第3話「海獣夢」
私には子供の頃からくり返し見ているある夢がある。海辺の小高い丘の向こうから巨人のような怪物がこちらを見下ろしている、そんな夢だ。海から這い上がってきたその怪物は、獣のような目で私を睨みつけている。この夢から覚めた時は、とても恐ろしい気分だが、どこか懐かしさを感じているのも事実だった。海の獣の夢――私はいつしかそれを《海獣夢》と呼ぶようになっていた。
そんな夢を見るからと言って、とくに日常生活に支障をきたすということもなかった。あの絵を見るまでは……。
私は平凡な会社員であるが、休日に古本屋などであまり知られていない怪奇小説を漁るのが趣味だった。その日も古本販売のイベントに足を運んでいた。並べられた本を見ているうちに、とある一冊に目を止めた。『奪われた封印』というハードカバーで、著者名は天田一正となっている。手に取ると電流に触れたようなショックを受けた。その表紙絵が私がよく見る海獣の夢とそっくりだったのである。
購入したその本を持ち帰ると、夜中までかかって一気に読み通した。しかし内容はせいぜい凡作といったところだ。宅地造成のため山が切り崩され、太古に封印されていた怪物が蘇ってしまう。自衛隊の攻撃もものともせず怪物は都市を蹂躙してゆく。だが、民俗学者がその地方の伝説からヒントを得て儀式を行うと、怪物はふたたび眠りにつく、というストーリーである。
日本の怪奇作家について私はそれなりに詳しいつもりだが、天田一正なんて作家は聞いたことがなく、無名という他はない。表紙の絵と小説の内容は微妙に食い違っている気がした。絵では黒い丘の向こうからこちらを見下ろしている怪物には鰓や鰭らしきものが見え、半魚人風である。が、小説には海に関わる描写はほとんどないのである。奥付には〈装画・深江鴻海〉とあった。ネットで調べると、そういう画家が存在することは判明した。が、あまり情報はなく、昭和四十年生まれで、『深海より』『漁師の顔』『水神宮』といったタイトルの絵が代表作らしいということぐらいしかわからなかった。
『奪われた封印』の出版元は人造社、これも聞いたことがない名だ。ネット情報によると、怪奇小説や関連した評論、海外作品の翻訳などを細々出しているようだ。
私は表紙を前向きにして部屋に飾っていた。見れば見るほど気になる絵だ。そのせいか最近は海獣夢を頻繁に見るようになった。
何でもいいからこの絵についての情報が欲しかった。私は人造社へ電話をかけた。野口という編集者が質問に答えてくれた。あの表紙絵は、『海神ダルゴン』というのが本来のタイトルで、千波満春という画商が人造社に持ち込んだものだった。千波は画集の出版を持ち掛けたのだが、小説の表紙ならということで話がついたのだという。だがその後、千波という画商は海水浴中に溺死してしまい、画家の
ひと月ほどたって、私は思わぬ場所で深江鴻海の絵と再会した。都内にあるマナ・ブックスという古本屋は、一階が水煙管を吸わせるバーで、その二階にあった。階段の壁に古い映画のポスターなどが飾られているのだが、そこに深江鴻海の絵画展のポスターが貼りだされていたのだった。使われているのは年老いた男性の肖像で、首に鰓のようなものがついていた。たぶんこれが『漁師の顔』という絵ではないかと私は思った。そのポスターは十年以上前のものだった。結構な高値がつけられていて、私には手が出せなかった。店に入って主人に聞くと、深江鴻海についての記事が載っている雑誌があると言ってわざわざ探してきてくれた。『ユラリウム』という美術誌だった。
メインの特集はスペインの画家ゴヤだったが、中に深江鴻海の絵画展を紹介しているページがあった。『漁師の顔』はじつは複数の作品からなる連作で、いずれも鰓のある魚のような顔の人物を描いていた。さらに、上半身が魚で下半身が人間の群れが砂浜を歩いている『深海より』や、全身が光に包まれ無数の触手をもつ謎の存在を描いた『水神宮』も掲載されていた。
記事を読んで新たにわかったのは、深江鴻海は群馬県日比木村の出身、そして父親は寺井善章という名で、この人物は過激な自然保護活動で知られていたということだった。寺井は過疎化していた日比木村に無農薬野菜による自給自足を目指すコミュニティー《ひびきの里》を設立していた。注釈によると寺井は一九九二年に病没、その後《ひびきの里》は一九九四年の人肉食事件発覚を機に解散したとのことだった。
この《ひびきの里》の事件というのが気になって調べてみた。創始者の寺井善章はあくまで善良なエコロジストだったようだが、彼の死後コミュニティーは急速にカルト化し、宗教儀式めいた人肉食を行うまでに至ったということらしい。一説によると逮捕された幹部らの背後には黒幕的な未知の人物がいたとも言われているが、それも憶測の域を出るものではなかった。この事件に関しては『ひびきの里の深層』というドキュメンタリー映画が最も優れた資料であるとされていた。
『ひびきの里の深層』の監督は川崎秀といった。この人は現在、動画配信用の心霊ドキュメンタリーの製作がおもな仕事のようだ。SNSでメッセージを受け付けていたので、私は画家の深江鴻海について知っていることはないかと質問を送ってみた。
数日後、丁寧な返信のメールが来た。書かれていたのは以下の通り。深江鴻海は子供の頃に両親が離婚していて、鴻海は母に引き取られた。深江というのは母方の姓である。その後、父の寺井善章とはほとんど交流はなかっただろう。そして深江鴻海は画商の千波満春の死後、まもなく失踪し、現在も行方不明ではないかとのこと。そして最後には〈この件にはあまり深入りしないほうがいい〉という警告めいた一文が添えられていた。
私はこの頃には、深江鴻海の絵がもっと見たいという欲求が高まっていて、そんな警告は気に留めなかった。印刷されたものではなく、実物を生で見たかった。だが、どう探せばいいのか、それがわからなかった。
そんな時、一本の電話が私を深江鴻海のもとへ導いてくれた。電話の主は天田一正。『海神ダルゴン』を著書の表紙に使った小説家である。人造社経由で私が深江鴻海に興味を持っていることを知り、連絡してきたのだった。天田によると、深江鴻海は失踪したというわけではなく、絵画制作に打ち込むため世間との交わりを絶ち、山奥のアトリエに引きこもっているとのことだった。深江鴻海は天田の小説が気に入り、彼にだけは消息を伝えていたのだという。ちょうど最近、畢生の大作というべき絵が完成したところで、ファンが訪ねて行けば快く会ってくれるだろうと言い、アトリエの住所を教えてくれた。そのアトリエには過去の作品もすべて保管されているのだとか。
そんなわけで、私は埼玉県の山奥にあるアトリエに向かった。鳥川市のはずれにある八ツ沼山がその住所だった。本来なら電話で来訪の許可を得たいところだが、深江鴻海は自分からかけることはあっても、かかってくる電話には出ないとのことで、イチかバチかいきなり訪問するよりなかった。
タクシーは山の麓までしか行ってくれず、あとは歩くしかなかった。二時間ほど山中をさまよい、やっとそれらしい家を見つけた。玄関に立ち、何と声をかけるか迷っていると、いきなりすごい勢いでドアが内側から開かれた。出てきた男は私を突き飛ばし、どこかへ走り去った。
私は男のあとを追った。たぶんあれが深江鴻海なのだという気がした。男は近くの沼地へ一直線に走りよると、そのままざぶんと飛び込んだ。しばらくすると沼の水面に泥まみれの頭部が浮き上がり、呆然と見守っていた私へ目を向けた。
「あの……あなたが深江鴻海さんでしょうか?」私はたずねた。
男は黙ったまま沼から右手を突き出し、家の方を指さした。家で待っていろという意味だろうと解釈し、私はその方角へ戻った。
開け放たれたままのドアから家へ入った。玄関から最初の部屋へ入ると、そこは居間と書斎を兼ねているような広めの部屋だった。本がたくさん置いてある。中でも目を引いたのは、机の上に平積みになっている何冊かの大判の書物で、それらはまるで土から掘り出して来たかのように、ボロボロで今にも崩れ果てそうだった。背表紙は外国語で、かろうじて判別できる単語は“ナコティック”とか“ケレーノ”などと書かれているようだった。
家のなかに人のいる気配はなく、私は椅子に腰かけて待っていた。やがて男が全身から泥水を滴らせながら戻ってきた。そのまま部屋を通り抜けると、シャワーを浴びてきたらしくバスローブを着て頭をタオルで拭きながら、ふたたび姿を現した。
「で、君は?」向かい側の椅子に腰かけ男は言った。
「あなたの絵のファンです」私は答えた。
男は黙ったまま眠そうな目で私を見ていた。
「あの……なぜ沼へ?」と私は問いかけた。
男は目を閉じてうつむいてしまった。眠ったのかなと思っているとぼそぼそと話し出した。
「呼ばれるんだよ……呼ばれるんだ……、沼にじゃない、海だ、海からの声が俺を引き寄せる。だから俺はこんな山奥にこもって……、引き込まれそうになったら、沼に飛び込めば気がまぎれるからな。だがそれも一時しのぎだ、またすぐにあいつの声が聞こえてくる。あの海の底のあいつ……クトゥルーが……」
「それって、あのラヴクラフトの小説の……?」
その名を聞くと男は目を丸く見開きこちらを睨んだ。
「そうだ「クトゥルーの呼び声」、それに「インスマスの影」……お前は何者だ! 何しに来た?」
「だから、その、絵を見せてほしくて」
「絵だと、俺の絵か……、あんなものは怪奇小説の表紙になるのがせいぜいのものじゃないか。千波という画商がいろいろ売り出そうとしてくれたが、その男も死んでしまった。いや、本当に死んだのかどうか……海水浴中の事故とか言われていたが、結局、死体は見つからなかった……あるいは今も海の底で……」
深江鴻海はぶつぶつ言いながらまた黙り込んでしまった。私は適当に思いついた質問をしてみた。
「お父さんは無農薬野菜なんかを作ってましたね、日比木村でしたか」
「ああ、父には一度会いに行った、死ぬ間際だったが。しかし、あれはダメだったな。真面目で善良なのはわかったが、何というか霊感がないんだな。そういうやつは何をやってもダメなんだ。あの村のコミュニティーも、父の死後は何かよくないものに乗っ取られて、ひどい事件を起こした……。そこへいくと母は霊感のある人だった。磯草村っていう千葉県の小さな漁村の生まれでね、もともと巫女の家系だったんだ。母が占ったとおりに船を出すといつも大漁だった。俺にもそんな力があればとも思ったが、男じゃダメなんだ……、ただ、海に呼ばれるだけ……」
「『漁師の顔』という連作の絵がありますね」
「ああ、あれは磯草の漁師をモデルにしてる。と言っても、じっさいあんな顔をしてるわけじゃないがね。あれは何というか、子供のころに見た記憶の中の漁師というか、その特徴を極端にして描いたものだ。……そうだ、磯草で漁師が撮った動画がある。見せてやろう」
壁に取り付けられた大型テレビに動画が呼び出された。はじめは何が映っているのかいるのかよくわからなかった。暗い画面に時おり緑色の光が瞬いて見えた。しばらく見ていると、それは夜の海を写したものらしいと理解できた。海中の発光体に接近する船から撮影したものらしい。グリーンの発光体は幾何学的な放射状の配列で、ぼんやりと明滅しつづけていた。
「何なんですか、これは?」
「さあな。磯草の海にはときどき不思議なものがあらわれる……、誰にもその正体はわからない……ダゴン、ハイドラ、ニャルラトテップ、ヨグ=ソトース……ラヴクラフトが書くそうしたものども、あれは実在するのか……君はどう思う?」
「え、そ、そんなことは……」
「あるいは、クトゥルーが眠るというルルイエ……、そう言えば、長年かかっていた大作がようやく完成したところだ、その絵のタイトルが『ルルイエ』というのだ。君はそれが目当てでここへ来たのだな」
「ああ、はい」
深江鴻海は右手にあるドアを指さした。「あそこを出るとはなれへ行く通路がある。そこがアトリエだ。過去の作品もすべて置いてある。好きなだけ見ていくとよい。俺はしばらく眠ることにする。見るだけ見たら、勝手に帰ってくれ」
渡り廊下という感じの屋根付きの通路をたどり、雑草が生い茂った庭をぬけるとアトリエのドアに着いた。
中へ入ると、正面の壁一面に大きな絵が飾られていた。海底の神殿の描いたもので、中央に黒い扉がある。緑色の石柱に蛸の触腕がからみつき、奇怪な深海魚の姿もあった。それらが異次元的な配置で構成されていた。
左右の壁にもほとんど隙間もないほどたくさんの絵が展示されていた。イーゼルに置かれたものもある。『深海より』『水神宮』などすでに知っている絵の実物も見ることができた。『漁師の顔』の連作もある。歩いていくと視界の中で絵が重なりあって、まるで立体映像の仮想現実に迷い込んだかのようだった。
そして私は奥まったところに何気なく置かれた『海神ダルゴン』を見つけた。この絵がそもそものはじまりだった。小説の表紙に使われていたこの絵を見たのが……、私が昔からくり返し見ている海獣の夢と同じ絵……ああ、目眩がする……これは現実なのか……漁師の顔……あの魚のような目がこちらを見ている……ルルイエ……クトゥルーの眠るところ……呼び声が……ふんぐるい むぐるなう くとぅるぅ ふたぐん!
……
その後何があったのか私の記憶は定かではない。気がつくと私は電車に乗っていたのだ。窓の外には都会の夜景が流れていた。
それから私は普通の生活に戻った。ただ夜には、海獣の夢やさらに異様なものの夢をよく見た。昼のあいだにも、何か幻聴のようなものが聞こえるような気がすることもあった。何かに呼ばれているような。それは海からの呼び声なのだろうか?
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