鶴の恩返し。

気がついたら、かまってちゃんぽい人が頻繁にSNSに載せているような映像が目の前にあった。

視界の右端にチラチラと映り込む透明な液の入った袋。そしてもにゃもにゃした気持ち悪い柄の天井。

「あなたに助けて頂いた者です。その節はお世話になりました!」

耳をつんざくような大きな声で男は言った。

失礼ですが、どちら様でしょうか?鶴?

私は穴という穴から脳みそを出していただけで、人を助けた覚えなど全くない。

ゆっくりとまばたきをすると、ジンジンとした疼きが脳に染みて痛かった。

男は言った。

「あの時、草むらに血だらけで倒れているあなたに助けてもらっていなかったら、僕は今頃死んでました。ちょうど外出前に犬の散歩してたんですよ。そしたら、犬が草むらに入っていって、何かに顔突っ込んでるから何かなと思って見たらあなたが倒れてたんですよ。美味しかったのかな?あなたの顔が。めっちゃ犬が舐めてました。血だらけのあなたの顔を。」

私は黙ったまま、また天井を見上げた。腕に点滴が繋がれていた。

「誰かに何かで勢いよく轢かれたみたいですよ。自転車なのか、軽自動車なのか、ポルシェなのか分からないですけど。なんか覚えてません?」

私は仰向けになったまま少し顎を傾けて考えるような素振りをしたあと、酸素マスク越しに、さぁ、と言った。

あ、そうだ、と男は何かを思い出したというような素振りをして見せると、鞄から新聞を取り出した。そして慌てた手つきで数ページ捲るとそれを私に見えるように広げた。

「ここ。僕、犬の散歩済ませたらこのバスに乗って出かける予定だったんです。けど、ほら。」

「バス、おう、てん。」

私は一面に大きく載っている記事の見出しをゆっくりと声に出して読んだ。

横転。さっきから与えられる情報量が多すぎて、脳が全く追いつかない。

とりあえずどうやら私は生きていて、どうやら何かに轢かれたらしく、どうやらここまで運ばれたらしかった。そこまではなんとなく理解できた。

「あなたに恩返しがしたいです。」

じゃあ、結婚してくださいよ。私は半ば本気でそう思ったものの口にするのを控えた。

あ、思い出した。自宅にいる時、もうなにも考えたくなくて、歴史上の誰かのなにかについてSNSでつぶやいて、風邪薬たくさん飲んだら気分良くなるのかなってヨーグルトに細かく砕いた風邪薬を砂糖のように混ぜてそれを食べたら、気分がよくなって、ハーゲンダッツでも買いに行っちゃおうかな、なんて急に思い立って、ふらふらと部屋を出たかと思いきや、なぜか空という男に振られ際に言われた一言を思い出して、ざけんなよまじで、と思っていたら、なぜか草むらに投げ出されていた。

あいつ・・・。私の脳内に何度も出てきては、そのたびに私のことを冷淡な言葉で突き放す。

憎い。私は、憎いと思う程度には、空君のことを想ってきた。好きだった。

なぜか私は草むらにダイブして、それから・・・。横たわったまま誰かと話をしたような気がするけれど、思い出せない。

目の前の男はしきりに礼をいい、私になにかさせて欲しいというけれど、むしろ礼をしなくてはいけないのは私の方では?と思った。この男の人がいなければ私はあのままお亡くなりになっていたかもしれない。

というか私なんかよりも犬に感謝したほうがいいですよ、と思いながら目を細めてエネルギッシュ溢れる男を見た。

「ピューロ。」「はいっ?」「ピューロに行きたい。」「えっ?多摩の?」

私はこくりと頷いた。

「いいですよ!怪我が治って、現場検証が済んだら行きましょう!おそらくひき逃げだから現場検証ありますよ!」

眠い。私は何も答えず、そのまま眠りの渦へと飲み込まれていった。


ひき逃げされて、二週間以上入院したから、本当はたくさん出勤しないといけなかったのが、かなり縮まった。入院中は、助けたつもりは全くない鶴さんが頻繁に病室に訪れた。あとは、両親と、その友達、あと、SNSで知り合った人が数人と、高校時代からの唯一の友達が一人。会社の人では、天然ちゃんが一度お見舞いに来てくれた。

ちなみに犯人は、道路近くなどにひっそりと設置されていた防犯カメラなどから特定されたらしかった。怖くなって逃げました、だそうだ。

私は病院に運び込まれたすぐ後、MRIなどに入れられ、様々な検査を受けたらしかった。検査の結果、腰や腕など数か所の打撲と、肋骨にヒビ。小指の骨折。

とくに頭部打撲がひどく、麻酔をかけて手術をして、脳の中にできてしまった血腫を取り除いたらしかった。

そのあと数日間は、意識が朦朧としていたらしく、反応はするけれど、何も分かっていなさそうだった、とのことだった。ちなみに当の本人である私は、何も覚えていない。


生きていくためにはどうしてもお金がいる。

企業の人事もアルバイトの面接官もおじさんがほとんどだ。女性が人事のパターンもたまにあるにはあるけど、女は女を嫌うということを女は嫌というほど知っている。おじさんに好かれないと就職もできない。衣食住もままならない。若い子も、若くない人も、おじさん次第。飛び抜けた技能がない限り、おじさんにある意味人生を握られている。

動画配信アプリを開けば、ガチイベで一位二位を争う強いルームではおじさんが連続して投げたギフトのミラーボールに照らされながら若い配信者が恍惚とした表情で歌を歌っている。それがおじさんにとって、なけなしの金なのか、はした金なのかそれは分からない。けれど、おじさんは身を削ってくれる。ああ、やっぱりおじさん。ここぞというときのおじさん。結局はおじさんの力を借りないと勝てない。そんなことを思ったりした。

私は、病室のベッドの上で、私自身の仕事ぶりについて分析してみた。仕事とは、スピードと正確さを求められる。私は決して仕事のスピードが早くない。そして、焦って仕事をしようとすると、製品をポロリと手から落としてしまうことがある。だから、早くしろと圧をかけられてもあまりスピードを上げることができない。そして、単調な作業をしている時。例えば、12マスあるトレーに製品を一つずつ入れるという作業の場合、一生懸命作業していても、なぜかどこかしら、マスを飛ばして製品を入れてしまっていることがある。あとから自分自身でチェックしたときに抜けを見つけて、直すことがある。そして、圧のある指導をされると、ほとんど頭に入ってこない。これは幼少期からだ。きつい人がとんでもなく苦手だ。

そして、なにかやり残したことがあったり、解決していない問題があったりすると、そればかりが気になってしまい、集中力が低下したり、仕事のスピードがさらに低下してしまったりする。そして、明らかに理不尽な怒られ方をしても、すみませんとすぐに謝ってしまう。びくびくしてしまっている。私が悪かったかもしれないみたいな態度でい続けてしまう。だから、自分の価値をうまくアピールできないし、常に自信がなさげで、私は人に選ばれるような人材ではない。しゃーないっすわ。そう思った。


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