おじさん。

モップを床に滑らせながら、ふと壁の掲示板に目をやる。

1枚の用紙の中に同じ名前が2つある。

『2023年6月1日採用。吉田ゆま』『2023年6月10日退職。吉田ゆま』

INからOUT が早すぎる。素晴らしい英断。自分を大事にしていらっしゃる。

「あー。これでしょ?こんなんうちの会社、しょっちゅうですよ。あるあるですよ。

なんかね、この紙、二枚目もあるんですよ。ほら、あ。この人もですよ。ぎりぎり一ヶ月持つか持たないかくらいで退職してますね。まともなひとはこんな会社さっさと辞めますよ。あほらしいもん。私はここしか雇ってくれるところがないから仕方なくいますけど。ひひっ。」

天然ちゃんは楽しそうに笑って見せた。

それにしてもどうして私以外の人がおもしろいほどどんどん辞めていくんだろう?

私は散々あれこれ風当たりのきついことを容赦なくされてきたから辞める理由がはっきりしているけれど、他の人はなにが嫌なんだろう?定時で上がれるし、有給もつくし、残業代もつくし、ブラックかというとそういうわけでもないだろうに。しかもこの紙に載っている二人のうち、一人はほかの営業所だし。この会社全体がなにかしらあるのかな?かたや必死に正社員になりたがっていた人もいるし。実際、桜田さんはすんなりなれたけど。正社員になると安定するし、ボーナスつくからね。


さぁ。私はこれからどうやって生きていこう?

私なんかじゃだめな理由はたくさんあるのに、私じゃないといけない理由が何一つ浮かばない。

出勤前の明け方、悔しくて、また涙が頬を伝った。


何か私にもできそうな仕事はないかな、とハローワークへ足を運んだ。

相談窓口の女性は言った。

「えーと。もうすぐ会社辞めるんですね。失業保険の給付が終わっても・・・まだ30代だね。なら良かった。頑張っててもね、年齢で弾いちゃう会社、それなりにどうしてもあるから。40代に入っても素敵な人たくさんいるのにね。本人の魅力とか、そんなの吹っ飛んじゃうの。数字で。数字でだよ?」

私はぎこちなく笑ってみせた。世間ってそういうものだよね。そう思った。

会社で、記憶を司る海馬が収縮して、物覚えが悪くなる年齢だよね、というような失礼な発言されたっけな。ボイスレコーダーに録音して労基に訴えてやればよかったかな?とも思ったけど、きっと何の抑止力にもならなかっただろう。口にはしないだけで、会社ってそういう考えのところが多いから。

ただ、脳が衰えると言われてしまうにはまだ早いんじゃないか?あまりにも失礼すぎるんじゃないか?とやはり思うし、そんなこと、相手がいくつであってもわざわざ口に出して相手に伝えるべきではないと私は思う。程度が低い。そう思っている。

ハローワークから戻ると、父がみたらし団子をつまみにビールを飲んでいた。

「それにしてもお前の会社、別に接客とかないんやろ?受付嬢とか、人目に晒される職業ならまだしも、別に若くなくたっていいやん。なんでなん?」

父の言葉に私は首を傾げて、さぁ?とだけ返した。

あの会社にいるおっさんが『若い子が好き。』それだけなんだと思う。

世間のおっさんの大多数がそうなんだろうけれど、あそこまで開き直ってあからさまにそうなんです、と振る舞える会社はある意味、潔くて、気持ち、良くない。不快だ。

若い女の子は言う。『どうしておじさんって自分がおじさんであることを認識できていないんでしょうね?おばさんおばさんっていうけど、自分だっておじさんなのに。』

違う、そうじゃない。おじさんというものは、今の自分というものが一体何者であるか。他者から見たときに、自分というものがいかほどの位置づけをされるのか、そういったことと、自分が相手に対して何をどこまで求めてもいいかということは全くの別物なのだ。

おそらく自分自身がおっさんだということは認識しているけれど、だから?それで?という風におっさんである自分のことに関しては驚くほど無関心だし、どこまでも他人事なのだ。おっさんである自分のことなんて意識したくないのだ。だから、おっさんは、自分自身がおっさんであることを何処かに投げ捨てて、『安かろう悪かろう』を語る感覚で何の悪気もなければ、なんの謙虚さもなく、『若い女がいい。』と主張する。

そりゃあなた、若いほうがいいに決まってるでしょう?と。

そういった感情を抱くのも、SNSなどに投げつけるのも自由だが、そのあけすけな態度を、会社という組織の中で大っぴらに出しちゃうおっさんが権力を持ってしまっている職場に行ってしまうと、終わる。オブラートなり、なんなり、むき出しの感情を少しでも職場では包もうという配慮が微塵も感じられないおっさんがいる職場に行ってしまうと、これまた終わる。

何も悪いことしていないのに、ただ今まで生きてきただけなのに、追い込まれ、ちょいちょい『若くなくて気の毒ですね。』みたいな目で見られ、それっぽい発言を話の合間にサンドイッチしてくる。不味いことこの上ない。

一年に一回行われる面談や、健康診断の結果を渡される時などに、そういったことが顕著に現れる。

『最近どう?困ったことない?まぁ、こんなこと言ったら申し訳ないけど、桜田さんは若いからシステムが変わってもすんなりその変化に追いついて柔軟に対応できるかもしれんけど、神楽さんはどうしても、ね?年取ると色々と鈍くなるからね。頭も固くなるし。』

申し訳ないと思うなら、わざわざ言わないでください。

『神楽さん、視力悪いねぇ。見えてる?緑内障とか、白内障とか、ね。そろそろ体にも、がたが来るからね。仕方ないね。』

今まで何回『桜田さんは若いけど、神楽さんはね。』と言われてきたことか。

言い過ぎ。精神が日々、少しずつ削がれていく。さらにはストレスで余計老け込む。

なんか文句でもあんの?むしろ若くないお前が悪い。変な気を遣わせるな。悔しかったら若返ってこい。

支離滅裂な考えを持つおっさんが残念ながらこの世には腐る程存在する。

世間の常識を語って何が悪い。一般常識的なことを求めて何が悪い、という感覚なのかもしれない。みんな早かれ遅かれ、年を食って死ぬ。誰も逃れることはできない。だからこそ、今を嘆かず、自分を大切にして生きることが望まれる。

真実なんて死ぬまで誰にもわからない。死んでも当然分からない。

そういったことが世の中には溢れ返っている。もしかしたら、本当はまったく傷つかなくてもいいようなことかもしれないし、感じたそのまんま傷つくことなのかもしれない。私が思うよりも単純かもしれないし、複雑なのかもしれない。感情的なのかもしれないし、理性的なのかもしれない。単に機械的で、無機質かもしれない。そもそもそこに感情など加わっていなかったのかもしれない。自分が捉えているよりも全然軽いかもしれないし、とんでもなく重いかもしれない。

人って、本当のことをなかなか言わないから、真実がどうであるか分からないし、

実はこうだったんですよ、って言われたとしても、それすら本当のことなのか確かめようがないときもある。

私に関しては、会社が数字を優先したのかもしれないし、個人的嗜好を優先したのかもしれない。

『上の人間は、誰が仕事ができて、誰が仕事ができていないのかなんて分かっていない。』

それは真実かもしれないし、慰めかもしれない。

上は、見ていたかもしれないし、全く見ていなかったかもしれない。

きっと、仮にどこかの誰かが『年齢だけで正社員登用するか、派遣社員のままかを決めたんですか?それってパワハラじゃないんですか?』と言ったとしたら、

こちらとしては、二人共正社員に登用したかったのですが、その判断をしなくてはならない段階で、神楽さんの仕事のスキルが正社員登用するには必要なレベルにまで到達していなかったということと、仕事ぶりを見て、今後スキルの向上が見込めなかったので、本採用に至りませんでした。確実にそう答えるだろう。

いや、仕事できていないなんて思ったことなんか一度もない。ちゃんとできてるっておっしゃいましたよね?と言ったとしたら、できていないとは思っておりませんが、先程も申し上げました通り、正社員登用するレベルには到達していないと言うことです。そう繰り返しただろう。ごもっともだと思う。

なにが頭にきたって、今まで理不尽な怒りをぶつけられてきたことと、私が辞めると決断した時、ちょうど私以外の退職者も出て、人員も減って、けれど仕事量は増えるからといって、もう少しだけ会社にいてくれんかと頼んできたところまではまだしも、では仕事量が落ち着く数か月先まではいますと告げたあとに、郷田は言った。

「助かったわ。これからも変わらず気になったことはじゃんじゃん指摘させてもらうから。もっと変えたほうがいいと思うところはバシバシ言っていくから。次の職場で神楽さんがちゃんと働けるようにいろいろと言わせてもらうから。厳しくいくわ。」

もはや狂っている。人にものを頼む人間の取る態度ではない。ガムテープの貼り方が気に入らないとか、梱包材の詰め方が気に入らないとか、PPバンドを締めるときの手付きが気に入らないとか、そんなのお前の好みの問題だから。お前のこだわりが世間の常識だと思わないでいただきたい。

お前からぶつけられた言葉で役に立ったことなど殆どない。別に指摘されないままでいても何の問題もない。それに他の人はよくて、私一人だけ駄目になってしまう指摘の内容なんてそもそもぶれすぎていて何の参考にもなりゃしない。

もう疲れた。付き合いきれない。さっさと森へお帰り。

それか、そっと天に召されてください。

どうか、あの妖怪を私の目の前から消してください。何度も神様にお願いしてみたけれど、最後の最後まで頭を散らかしたあのおっさんがいなくなることはなかった。短期出張すらなかった。いつでもいた。だから、多分、神様なんてあてにならない。


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