どうやら轢かれました。
『もしもし?わかなちゃん?』
薄い板から、か細い声が漏れ出ていた。
『あい。』
私は一応、応答した。脳の芯が痛い。私は朦朧とした意識の中で、自分の爪の間に溜まった血をじっと見つめた。
『誰かわかる?』
私を捨てたひとでしょ?何を今更。なんだか冒頭からくだらない絵本を渡されたときのような、そんな気持ちになった。
何も話していないうちから馬鹿馬鹿しさが体中に充満して、涙がゆっくりと流れた。思うところしかないけれど、『はい。』かすれた声で私は答える。
『振込に間に合わなかったことってある?』
はい?ていうか、おいおい、いきなりだなー。と脳内で毒づいていたら、板から聞こえる声が次第に震えだした。
『ない。』
雑にそう答えると、私を捨てたその男は、わからないんだよ、と言った。
わからないんだよ。私はその言葉を脳内で反芻する。あのときと同じだ。
私を捨てたあの時。『婚約もしていないのに、ものやお金を支援するなんておかしいんだよ。』そう捨て台詞を私に吐いた時と同じイントネーションだ。
夫に家を追い出されたあと、生活費を一円も貰えず、私は今とはまた別の会社で契約社員として働いていた。女店長からのパワハラを受け、そのあと納得のいかない客からのクレームを受け、それを私のせいにされ、濡れ衣を着せられたまま契約解除になった。途方に暮れていたちょうどその時、職場から最寄りの駅に向かう途中で声をかけてきたのがこの人だった。好きです。付き合ってくださいと言われたから、私は完全に破綻しているとはいえ、戸籍上は、まだ婚姻関係にあることを話した。そしてその申し出を断った。
目を腫らした私を見て、空君は、離婚が成立するまでなにもできなくていい。そばにいられたらそれでいいから仲良くして欲しいと言った。私は毎回毎回社会に適応できない自分を終始憂いでいた。結婚生活もそつなくこなすことができなかった自分をひたすら呪った。自分自身がみっともなくて、情けなくて嫌気がさしていた。稼げないってこんなにも惨めなものなのだと思い知った。どうして私は普通のことさえできないのだろう。私は空君にもうほっておいて欲しいと告げた。
すると、空君は『僕が支えるよ。何が必要?お金?どれくらいいる?』と言い出した。
どれくらいいるって、国民健康保険と、国民年金と、携帯代。この3つを払うことができればなんとか生きてはいける。年金と健康保険はついさっき契約を切られた会社がフルタイム勤務だったからそれに伴い、社会保険に加入する必要がでてきてしまったから、入社時にやむを得ず夫の扶養から抜けた。会社をクビになったあと、社会保険から抜け、今度は国民年金と国民健康保険の手続きのために市役所へ行くと、窓口の人は、『もう一度旦那さんにお願いして扶養に入れてもらうのが一番いいと思うんですけどね。』と言ったけれど、あ?から始まり、人のことを終始蔑む発言を繰り返すような人とまともな会話ができるわけもなく、なんで俺がお前を扶養せなあかんねん、と言って手続きを拒むことは目に見えていたから、もう諦めた。
あの時、空君を見ていて、目の前でニコニコ笑っているこのひと怖い。何を考えているのだろう。なんなんだ、この人は。そう思った。お金とかもらってもあとが怖いし、醒めたときに返せとか言われても返せないからいらない、と言った。すると空君は、正式にお付き合いして欲しい。離婚が成立するまで、不利になることはしない、と言った。どうせ、都合が悪くなったら不倫はよくないとか言い出して、そもそも僕たちは付き合ってすらないよね、だってこんなの不倫じゃん、とかって掌返すんでしょう?
私の言葉に空君は、
『絶対にそんなこと言わない!わかなちゃんは僕の彼女だから!』
そう繰り返した。
そして、頭が悪いから自分の言ったことを綺麗さっぱり忘れて、
『僕たちはお付き合いしているんじゃない。不倫してる。仮にわかなちゃんの旦那さんがしているからといってこちらもしていいということにはならない。』
と吐き捨てて、そそくさと私の前から消えた。
でも、金を返せと言ってこなかっただけましだ。金なんてどうでもよくなるくらいに私に対する嫌悪感が勝ったのか、ほかにくっつきたい相手ができて、急いでいたのか、なんにせよ、自分の都合でいなくなったということだけは分かった。
嘘つき。そう思った。身勝手に好きだと言って来て、身勝手に責任なすりつけていなくなって、ほんとなんなんだこの人は。自分さえよければそれでいいんだろう。
最初から私のことなど好きでもなんでもなかったのだ。好きならあんな逃げ方しない。投げ出さず、しっかりと話し合うはずだ。
そう言えば、夫のことを無理やり思い出そうとした時、失礼ながら何故か、足の裏の映像ばかりが頭に浮かんだ。頭の先から足の爪先まで足の裏。足の裏が私を罵倒し、足の裏が私の洋服をベランダにほうり投げ、足の裏が自分のスマホの待受画面を女とのツーショット写真に設定し、その足の裏は完全に私のことを舐め腐っているから平気で『今の時間この時間やで。』と言いながら、時間など聞いてもいないのに勝手にスマホの待ち受け画面にある時計を見せる体でどこぞの若い女とのツーショットをこれみよがしに見せつけてくる。そして、お掃除が大好きな足の裏は、私宛に届いた郵便物を流れるような動作で華麗にゴミ箱に捨てる。たまに好奇心も芽生えるらしく、気になった郵便物だけ残して中身を見て、重要な書類でも躊躇なく捨てる。重要だからこそ、細かく破いて捨てる。とてもお利口。最後の方は、勝手にマンションの郵便受けの扉を開く暗証番号を変えられ、私は郵便受けを開けることすらできなくなった。元夫は、あの待受の女と今頃よろしくそれなりにヤッているのだろうか。
性格が腐っていようが腹が出ていようが、能面のようなのっぺりとした顔をしていようが金さえ稼げたら結局は強い。元夫はおそらくまた誰かと婚姻するだろう。金の力はすごいから。金で人を釣れるし、金があれば邪魔なものをさっさと捨てることができる。金があれば人を見下すこともできる。別にそこは羨ましいとは思わないけれど。金をある程度稼げたら、人に馬鹿にされることがない。足の裏はいいよな、と思う。足の裏のことを思い出していたら、また、板から声が聞こえてきて、私は現実に引き戻された。
『払い忘れたんだよ。』
え?コンサートチケットの抽選に当たったけど、振込期限内に手続きするの忘れてたのか?クレジット決済にしないからそうなるんだよ。
段々と意識が薄れていく中、私は鼻で笑ってやった。どうでもいいけど、呂律があまり回っていない状態で私は尋ねた。
『で、何を?』
『ていうか、わかなちゃん、なんか声がしんどそうだけど、大丈夫?』
今更かよ。私は小さく息を吐いた。
『受験して受かった大学の入学金の支払い期限を勘違いしてて、払いそびれちゃったんだよ。大学に問い合わせてみたけど、期限は厳守だからもうどうにもならないって。合格取り消しだって。』
あら、残念。じゃ。私はそう思いながら、さきほどから小刻みに震えている指先で終話ボタンを押そうとした。
『わかなちゃんならどうする?』
板から弱々しい声が聞こえる。耳から板を外して画面を見ると、暗がりの中で、強い光が目に刺さって染みた。私は目を細めた。そしてそのままそっと目を閉じた。
すんっと、冷静さがどこからともなくおりてきた。さっきから体中を疼くような痛みが走っていたけれど、遠のいた気がした。
大学?私は痺れている首を少しだけ傾げた。
もう一度板を耳につけて、聞く。
『誰が?』『子供が。』『誰の?』
そう聞いたあと、しまった、と思った。こんなことを聞いて、傷つくのはほかの誰でもなくこの私なのに。ほんっと馬鹿。私は唇を噛んだ。鉄の味がした。
相手が答える前に慌ててまた終話ボタンに指の腹を滑らせた。
『僕は産んでないよ。』
そりゃそうだろうよ。
『僕の子かと言われると・・・。』
托卵?自分の眉間にシワが寄るのが分かった。こめかみがまた疼いた。
『前の夫さんとのお子さんなんだよね。』
え?なに?ああ。女の連れ子の大学の入学金を払いそびれたのか。持ってないがゆえに持ってるなぁ。この人は。期待を裏切らないというかなんというか。ということは、また年上にいったか。しかしながらよくもまぁ、毎度のごとく何の考えもなしに動けるな。と、思うけれど私も人様のことを馬鹿にできるような生き方をしてこれたかというと決してそうではないことを自覚しているし、私に何を言われても癇に障るだけだろうし、頭の中がお花畑なだけで、何も自ら不幸に落ちたくてそうしたわけじゃないだろうし、もうどうしようもないことを人様に責められるほど頭に血がのぼることはないと思うから私は何も言わなかった。自分が人にされて嫌なことはできるだけしたくなかった。
そりゃそうか。私から逃げたあと、まだ二年も経っていないのに、自分の子供が大学進学なんていくら飛び級制度があると言ったって無理だわ。哺乳瓶を煮沸してもらってるような赤ん坊が大学入学はいくらなんでもないわ。乾いた笑いが溢れた。
笑いの神、草むらに降臨。
そういうそんじょそこらの石橋叩いて渡るような、慎重な人たちからは生まれなさそうなエピソードってさ、空くんらしくていいんじゃない?口をついて出そうになるのをすんでのところでなんとか飲み込んだ。唾液と嘲笑を一度に飲み込んだら、胃の中のものが一気に逆流してきた。せり上がってきたものを勢いよくすべて雑草の上に戻したあと、ぺ、と唾を吐いた。頬に触れる草が痒い。
私の眼球の中に小さな虫が入って、もがいている。痛い。もう無理。そろそろ今度こそほんとうにさようなら。お幸せにならないでください。
別にさ、他人の子が傷つこうが人生どうなろうが知ったこっちゃないじゃん。それに多分だけど、もうこれ以上騒いだり、取り乱したり、自責の念に駆られたところで、ほんとどうしようもないじゃん。それにさ、相手からしたら信用したからあなたに頼んだのにとかってとんでもなく被害者意識持つのかもしれないけど、いくら自分がそのとき立て込んでいたとはいえ、自分の大切な人の人生を左右するようなことを自分以外の誰かに委ねちゃうなんて、ましてや空くんに丸投げしちゃうなんてそれって『べつにどっちでもいいです』って言ってるようなもんじゃん。もう、別にいいじゃん。戸籍上は家族なんだろうけど、所詮は他人じゃん。気に入らないことがあったら嫌いになるのなんてお互い様じゃん。
空君なんかに大事なこと頼んだ本人の判断ミスだよ。あんたを選んだ相手の落ち度なの!
もう、お互い様なの!頭が割れる。絶対もうすぐ脳みそが破裂する。
耳も痛痒い。多分、音が籠もって聞こえるのは、すでに耳の穴から脳みそが少しずつ出てるからだ。きっとそうだ。っていうか、あなた方はいつもそう。
あなた方は私がどれだけあなた方の味方をしても、どうせ逆に私が辛い時に味方にはなってくれないんでしょう?だから好きにしてよ。
肩入れすればするほど虚しいだけだわ。一生死ぬまで中立の立場に立って、その都度正論振りかざして生きたらいいわ。何もかもが今更感半端ないんですけど。なにをうろたえているの?
いつものように、そう、ご自身の勤務先でそうあるように、あの時私にしたように、開き直っちゃえばいいじゃん。いつものように人のせいにしてさっさと逃げちゃえばいいじゃん。それが空君の平常運転だよ。なにを今更特別ダイヤで運行しようとしてんの?無理して生きたって事故るだけだわ。
意識がみるみるうちに遠のいていく。
『別れたほうがいいのかなと思って。』
はい?
『もう別れたじゃん。』
ナメクジが這うようなぬるぬるとした声で、私はやっとのことで答える。
『そうじゃなくって、みきさんと。』
誰やねん。私は声にならない声で突っ込むとまた目を閉じる。そして考える。
もしかしてこいつって、最初からいい人でもなんでもなければ、繊細なわけでもなければ、ただのクズなんじゃないの?当時、私のせいで空君が離れてしまったとばかり思い、随分と引きずって後悔して、悩み抜いてきたけれど、この人そのものの本質が歪んでいるのだとしたら。最初から性根が悪いのだとしたら、それはもう何をどうしたってどうしようもない。
みきさんと別れる?そんな簡単に手放せる相手なら、最初から好きでもなんでもなかったんだろうし、生涯、今までも、そしてきっとこれからも、自分とあのヤンママ以外、誰のことも好きになんてなれないんじゃないだろうか。もうこれ以上、人と深く関わるのはやめといたほうがいい。あんたが寂しいかどうかはあんた自身の問題であって、人を巻き込んだところできっと根本的解決にはならない。
あなたがどう生きようがあなたの自由だけど。ほんと、虫唾が走る。
もしかしたら、私の願望というものが、空君をいい人であるかのように見せていただけで、私の目と心は、本当の彼の姿など最初から最後まで見ていなかったのではないだろうか。臭いものにふたをして、見たいものだけを見ようとしていたのではないだろうか。けれど、仮に空君が非道なやつだったとしても、なんとかなるのだろう。空君はなんとなくふらふらと漂いながら、ついさっきまで自分に降りかかっていた悲しみや、煩わしさや、苦しみなどそのすべてを『他人事』に変えて、再び幸せを探しに出かけるだろう。そして、運が巡ってくれば、孤独から少しは開放される人生を生きるだろう。なぜなら空君は、若いから。
鼻からゆっくりと生温かいものが流れ出ていくのを感じた。
脳みそだな。間違いない。これは紛うことなき沸騰して溶けて漏れ出た脳みそ。
瞼の裏にチカチカと眩い光が散らばった。
真っ白になった。
周りがなのか、私がなのか、わからない。
だいじょうぶですかー?と誰かが叫ぶ声が遠くの方で聞こえた。
私は白さの中で空君に尋ねた。
『どこ、の、だ、い、がく?』
『忘れちゃった。なんか予備校ってところに3年通ってから受かったみたい。』
あ。こりゃ、この人、離婚だわ。
ふ。私はそう零すと、体が地面に吸い込まれていくような感覚にとらわれた。
私はそのまま全身を土と草に委ねた。
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