いつだってまだ早い。
「ねぇ。会社辞めるんだって?」
滅多に話すことのなかった別のフロアの男性社員に声をかけられた。
まぁ。そうですね。私は抑揚のない声で答えた。
「聞いたんだけど、あいつにこの会社にいても幸せにはなれないから他の職場に行った方がいいって言われたんだって?」
「別に派遣社員としてはこのままこの会社にいてもらって構わないけれど、この会社に今後居続けたとしても、若くないから、正社員登用することはもうない。もし正社員になることが幸せの形だと思っているのなら、他の会社に行ったほうがいい。そう思ったから、あなたが辞めていくことを無理やり止めようとは思わない。けど、とりあえず今、人手が足りていないからもう少し居てくれんかと言われました。」
そう答えたあと、あのおっさんうまいこと言うな。そして、なんだかんだで丸め込まれてまんまと契約期間を延ばした私っておっさんからしたらちょろいと思われただろうなぁ。立場が弱いって、お金に余裕がないって、ほんと舐められるなぁ、そう感じた。足元見られながら生きるってほんと、惨めで悔しい。
「それって完全なパワハラやん。それに、正社員じゃなかったら幸せじゃないって何なん?あいつ、あのおっさんはこの会社の正社員だけど全然幸せじゃないやん。」
男性社員の言葉に私は力なく笑った。ほんとそうだ。人に当たり散らしてばっかりで全然幸せそうじゃない。
自分がその時、羨ましいとか、いいなって思うことって、いつまでも『いい』ものであり続けるわけでもないのかもしれない。その『いい』は、数年経ったら跡形もなく消えているかもしれない。立場や、環境や、その時の状況によって、きっと変化する。なくなるはずのないものがある日突然姿を消すなんてこと、もうみんな経験済だろう。何が起こるかなんて分からない。『何か』や、『誰か』を羨ましがるには、
いつだって『まだ早い』んだと思う。奇跡なんてそう簡単には起こらないけれど、輝いて見えたもの以上のものが手に届くかもしれない。そう思って生きたほうが、きっといい。
大丈夫だ。幸せの形はまだまだたくさんあるから。とりあえず、生きてみよう。
きっと、捉え方は自分次第だ。会社の人間なんて、辞めてしまえば人生の中で最も思い出さない人たちだ。出会った瞬間から、別れるまで、どうでも良くなかった瞬間など殆どない。
本当は常にお互い興味もないし、会社の誰かになにかあったとしても他人事だ。
一日のうち、身を置く時間が長いから暇つぶしにあれこれ詮索してみたり、悪く言ってみたり、仲間はずれしてみたりしているだけだ。暇つぶしに利用された側はたまったものではないけれど。
本当はこんなところ来なくていいなら来たくない。
そんな場所に、衣食住のために渋々たまたま訪れた寄せ集めだ。何もかもが違う者同士が集まっているのに仲良くできる方が本来珍しいと思う。
会社に属している時、あれだけ頭を悩ませていたあんなことやこんなこと。会社を辞めてしまえば、様々なことが心底どうでもよくなって、無になる。最終的にはそうなるものだと分かった上で、会社での拘束時間が長いから、どうせなら気持ちよく過ごしたい。その結果、長いものに巻かれ、臭いものに蓋をし、誰かに染まり、誰かをハブる。文字に起こしてみたらクソガキ感が半端ない。別に意地悪しなくたってみんな仲良くすればいいのにー。それがどうしてもできないのが、組織というものだ。
金が、そして社会保険が大事かつ重要なだけであって、あとはどうでもいい。大体、会社を辞めた翌朝には、会社の人間なんてどうでもよくなっているし、偶然会うことも殆どないし、思い出す頃には、おそらく社内の誰か死んでる。
私は、冷蔵庫を開けると、白バラコーヒーの紙パックを取り出し、
封を開け、そこにストローを刺す。ストローをくわえ、一気に吸い込むと、ミルク感たっぷりのコーヒーが頬の中に広がった。
あー。働いて良かった。これ買えたもんなー。私は白バラコーヒーを目の高さまで持ち上げると、お疲れさん、と言って紙パックに小さくお辞儀をした。
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