第2話「虫殻町ホテル」

 虫殻町むしがらちょうは、埼玉県鳥川市のはずれにある小さな町である。鉄道駅もなく、陸の孤島のような商業施設がいくつかあったが、それらもほとんどは廃業閉鎖され、今ではなかばゴーストタウンと化している。

 この町は、失踪者が妙に多いということで知られていた。「虫殻町へ行ってくる」と言い残したまま、忽然と姿を消してしまう人が、毎年何人もいると言われている。人間蒸発と呼ばれるような失踪事件は、全国でそれなりの数が発生しているのは事実だろうが、そのうちの何件ぐらいが虫殻町にからんでいるのか、実際のところはわかっていない。まあ、無根拠な噂なのだろう。

 二十数年前には連続殺人事件の舞台として、この町は注目された。二十世紀の終わりも差し迫った頃のことである。被害者はいずれも若い女性ばかり。五つの殺人を経たのち、五つの現場の中心地点で焼身自殺を遂げた正体不明の若い男性が犯人と目されている。殺人現場を線で結ぶと、歪んだ五芒星を描いていることから、何らかの宗教的な儀式が目的ではないかと推測されたが、真相は今なお藪の中である。

 この事件は、現在まで語り継がれる都市伝説をいくつか生んだ。たとえば、事件の真犯人は別にいて、さらなる大量殺人を計画しているとか、殺された五人の若い女は幽霊になって現場周辺を徘徊しているとか、あるいはまた、殺人儀式によって召喚された異次元の魔物がこの町のどこかに潜んでいるとか。

 そんな虫殻町へ彼はやってきた。仕事でなければ来ることもなかっただろう。その仕事も、委細不明、依頼人の正体も不明で、報酬はやたらと高額という、そんないかがわしい仕事なら、ふつうは断るところだ。だが、彼は引き受けてしまった。ハスキーな声で話す女からの電話だけを手掛かりに、運命的な予感に誘われて。

 自分が解決すべき事件が待っている、私立探偵・石鍋いしなべは、そんなふうに感じていた。金に困っているわけではない。いや確かに貯金の残高に不安はあるが、危険を嗅ぎ分ける能力は人一倍だと自認していた。しかしそれでも、時には危険とわかっていながら、踏みこんでいかなければならないこともある。それが探偵稼業というものなのだ。

 国道を走っていると《稲田屋》という定食屋を見つけた。この先何が待っているかわからない、まずは腹ごしらえと、彼は店に入った。店内には先客が二人。一人は長距離トラックの運転手らしいが、もう一人は職業不詳の暗い目の男だった。茶のシャツに黒スーツのその男は、彼の方を一瞬だけ目を細めてにらんだが、すぐにテーブルのカレーライスへ視線を落とした。

 しょうが焼きをかきこんでいる間に、黒いスーツの男は姿を消していた。食事を終えて、駐車場へ向かうと、不意に背後から声をかけられた。

「可哀そうな奴だな、こんな安食堂のメシが最後の食事とは」

「何だと」ふりかえって彼は言った。そこに立っていたのは黒いスーツの男だ。左手を懐へ入れている。

 銃声が響くより先に、探偵は地面に転がった。こういう危険には敏感なのだった。そのまま大型トラックの下を潜り抜け、自分の車に飛び乗った。グローブボックスからルガーをとり出す。初弾を装填しつつサイドウインドウを降ろす。男がリボルバーを手に、トラックを回ってきた。銃身が上がる。彼はトリガーを引いた。胸を狙って三発。相手は倒れた。

「お前の最後の食事は鉛ダマだったな」

 男は指さして、何か言おうとしたが、力尽きて死んだ。探偵は男の服を探ったが、案の定、正体のわかるものは何も持っていない。

「さっそく殺し屋とは、どうなってるんだこの町は」

 国道を進んで行くと、両側にパチンコ屋とガソリンスタンドがあったが、どちらもすでに廃業していた。

 少し先に目的地《虫殻町ホテル》が見えた。四階建ての小さな建物で、その名と同様、デザインにも工夫はなく、ただの箱だ。

 チェックインすると三階の鍵を渡された。部屋もかなり古びたビジネスホテルという感じだが、唯一変わっているのは、壁に絵が飾られていることで、海上に浮かんだ、暗い緑色の神殿らしきものが描かれていた。彼は長い時間その絵を眺めていた。

 それからやるべきことを思い出し、電話をかけた。「おれだ、言われた通りのホテルに着いた」

「そう、無事着いたのね」ハスキーな女の声が答えた。

「無事じゃなかったぞ」彼は殺し屋の風体を説明した。

「今時、拳銃を持った殺し屋なんてめずらしいわね。たぶん、横浜のヤンの手下ね」

「何者だ、そいつは」

「骨董商で、とくにある種の彫像のコレクターなのよ」

「彫像?」

「そう、それを手に入れるのがあなたの仕事よ」

 彼女はさらに説明をつづけた。依頼人が求めているのは、《オルコムの蛸》と呼ばれる謎めいた金属の彫像で、それは八角形の柱に蛸がしがみついてる形をしている。想像もつかないほど古い物で、持ち主となれば神秘的なパワーが得られると信じられていた。それはテンプル騎士団がアラブより持ち帰ったもので、歴代の所有者にはエリファス・レヴィやアレイスター・クロウリーも名を連ねているのだとか。そんな彫像が今、この虫殻町へと持ち込まれているというのだ。

 といっても現状、具体的な手がかりがあるわけではなく、情報が入手できるまで、このホテルで待機していろ、とのことだった。

 その夜、事件は起こった。彼の部屋へ訪問者があった。ノックに答えて、彼はドアを開けた。入ってきたのは鼠色のコートを着た小柄な男だった。マスクで口を覆っていて、皮膚は生白く青ざめていた。視点の定まらない小さな茶色の眼で、身体は小刻みに震えていた。手には古新聞で包んだ何かを抱えていた。ビール瓶ほどの大きさのもの。男はそれを差し出した。

 古新聞の包みはずっしりと重かった。包みを手放すと同時に男は、ばったりとその場に倒れた。そして、あっという間に外套の下の身体は灰と化してしまった。


 新聞紙の包みの中の何かが、光を発し始めた。淡いグリーンの明滅。包みを取り去ると、それは角ばった柱に巻き付いた蛸の彫像で、重みのある何らかの金属でできていた。

 突然、足元を風が吹きぬけた。室内にもかかわらず、あり得ない強風だった。風は、もとは人の身体だった灰を巻き上げ、渦を巻いた。方向を見定めるようにしばらく回転し、やがて一方に向かって駆け出し、窓を突き破って飛び出していった。

 窓の外を見ると、景色が異様だった。満月が異常に大きく見え、遠方の山なみの背後が赤く輝いていた。

 その時、ホテルの部屋が激しく揺れた。突き上げるような震動だった。地震というよりは何か巨大なものの足踏みのようだった。揺れは次第に大きくなった。何かが近づいてきているようだ。

 携帯電話が鳴りだした。出ると相手は依頼人の女だった。

「何かあった?」

「《オルコムの蛸》とかいう像が手に入ったぞ」彼はそう言って、今、起きていることを説明した。

「落ち着いて、それは敵の精神攻撃、ただの幻覚よ」

「どうすればいいんだ?」

「そうね、では『屍食教典儀』333ページの呪文を教えるから、心を静めて唱えなさい」

 女は電話口から呪文を囁き、探偵が憶えるまで繰り返した。彼は精神を統一し、あらためてその呪文を口にした。

「あうる くるろ いんかーらー」

 断続していた震動は止まった。部屋は静まりかえっていた。天井の蛍光灯が火花を発した、と思ったら、突如、床がめくれ上がった。そこから飛び出して来たのは巨大な蛸の触腕だった。その先端が彼の頭に叩きつけられた。倒れた身体に触腕が巻き付いて床下へと引き込んだ時には、すでに彼は気絶していた。すこしして、細めの触腕があらわれ、床に転がった《オルコムの蛸》を回収していった。


 彼は、硬い石の上で意識を取り戻した。周囲は立方体の黒い石が積み上げられた遺跡のような場所だった。石には迷路状のスジ彫りがなされていた。

さざ波の音が聞こえた。海の近くらしい。なんとなくこの場所の雰囲気に思い当たるふしがあった。ここはあのホテルの部屋にあった絵、それに描かれた神殿ではないか、そんな直感があった。

 空はぬけるような青空だった。長い尾をもつ怪鳥が、奇声を発しながら飛び交っていた。

 あたりを見回すと、小高い丘の上に黒い石の塔のようなものが見えた。塔の先端部で何かがグリーンの光を放っていた。とりあえずそこをめざして歩くべきか、と彼は考えていた。

 ポケットの中で電話が鳴りだした。こんな場所で電波が入るとは、と思いつつ出るとやはり依頼人の女だ。

「どうなった?」

「黒い神殿にいる」

「あの呪文じゃダメだったようね。じゃあ今度は『無名祭祀書』666ページの呪文を試してみましょう……いあ さぐ=れーぎす ばひばひ がんまうー しはら いあ さぐ=れーごす ばるろい がうんぐー どうる どうる あが らめんぎどれる おーあ さむはび……」

「おい、そんな長い呪文おぼえられるわけないだろ」彼はさえぎって言った。だが、女はかまわず呪文をつづけた。ハスキーだった声が、次第に気味の悪いかん高く叫ぶような声に変わっていった。

「はんたらー あんたらー くくりいい はぬまぬ かーしーあー ぱっふ へっふ くれん おおうい ぎぎにーあ ぎぎぎにーう……」

 彼はたまらず携帯電話を石の床へ叩きつけた。すると、床を這っていた黒いイソギンチャクに似た生物が白く細い触手を伸ばし、ガラスの割れたスマートフォンを引き寄せ、飲み込んでしまった。

 彼はやはり、あの黒い塔へ行くしかない、と思って歩き出した。まるで灯台のようにグリーンの光が明滅していた。

 黒い石の迷路をさまよううちに、低く唸るような呪文の詠唱が聞こえてきた。大勢の声が一つに重なっているようだ。こんな呪文だ。


 『いあ さぐ=れーぎす ばひばひ がんまうー しはら いあ さぐ=れーごす ばるろい がうんぐー どうる どうる あが らめんぎどれる おーあ さむはび はんたらー あんたらー くくりいい はぬまぬ かーしーあー ぱっふ へっふ くれん おおうい ぎぎにーあ ぎぎぎにーう らいええんひう くれんいあうー ひうう ま いあ さぐ=れーぎす いあ さぐ=れーごす』


 塔が近づいてきた。彼は光を発しているものが何かを目にした。それは蛸だった。八角形の柱の上にしがみついているのだ。つまりこれが、あの彫像《オルコムの蛸》の原型なのだった。彼は引き寄せられるように足を速めた。なぜそこへ行かねばならないのか、彼にもわからなかった。

「ここはいったいどこなんだ?」


 こうして、今日もまた虫殻町から人が消えたのである。

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