棒っきれが入った瓶も見つかる』


「騙しやがって。絶対にぶっ殺してやる」


 男は決意と覚悟と苛々を吐く。吐く。吐く。


 顔を上げ、剣を振りかぶり、遠く、海の向こうへ投げる。月光を尾にして剣が煌めくその瞬間、数十本の触手と〈クラーケン〉の目玉がそっちを向いた。時間にして一秒もない。だが、目を男へ戻した〈クラーケン〉が見たのは、灰色の、自身よりも大きな渦だった。岩も海水も子蛸も触手も巻き上げる、災厄の渦。灰色の向こうから、魔物は人間の吹き出す血のような怒りの輝きを見た気がした。

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