お先に失礼します。

「海いきません?」

派遣社員の今井さんが言った。

「海?海水浴?砂浜に落ちたゴミを拾うボランティアとかですか?」

私の言葉に今井さんは違いますよぉ、と言って豪快に笑った。

「実はね、今日神楽さんが下のフロアのヘルプに出かけている間に、みんなで飲みたいねっていう話になったんですよ。で、今から海に行くんですけど、神楽さんも行きません?」

「海って、ああ、駅に向かう途中にあるあの居酒屋さんのことか。海の誘い、っていうあの。」

今井さんは、そうそう、と言ったあと、私、飲み会のお金持ってないんでコンビニでおろします、と言った。飲み会ねぇ。今日は好きなイラストレーターさんの通販が夜にあるし、お金そんなに持ってないし、別に話すことなんてなにもないし、今更親睦むりやり深めようとしたって、どうせもう辞めるし、本当に聞きたいことや、言いたいことなんて言えるわけもないし、そもそも飲み会開くタイミング遅すぎません?

「ていうか、私いないほうがいいと思うんですけど。積もる話もあるでしょうし。」

私は正直に答えた。今までの会社での私に対する皆様の扱い、接し方を思い返してみれば、私がそのような答えに行き着くのは当然のことだと思った。

「どうしてですかー?全然、そんなことないですって!行きましょうよぉ。一緒に飲みましょうよぉー!」

「お金、持ってないんですよ。」

「そうなんですか?貸しますよ!」

優しいですね。ありがとう。でも、大丈夫です。

うん。えーと。そうじゃない。そうじゃなくて、よく分からない謎の空気感に包まれながら時間を過ごすことに使うようなお金の余裕はない、ということです。明らかに微妙な会じゃないですか。何のための会です?私いなくてもよくないですか?おそらくですけど、あれでしょ?こっちだって別に誘いたくて誘ってんじゃないんですけどー。仲間はずれしたら可哀想かなって思ったからあえて声かけてあげてるんですけどーってやつでしょ?だって嫌いじゃなかったらあんな態度会社で取らないもん。

私が苦しんできたこと、今井さんだって、天然ちゃんだって見てきたでしょ?私が行くのを渋る理由、わかるでしょ?え?もしかして分からないとでも?え?ちょっ。私、卑屈ですかね?あ。もしかして、井上さんがせっかく誘ってくれてるんですよ?光栄なことじゃないですかー?よかったですねー!ありがたく行きましょー!ってことですか?気持ちいいことじゃないことにお金使いたくないです。

可愛いとも美しいとも全く思えない世界観にお金落としたくないです。

早く終わらないかなぁって思いながら過ごす時間にお金を落としたくないだけです。

今日だって我慢して会社に行って、やっとのことで定時まで乗り切ったのに、飲み会でその稼いだお金使っちゃったら意味ないじゃないですか。食事の味もいまいち分からないだろうし、終始とにかく居心地悪いだろうし、酒飲めないのに割り勘、しかもお互い思うところしかない同士なのにそれを隠しながら過ごすとかしんどいし、仲良くない人の酒代払いたくないです。苦痛な時間を過ごすかもしれないのに、行きますとか即答できないです。

そして私は、お先に失礼します、とだけ言うと、飲み会には参加せず、家へ帰った。


翌朝。

「来ればよかったのにー。めっちゃ健全な飲み会でしたよー!その場にいなかった人の話なんてひとつもしなかったですよぉ!」

飲み会では健全で、会社ではある意味不健全とか、どうなんよ感がありすぎる。どちらかと言えばなにかと陰で言われてしまう側の人間である私が言うのも何だが、それこそ何のための飲み会だったのだろうか。本当に話したいことも話せない飲み会で、いったい、どういったところが楽しかったのだろうか?

というか、私の姿が見えないだけで、少し離れた場所にいるときに私のことを悪く言うよりも、むしろ私が完全にいない飲みの場所でなんやかんや言いなさいよ。もう私が会社を辞めることが決まっているからもう悪く言う必要がなくなったのかもしれないけれど。

「井上さんが何回も、神楽さんはどうして来なかったの?って言ってましたよー!」

どの口が言う。分からないですかね?私がその場所へ行かなかった理由。

「あと、鈴鹿君が、僕がこの飲み会に参加するって分かったから来なかったのかな?とか言うから、みんなでそれは関係ないやろ!って言ったんですけど。」

ああ。去年の忘年会のときに、いきなり口に含んだ唾液混じりのアルコールを私の顔面にぶっかけてきた彼ね。ようやく収まってきたとはいえ、まだ完全にはコロナが収束しているとは言い難いあの時期に『ごめんなさい。面白いことを考えてたら、思わず吹いちゃいました。』ってへらへら笑いながら言った彼ね。臭いし汚いし、やられたことは本当に最悪なのに、悪気はありませんでした、ということで許さないといけないなんて悔しくてたまらなかった。唾液混じりのアルコールがかかった服は捨てた。

悪気がないこと。いわゆるふいをついたアクシデントに対して、怒り狂うことは世間的にはおとなげないのだろうし、心が狭いのかもしれないし、そんなの仕方ないじゃん、ってなるのかもしれないけど、やられた側は、ほんとたまったもんじゃない。

あの時、本当は泣きたかった。それくらい辛かった。やらかした相手に悪気がなかったら、本当は全然大丈夫なんかじゃないのに、大丈夫です、って言わされて、やられた側が我慢して、そのときにふつふつとわきあがった怒りや悲しみを『やられた側』が自分で消化して、その場をおさめないといけないなんて、なんて理不尽な話なのだろう。ほんとこれこそ運だな、と思う。運に見放された日はこうなる。

そりゃ、優しいときもたくさんあったし、普通の日もたくさんあった。

けれど、今まで決して仲がいいわけではなく、日によっては険悪なムードで、私は、井上さんの私に対する当たりのきつさに何度も会社を辞めたいと思い、彼女は彼女で数え切れないほど私を疎ましく思い、苛立ち、頭に血をのぼらせたことだろう。お互い出会ってしまったのが運の尽きだったのだろう。嫌われた側の私がいうのも火に油を注ぐことになるからこっそりと思うのは、ここで私を排除したところで、世の中には色んな人がいて、自分の思いどおりに物事のすべてが進む訳では無いから、また苦手な人間と鉢合わせになることはきっとあるだろう。どこに行っても合わない人や、嫌だと感じる人はいる。

『こいつさえいなければ、どれだけ楽だろう。』

そう思う相手が完全にいない状態でずっと過ごすということは職場という環境においては稀なパターンだろう。大小多かれ少なかれ何かしらある。たのしーい!楽チン!という仕事なんて何処に行ってもない。そう言われてきたから私はこの会社にいた。けれど、思った。もう少し、ここよりましなところはきっとあるだろうと。

今の私は、いろんなことがありすぎて、素直な心が擦り切れて、卑屈さしか残っていないのかもしれない。

「飲みに行きません?井上さんが神楽さんにも声かけといてって。」

そう言われた時、とりあえず一回誘っといたら、長きに渡って、もやもやと漂い続けたわだかまりとかを、『気のせいなんですよ。あなたはなにか堅苦しく考えているみたいですけど、こちらはまったくなにも思ってはいませんよ?その証拠としてちゃんと仲間外れせずあなたのことも飲み会に誘いましたよ?』というような、既成事実を作られた気がした。本心はどうか分からない。もしかしたら、何か気持ちの変化があったのかもしれない。それは知らない。少なからず彼女がつい最近まで、私に対して何の負の感情も抱いていなかったかというとそれはありえないということだけは、はっきりと言える。

実際に私が真後ろにいることに気づかず、毒づいているのを何度か私自身、耳にしている。聞きたくなかったけれど、人様から彼女が私を悪く言っていたということも教えられた。今、思い返してみれば、そんな余計なこと教えていただかなくても結構だったな、と思う。人の言う事など、あまり重要ではない。私が彼女と関わって辛いと思った。それが全てだ。彼女も辛かっただろう。いけ好かない相手と、ほぼ毎日過ごすというのはきついから。ましてや指導しなくてはならない立場となるとなおさらだ。

ある意味、とんでもなく気の毒だったなと思う。疎ましいと思われていると分かった段階で、すんなりと目の前から消えてあげたかったけれど、私も生きていくためにどうしてもお金が必要だったからそれができなかった。法テラス経由で依頼した弁護士費用も毎月返済しなくてはならなかったから。

婚姻費用分担請求調停及び、離婚調停は、今まで散々、ああでもないこうでもない、相手はこう主張してくるかもしれない。通帳の履歴のコピーを提出して、浪費を指摘してきて、高額な返済を要求してくるかもしれない。などと様々な可能性を想定して、担当弁護士さんと何度も話し合いを重ね、モラハラの証拠を集め、書面にまとめ、音声データも用意して、こちらができる限りの手を尽くし、精一杯の防御と、戦闘態勢を取り、長きに渡るであろう戦に挑もうとしていたけれど、呆気にとられるくらいあっさりと終わった。夫から受け続けたモラハラの実態を時系列に分かりやすくまとめた資料も、そして、

『おばさーん!働いてない女は浮浪者と同じだもんなー。ピラミッドで言ったら一番下だよなー。るんぺんー。お前は、るんぺんー。お前は社会のカーストの底辺―!』

私が、夫と住んでいた家を出ていく少し前に録音した『一人楽しそうに妻のことを終始こき下ろしている夫の音声データ』も、モラハラを立証するにはとても重要な資料で、せっかく用意していたにも関わらず、お披露目することなく終わった。今まで費やしてきた時間は、一体何だったんだと呆れるほどすんなりと離婚が成立した。私の前ではあんなにも強気で、饒舌だった夫は、調停期間中、最初から最後まで一言も言葉を発することはなかった。夫のかわりに夫側の弁護士がすべて対応した。調停員さんが、『奥様に何か言いたいことはありますか?』そう尋ねても、俯いたままで一言も発さなかった。

私は夫と直接接触することはなかったから、夫の様子は調停員さんから教わった。

調停員さんに『悠斗さん、おとなしい方ですねぇー。』と、にっこり笑いながらそう言われた時、人違いではないかと本気で疑った。けれど、本人で間違いなかった。

こちらの弁護士さんにも、『最後、離婚成立の文書を読み上げるときに、僕、わかなさんの代わりにここにいましたから、ちらっと悠斗さんのお姿を拝見しましたけど、なんか、とりあえずしょんぼりしてましたよ。』と報告され、調停員さんにも『なんかね、しょんぼりしてましたよ!』と重ねて言われた。

夫は、書面では終始、『婚姻関係はすでに破綻しているのに、生活費を要求するのは、権利の濫用である。支払いを頑固拒否する。そして、離婚を要求する。有責配偶者は妻である。』とは記載してあるものの、具体的な理由については一切記載しておらず、内容がスッカスカだった。僕はこうしたい。そのあとの『なぜなら』の部分が完全に抜け落ちていた。

両家の話し合いの際に夫が主張していた『俺の人生においてお前は何の心の支えにもならなかったから、離婚原因は全面的にお前にある。』『思っていたよりも貯蓄が少ない。絶対に金は返済してもらう。』というようなことは、調停期間中、一度たりとも言ってくることはなかった。お互い、無駄に年を重ねただけで終わった。

『もう気持ちがないのに、夫婦関係を続けてもお互いにとっていいことなど何もない。そちらが金輪際、お金を返せとおっしゃらないと約束してくださるのであれば、離婚します。そしたら、婚姻費用も、財産分与も一切なくて構いません。』

調停員さんを通してその旨を夫に伝えてもらうと、私の提案に夫はすぐさま飛びついた。

分かりました。使った金を返せとは今後絶対に言いません。請求もしません。夫はそう言った。

そして、夫婦関係は終わった。夫のことが信用ならなかったので、『今後一切お金を返せとは言いません。』という旨の文面を離婚成立時に作成する書面に追加で記載していただいた。口約束ほど怖いものはない。

夫にしてみれば、嫌いな人間に財産など一円たりとも渡したくないだろうし、ましてや毎月の生活費などなにがなんでも渡したくないだろう。本音としては、オタグッズに消えた金も返してもらいたかったのだろうけれど、そこは諦めたのだろう。

フィギュアや抱きまくらやタペストリーなど。夫が住む家にそれなりにたくさん残してきた。実際、夫の部屋にはそれらが飾られているし、グッズも日々、夫は愛用している。その部屋は証拠として撮影しておいた。だから、収支の内訳も全く出さないまま、『俺の稼いだ金返せ。これくらいの金額は普通なら貯金できているはずだった。だからこちらが納得する金額を提示するから返せ。』と、闇雲に高額を提示したところで、そういった主張自体、通るとは思えなかったけれど、人生何がどうなるかなど分からないし、夫側が大金をはたいて、手腕弁護士を雇い、長年の経験と実績、研ぎ澄まされたスキル。ありとあらゆる方向からのアプローチで、次々と出口を塞がれ、こちらが言いくるめられ、あちらの主張が通り、こちらが負け、お金を返さなくてはならないという最悪のシナリオになってしまう可能性もあった。

けれど、そうはならなかった。夫は一応、弁護士を雇ってはいたけれど、私から見て、普通の弁護士だった。人生の再スタートの時点で、背負うものがあると、重くて押しつぶされてしまって、次の一歩が踏み出せない。けれど、なにも『負』の荷物がない状態で綺麗に離婚できたことは、本当に良かったと思う。調停を二回しただけで終わった。

裁判はせずに済んだ。夫にお金を返さなくて済んだ。もう夫側も正直、面倒臭いからさっさと終わらせたかったのだろう。

夫側からは何も貰わないのを条件に別れたから、私は金銭的に、ひもじい人生を送っていかなくてはならないけれど。もし長期間に渡って争うことになって、さらに負けてしまったりなんかしたら、年は取るわ、裁判費用はかかるわ、離婚はされるわ、婚姻費用はもらえないわで、踏んだり蹴ったりで、もう生きていくという選択肢を捨てなければならなかったかもしれない。

こちらは夫からのモラハラや悪意の遺棄など、それなりに主張できる材料は持っていたけれど、何処までそれが認められるかは分からなかった。だから、これで、良かったんだと思う。

元夫、自分より立場の弱い人間や、言い返してこなさそうな人間には、めちゃくちゃなことを、あたかも世間の常識のように語り、さも自分の主張が通って当たり前みたいな顔をして、偉そうにものを言うけれど公の場所に放り出された途端、なにも言えなくなって、しょんぼりするなんて、ほんと・・・。

離婚して良かった。そういう人のそばに、私はいたくない。金銭的に困ったとしても。きっと毎日が辛いだけだ。

どんなに辛い時があったとしても、なにもかもがそうだったわけではない。

いいときだってあったはずだ。誰とだってきっとそうだ。井上さんとだってそう。優しいところをたくさん見てきた。助けてもらったこともたくさんある。可愛い女の子だなと思う瞬間も数えきれないほどあった。私とは、たまたま合わなかっただけだ。


元夫は、私と同じ空間にいることを耐えられないと言った。私と同じ空気を吸うなんてありえないと言った。だけど、愛してくれたときだってきっとあったはずだ。それをすべてなかったことにして、ひたすら露骨に嫌悪感をむきだしにする夫の姿を見ていると何とも言えない気持ちになった。

夫のことを思い出そうとするたびに、足の裏の姿にしか変換できなかった私がいうのもあれだけれど。

ここまで人を嫌いになれるってすごいな、と思った。そして、ここまで嫌われる私って・・・と思ったけれど、それ以上考えるのはやめた。きっと、自分の思い通りに動いてくれる女性が良かったのだろうと思う。私はそうはなれなかった。いいときだってあったのだからそれでいいや。心から、そう思えたらどんなに素敵なことだろう。


飲み会に参加した人たちは、口々にこう言った。

『井上さん、サバサバしてて、正義感強くて、いい人ですよ。神楽さんが思ってるような人じゃないですよ。わけ隔てなくみんなにあんな感じですよ。』

『神楽さんも飲み会来ればよかったのに。神楽さんがいないほうが、話が弾むなんてそんなこと全然ないですよ。』

『神楽さん、井上さんに嫌われてるだなんて、そんなことないですよ、被害妄想ですよー。考えすぎですよ。』

正義感、とは。

『嫌いだったら、そもそも誘わないですよ。』

そうですか。


ほんと、私が会社辞めるとわかった途端、飲み会に誘ってきてすべての禊が済んだみたいな顔するのやめてほしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私が会社辞めるとわかった途端、飲み会に誘ってきてすべての禊が済んだみたいな顔するのやめてほしい。 藍川芽郁 @tarashiraco03

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ