軛
三鹿ショート
軛
一見すると彼女は無害な人間だが、実際はその正反対の存在である。
それまで何事もなく歩いていたかと思えば、突然道行く人間を突き飛ばし、馬乗りになると、相手の顔面に拳を叩きつけていく。
相手が彼女を馬鹿にしたような態度を取ったわけでもなく、相手と因縁があり、抱いていた怒りが爆発したというわけでもない。
彼女自身も、自分にとって何が爆発の切っ掛けとなるのかと理解していないらしく、己の行為を後悔するような様子を見せたことは、一度や二度ではない。
ゆえに、私は彼女の暴走を止めるべく、常に行動を共にするようにしていた。
問題が発生した場合、即座に対応し、間に合わなければ、彼女の意識を消失させるための行動を迷うことなく実行していたのである。
だが、私は気が付いていた。
後悔しているような言葉を吐きながらも、彼女の口元が緩んでいたことを。
彼女は、衝動的な暴力に悩むような素振りを見せながらも、実際のところは楽しんでいるのではないか。
苦悩しながらも自身の衝動に抗うことができない哀れな人間を演じているのではないかと、考えてしまう。
しかし、それを本人に問うたところで、認めるわけがないだろう。
他者のことを思えば、彼女を閉じ込めておくべきなのだろうが、彼女の笑顔を奪うような真似をすることは避けたかったのである。
結局のところ、私も己の我が儘に従っているだけだということは、彼女と大差が無いのかもしれない。
***
息苦しさを覚えたために目を開けると、彼女が私の首を絞めていた。
私は彼女の腕を叩くが、彼女が行動を止めることはない。
やむを得ず、私は彼女の眼窩に親指を突っ込んだ。
その激痛によって彼女は離れ、私は咳き込みながらも、彼女に馬乗りになった。
両方の手首を押さえながら、私は落ち着くようにと何度も告げる。
だが、今日の彼女は即座に諦めることはなく、暴れ続けている。
仕方なく、私は彼女の顔面を何度も殴りつけた。
その動きが停止するまで続けたために、気が付けば周囲には血液が飛び散り、歯も数本ほど転がっていた。
我に返ったのか、彼女は暴れることを止め、両手で顔を覆いながら泣いていた。
私は彼女が眠るまで、その身を抱き続けた。
***
常に彼女を見張り、抑えつけていることに対して感謝しているのか、彼女の母親は時折差し入れをしてくれていた。
しかし、彼女の母親は娘と顔を合わせることはなく、常に彼女が眠っているときにやってきていた。
娘を他人に任せているために、合わせる顔がないのだろうか。
だが、幼少の時分に見た頃と比べると、彼女の母親は実に生き生きしているような様子である。
娘の件で悩んでいるような人間には見えなかった。
苦しむ娘を放置し、自分だけが人生を楽しんでいるということが気にくわなかったのだろう、彼女があのような衝動に駆られてしまう原因は、母親に存在しているのではないかと、私は告げてしまった。
私と彼女の実家は隣同士だが、彼女はともかく彼女の両親とは親しくなかったために、家庭の事情は不明である。
私の行為は、単なる八つ当たりである可能性も存在しているが、私の言葉に対して、彼女の母親は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、
「確かに、私が止めなかったことも原因の一つなのでしょうね」
その言葉の意味が不明だったために、私は首を傾げた。
彼女の母親は、娘が眠っている部屋の方角を一瞥してから、私に語り始めた。
***
彼女の父親は、ろくでなしだった。
昼間から酒を飲み、暴力を振るうことは日常茶飯事だったのだが、幼い娘に手を出すことはなく、妻を傷つけていた。
娘が幼いうちは我慢していたが、美しく成長していくと、母親は娘を差し出すようになった。
彼女は理不尽な暴力を振るわれ、助けを求めたが、父親は笑みを浮かべながら殴り続け、母親はその様子を目にしながらも手を差し伸べることはなかった。
罪悪感は抱いていたが、自分が傷つけられることがなくなったことに対して、母親が安堵していたことも事実だった。
しかし、その関係性は、終焉を迎えることになった。
娘である彼女が、眠っている父親を殺めたのである。
朝になり、居間に向かったところで、母親は凄惨な現場を目にした。
露出した脳は半分以上が壁に叩きつけられ、眼窩には大量の箸が突き刺され、口の中には酒瓶の破片が詰め込まれ、体内から取り出された臓器は床に綺麗に並べられ、切断された腕は肛門に突っ込まれていた。
そのような現場で、彼女は落ち着いた様子を見せながら、母親に告げた。
「彼女に対しては、父親は家を出て行ったとだけ伝えるが良い」
聞いたことがないような低い声に、母親は驚きを隠すことができなかった。
「あなたは一体」
「誰でも良いだろう。ただ、このことは憶えておくが良い。私は、彼女の両親に対する怒りから誕生した。ゆえに、今後も似たような人間を目にすれば、私が顔を出し、同じように暴力的な行為に及ばなければ、溜飲が下がることはない。娘を悪人と化すことを恐れるのならば、軛を作ることだ」
そう告げると、彼女はその場で意識を失った。
娘が意識を失っているうちに、彼女の母親は現場を片付けると、先ほど告げられた言葉に従うことにした。
だが、時折顔を出す暴力的な娘に耐えることができなくなり、私に相談したということだった。
***
私は、その告白を信ずることができなかった。
ただ、彼女の父親が家を出て行ったという点については、私も知っていることだった。
しかし、あまりにも現実離れした言葉に、私は受け入れることができなかったのである。
私の表情からそのことを察したのだろう、彼女の母親は首を横に振りながら、
「信ずることが出来ないことも、理解することができますが、私は経験したことを語ったまでです」
そのまま家を出て行こうとする彼女の母親を見ながら、私は彼女が元に戻る可能性を思いついた。
気が付けば、去ろうとする彼女の母親の背中に、私は包丁を突き刺していた。
叫び声をあげることもなく、彼女の母親の生命活動は終焉を迎えた。
これで、良いのではないか。
彼女の中に眠っている暴力的な存在を排除するためには、それが誕生する原因となった彼女の両親をこの世から追い出せば良いのではないかと考えたのである。
動くことがなくなった彼女の母親を見下ろしている私の肩に、何者かが手を置いた。
振り返ると、彼女が立っていた。
彼女は、自身の母親が殺められたにも関わらず、笑みを浮かべながら、
「これで、私もこの役目から解放される。きみにも面倒をかけた。感謝をしている」
そう告げると、彼女はその場で意識を失った。
***
その日以来、彼女が暴力的な衝動に駆られることはなくなった。
彼女はこれまでの私の苦労に報いるためか、私を気遣うことが多くなった。
そのような彼女を見ながら、決して彼女の機嫌を損ねることがないように、私もまた、相手に気を遣うことを決めていた。
それは、純粋なる恐れだった。
私までも、暴力的な彼女の餌食と化すことは、避けたかったからだ。
軛 三鹿ショート @mijikashort
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます