会社行く前からもう帰りたい。
職場に復帰すると、
「あ。ひき逃げされた人が来た。」
と井上さんが言った。
あと、見覚えのない顔が増えていた。あ、そうか。新人さんだ。そう思った。
会社では、いつもトイレの『無香空間シャボンの香り』に癒やされています。え?ちょっと。シャボンってことは無香ではないのでは?『無香空間』なのに?と
朝、会社のトイレを出てから定時までそんなことをちらちら思いながら過ごした。
目の端で私のことを好きではないらしい井上さんが『ほんっと、暇なんだけどぉー。』と言いながらクイックルワイパー片手にそこら中をけだるそうに徘徊しているのが見えた。
暇は人の頭と心を腐らせる。暇なんてろくなことがない。何もしていないのに精神と体力を削がれるなんてこんな無駄なことはない。会社に身を置いていれば金は発生するからいるしかないのだけれど、とてつもなく苦痛だ。こんなにも暇を持て余しているのに、よくもまぁ、この会社は新たに社員と派遣を雇ったものだ。私は分かっている。自分の私生活が満たされていればここで雑に扱われようが、さして堪えなかっただろう。お金のため。と割り切りの精神を持つこともできただろう。
今、自分のことを親以外誰にも愛してもらえていないことにより、精神がひどく疲弊し、自分というものに対する自信というものもなくなってしまった。
それだけでもう、心が瀕死の状態だったのに、たまたま飛び込んだ会社が年齢至上主義、自分の心に忠実に。という場所だった。気に入らないやつは自分の威厳を保つために怒鳴りつけて見せしめにしちゃおう。と考え、なんの躊躇もなくそれを日々繰り返した上司。ほんと気が合わないんですけどぉ。ほんとイライラするわぁ。もうほっとこ。を貫いた社員。若いほうがいいよね。の工場長。金は手に入れども、自尊心を容赦なく抉られ、その肉片をフロアの地面に捨てられ、その欠片を踏んだ他の社員及び派遣社員に、滑りそうになるんでほんと迷惑なんですけどぉ、という醒めた態度を頻繁に取られたため、弱ったところに最終的にとどめをさされたという結果になってしまった。
会社側からしてみれば、そんなメンタル弱ってる奴いらん。だろうし、あんたの心が疲弊してるとか、そんなことこっちは知ったこっちゃない。だろうし、そりゃ、若い方がいいに決まってるでしょ。だろう。今となっては、会社側から派遣社員としての契約を切られること無く最後まで置いてもらえたということ。相手から切られる前に自分から退くことができたこと。そこに感謝して、もうなにもかもなかったことにしたい。そう思った。
一人ひとり単体で見れば、本来、穏やかな性質を持っていて、悪意というものにさして興味もなく、普通に他人と接することができる人であっても、人というものはどうしてもその場の雰囲気に流され、そして、染まってしまう。それを知っているから、仕方ないのだろうと感じる。もう、これ以上自分を責めることも他人を心の奥底で嫌悪することも辞めようと思った。そうこうしているうちにも人はどんどん歳を重ねてしまうから。
ただ、この会社がいずれ親会社に吸収、合併されて、子会社であるあの会社はきれいさっぱりなくなり、それに伴い、人員削減のため、何人かが退職を余儀なくされる、あるいは、地方に飛ばされる、とかだと、すいません、正直そうなればいいのにな、とは思います。
口には出しません。秘めたほうが面白いので。
あまりにも暇だったから、私はいつも通り、シュレッダーにかけられた細切りの紙をビニール袋に入れて、製品の発送時に使う緩衝材を作りながら井上さんとの胸熱なヒストリーを遡った。
彼女はいつだってイライラしていた。
『ちゃんと周りを見てください!毎回毎回次は何をしたらいいですか?っていちいち聞かれるのも腹立つんですよ!こっちもイライラするんで!ちゃんと自分で判断して動いてください!』
そうヒステリックに怒り散らすから、自分で判断して動いてみたら、
「あ。それじゃないです。こっちの仕事してください。」
顕微鏡を覗いたままの状態で井上さんは言った。
別の日は、
「椅子、机にしまってもらってもいいですかね!?邪魔なんで!」
私の記憶の中にある井上さんはいつだってキレ具合が尋常ではない。キレッキレだ。
別に邪魔ならご自身でそっと椅子を押して机の下に入れたらよくないですか?
そんな切れ散らかさなくとも。
あ。生理かな?そのときはそう思うことにしておいた。
この会社での思い出を脳内で巡る脳みそトラベルを終え、昼になった。
会社の休憩室のテレビで、冠婚葬祭のマナーについての特集をしていた。
マナーも何も、私の存在そのものが不謹慎ですから、とか、そんなことを思ってしまう私は、我ながら自虐がすぎる。別に警察のお世話になったわけでもなんでもないのに。
もう少し今の自分を許してあげてもいいのに。そう思うのに、お金が稼げない自分は駄目な人間なのだとやはり思ってしまう。生きていくためにはどうしてもお金が必要だから。
あともう少しであのおっさんとサヨナラできるということだけが私の楽しみだった。
他の人がしていても何も言わないくせに、私がしたときだけ、
『そういうの辞めたほうがいいよ。』『それ、よくないからね。』
あの上司は私に向かって何度も言った。
その度私は、はい、すいません、といってその指示に従った。それがかえって上司のパワハラに拍車をかけてしまったのかもしれない。
あの、私、派遣社員なんですけど。
この会社に入って何度この台詞を脳内で言ったことだろう。
契約上、私は仕事の補助で入ってるんですけど。どうして私があとから入ってきた派遣社員さんの指導をしなくてはならないんですか?それってあなたの会社にいる正社員さんがするべきことではないんですか?どうして私がちょうど目を離したときに新人さんが初日に作業台から製品を落としてしまったら、私の責任になってしまうんですか?
『ちゃんと指導しなかった神楽さんの責任だからね?人にちゃんと指導できていないということは、日頃、神楽さんがちゃんと仕事できていないってことだからね?みんなに迷惑かかるんだからね?』
って、なんか理屈がおかしくないですか?
『顕微鏡はさ、初めから倍率300倍に設定したってみえないからね?まずは100倍に設定して見たい対象物を定めてからそのあとに倍率あげないと見えるわけ無いじゃん。常識だからね?』
って、今、初めて顕微鏡の正しい覗き方を聞きましたけど。雑にしか教えてもらってませんよ。
『おい!どこにデータ入れてんだよ?ここじゃねぇんだわ。ここじゃ!分かってんのか?二度とここにデータ入れんなよ!ったく、こんなとこにいくらデータ入れたって意味ねぇんだわ!ほんっと、こんなことされたら迷惑なんだわ!こんなとこによ、いっくらデータ入れられたってこんなもん仕事できてないんと一緒なんだわ。ちゃんとしてくれよ!』
耳が痛くなるから、パソコンのマウスを机に乱暴に叩きつけながら怒り狂うの辞めてもらってもいいですか?怖いんで。あと、顕微鏡に映し出された映像をパソコンに取り込んで、その写真データをパソコン内にあるフォルダに入れる作業なのですが、
そんなふうに小分けにしたファイルがあるなんて、本当に、今、初めて聞きましたから。取引先の会社ごとにフォルダがあったんですね。今まで一括で同じところに保存してしまってました。次からそうします。心の中でそう答えつつも私は、小さな声でただひたすらすいません、を繰り返すだけだった。その時、私の体は小刻みに震えていた。
『おい!この台車邪魔なんだよ!どけろよ!邪魔なんだよ!おい!どけろっつってんの!おい!聞いてんのかよ?邪魔だっつってんの聞こえないのかよ?』
自分でどけたらいかがですか?それに、私がそこに置いたとは限らないじゃないですか。
作業するために今回はたまたま私がそこに置かせていただきましたけど。頻繁にそこにみんな台車置いてるじゃないですか。なんでそんなに切れてるんですか?とやはり心の中で思いつつ、私は台車を黙ったままそっと移動させた。
『ダンボールがなくなりかけたらちゃんと発注してよ。仕事、梱包と発送作業くらいしかないのに、ダンボールがなくなっちゃったら、もうあなたのする仕事、なにもないから。ダンボールないですね。じゃあ、もう仕事ないですね。家に帰ってください、ってなるよ?』
いや、基本、送ってこられた製品を加工して、返送する時は、客先から製品が届いたときのダンボールを保管しておいて、再利用するから、仮に新しいダンボールがなくなったとしても発送はできるし、一応少ないなりに、梱包発送作業以外にも仕事は何かしらしてます。早々に見切りをつけられてほったらかしにされているから、新しいことを教わる機会はほとんど与えてもらっていないのは事実ですけど。
『そんな仕事ぶりじゃ、そのうち誰も口きいてくれんなるよ?もう、こいつに仕事頼んでもどうせ遅いし、自分でやったほうが早いわっつって、なんにも頼んでくれんなるよ?そのうち挨拶すらしてもらえんなるよ?もうそのへんの床でも一生掃いとけってなるよ?』
あまりにも言いすぎじゃないですか?こんな人がいない暗い倉庫までついてきて。
このおっさん、まじで悪の元凶だわ。
私に向かって、瞳孔開いてんじゃないかっていうような目で、額に血管を浮かせながら怒り狂うおっさんを見て、入社したての若い女子は、
「あの人、どうして普通のものの言い方ができないんですかね?あと、どうしてあんな人が上の立場に立っているんですか?」
という言葉を残し、その翌日から会社には来なくなった。自律神経を患った、とのことだった。
私が会社辞めるって分かった途端、思慮分別がありそうな人になるのは一体何なん?
目障りなものを自分のテリトリーから排除するという目的を達成できたから?
そう思いながら私は退職の日を待ちわびた。もはや心がささくれて、何が正解だったのか、何が何よりましなのか、何がよくなかったのか、麻痺してしまっていて、答えが出せないけれど、終わりよければ全て良しどころか、辞めてしまっては元も子もないし、私からしてみれば、終わりよければ、なにこいつ、だし、終わり良くても意味ないやん、にしかならない。よく、辞めていく人間に対して残る人間が『厳しいことも言ったけど。』と言って、締めくくろうとするけれど、辞めてしまうという結果をうんだ時点で、その厳しさは何の意味もないし、むしろそんなもの、ないほうがよかったはずだ。次の場所で活かして、みたいにさも自分がきつい物言いをしたことを良いことをしたかのように言うけれど、別に他の職場でそのきっつい言葉が活かされることなどほぼないから。
あんたがその時、感情に任せて配慮のない言葉を、近くにいる言いやすそうなやつにぶつけてすっきりしただけの話だ。辞めちゃったら、ほんと、そんなの意味ないから。
あのね。確かに私は忘れっぽいし、仕事の覚えもいいほうではないよ。
ただね、仕事ってね、何回か繰り返し実践しないと身につかないの。
なんか生意気なこと言ってごめんなさいね。でもそうなのよ。
仕事って、業務って、『できる』『できない』は最終的には、そんなものないの。
慣れなの。
あとね、まともに教わっていないことをさせられているときに、こちらがもたついてると、なんでこいつできないの?って言いたげな態度で近づいてきて、急に早口であからさまに苛ついてる口調で捲し立てられて、『あー、なんかイライラしてきた!もう教えるの嫌になってきた!』と言われながら再度教わっても萎縮するからすんなり頭に入らないの。
あのね、『まともに教わってないことはできない。』の。
これもやっぱり、『人のせいにした。』ことになるのでしょうか?井上さん。
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