会社の女子更衣室でピクニックしようとする横下さん
「さっきー、神楽さんから会社辞めるって聞いてぇ。なんか、このフロアって、若い子だけ可愛がるとかって、そんなことあるのかってぇ。あるんですかぁ?」
昼休み。女子更衣室に入ってきた別のフロアで働くパート勤務の横下さんが大きな声で同じく更衣室にいる人たちに唐突に尋ねた。
横下さんの言うこのフロア、とは、この更衣室がある3階。私が日頃働いているフロアのこと。
ちょっ。声が大きい。井上さんとか上司とか厄介な人にそのような話を聞かれてしまったら私に対する風当たりがさらにきつくなったり、陰で『あの人被害妄想激しすぎやねん。』とかって言われちゃったりするかもしれないじゃないですか。
お願いだから、こじれそうなことしないでぇ。
私は心の中で横下さんに叫んだ。
淡白そうに見えて、このひと、こんなにも口軽かったの?長く生きてきて、いろんな場所で働いてきて、酸いも甘いも噛み分けて、傷つくことも経験して、人の気持ち汲み取れるはずじゃないの?ほんと人を見かけで判断してしまうとろくなことがない。
ああ。そう言えば私が横下さんに『私、この会社もうすぐ辞める予定なんですけど、退職まであと数か月あるのでまだまだだなぁって思って。ここの会社は今後ずっと働き続けたとしても若くなかったら正社員登用は永遠にないとはっきり言われたので、なんというか、別に正社員目指してここにいたわけではないんですけど、あまりにも若くない若くないと事あるごとに言われてしまうというのもしんどいなぁって。』と話したとき、
『あー。そういえば派遣から正社員に昇格する子がいるって誰かから聞きましたよ。あの子、若そうですもんね。二十代前半かな?やっぱ年だと正社員にはしないんですね。老い先短いから。』
『老い先短い』って、人を老いぼれみたいに言うなよ。棺桶に片足突っ込む一歩手前みたいな表現するなよ。と思ったあの時、すでに黄色信号が点っていたのかもしれない。この方が、あけすけにものを言う前兆はすでに出ていた。
私は驚いたあとひどく狼狽した。素直で悪気がないと言えば聞こえはいいのかもしれないけれど、もはやそういう問題ではない。とにかく恐ろしくてたまらない。悪びれもなく自分の存在を脅かして来る人間を見ると、急いでかわして逃げたくなる。
関わったことを一瞬で深く後悔する。
自分も変わったところはもちろんあるけれど、それでも、ここにはまともな、こう、何ていうのかな。それはそれ、これはこれ、で、それぞれのシチュエーションごとに区切りをつけて一人一人と接することができるようなスタイリッシュな人はおらんのか?
『目の前のこの人と私の時間』というものをどうして温めて胸にしまっておくことができないのか。
毎回毎回、『私と話した内容は内密にお願いします。』とわざわざ言わにゃならんのか?
なぜ二人きりで話したことをすぐに違う場所まで持ってきてそこでピクニックしようとするのか。全く愉快じゃない。人の具を使っておにぎり作ってはいどうぞ、ってしないでほしい。ハラハラする。その話題は今ここで言っても大丈夫なものなのか、
二人きりで話した内容を簡単に、周りにも聞こえるような大きな声で口外してしまってよいものか、などといった配慮に欠ける大人を目の前にすると、恐れおののく。
今後一切の関わりを絶ちたい。もう、自分の視野に入れたくないと思ってしまう。
こんな私はとんでもなく心が狭いのかもしれない。あるいは病んでいるのかもしれない。
その場の空気を濁さないために、ちょっ、そんなこと言っちゃ駄目ですよー!と茶化すように私が横下さんの肩を軽く叩きながら制止しようとしても、横下さんは一向に話をやめる気配がない。
全く空気を読もうとしていない。やべぇ、ここやべぇ。はやくこの会社辞めたい。
仮に周りから『辞めたところで他にいい就職先なんてないよ。どこも若い人を採用したがるんだから。』などと脅されたとして、それが紛れもない真実であったとしても、この会社を辞めるという決断をしたことは正しかったのだと思いたい。
自分の心を守れるのは自分しかいない。
横下さんは、まだ元気に話しかけてくる。
「あのー、このフロアにいる井上さんて人は、リーダー的な役職がついた方なんですか?なんかいつも仕事の指示出したり、みんなを取りまとめたりするみたいなことしてるイメージだから。」
「平だと思いますけど?」
私の即座の回答に、横下さんは
「へぇー。だってなんかあのおじさんいるじゃないですか。中本さん。あの人と同期だっていうのを前にちらっと聞いたから。あのおじさんリーダーじゃないですか。だから井上さんもなにかしらの役職ついてるのかなぁ?って。」
平ですよ。平。私は横下さんが質問を言い終える前に、被せるように先程とまったく同じ答えを繰り返した。ペーペーではなく、しっかりと仕事をこなす方ではあるけれど、権限は持っていない。けれど、どうだろう。彼女に好かれなければ、なにかと終わる、というイメージだから、役職はついていなくとも、権力は持っているのかもしれない。私は彼女に好かれていないから非常にこの場所に居づらい。
私に才能があればどんなに良かったことだろう。才能は年齢を軽々と飛び越える事ができるから。こうして私はないものねだりをしながら日々、確実に年老いていくのだろう。
翌朝、歯を磨きながら思った。私、別に横下さんのこと嫌いじゃないわ、と。
昨日は、ほかの人の前では、あまり言って欲しくないことを大きな声で言われてしまったから、かなり引いたし、イライラしたけど、他の人に話されたくないセンシティブな内容を、自分の心を軽くしたいという目先の欲を満たすために、ペラペラと横下さんに話してしまった私にも原因はあった。
私が会社で心底嫌悪感を抱いているのは郷田さんくらいのもので、あとは、なんとか耐えられる。人を嫌うってつまらない。ちっとも楽しくない。退屈な行為だ。虚しいだけだ。そう自分に言い聞かせる毎日だけど、やはり私は何度も井上さんの私に対するきつい態度に悩んだし、苦しいと思った。他の人と私に対するあからさますぎる態度の違いに『えっぐ。』と数えきれないほどたくさん心の中で毒づいた。
もし、今度また再び横下さんがなにか私にとってあまり言って欲しくないことを大きな声で周りの人に話そうとしたときは、『だめ!恥ずかしいでしょ!』と、はっきり言えたらいいな、と思った。
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