私が会社辞めるとわかった途端、飲み会に誘ってきてすべての禊が済んだみたいな顔するのやめてほしい。

藍川芽郁

『私が会社辞めるとわかった途端、飲み会に誘ってきてすべての禊が済んだみたいな顔するの やめてほしい。』


「神楽さん、今日の夜とか一緒に車でどこか行こうか。川とかどう?せせらぎでも聞きに行く?それともダムとかどう?ほら、一昨日から今日にかけて大雨すごいじゃん。雨量やばいからね。多分、水の勢いすごくいいよ。」

「嫌です。流されちゃうじゃないですか。」

私の言葉に、上司の郷田は、ひひっと、声を出して笑った。

このおっさん、ダムに私を突き落とす気だな。せせらぎて。この大雨なのに、

さやさやとかそんな音じゃねぇんだわ。轟音だわ。

「じゃあさ、山の川とかどう?山。」

「完全に私を川に放流するか、山中に放置する気満々じゃないですか。」

遺体を。と私は心のなかで付け足した。

濁流はやばい。山林もやばい。夏場は腐敗が早いし、完全に臨終するまでの間、

しましまの藪蚊に体中を噛まれ、想像しただけで気が狂いそうになる。

「身元不明の遺体ってやつやろ?」

女性社員の井上さんが会話に加わる。

「わたしら、翌日から、神楽さんが会社に来てなくてもそのまましれーっと仕事しとくわ。探さんとそのまま。もし、お昼に休憩室のテレビで、ダムに身元不明の遺体がどうのこうのってそのうちニュースで流れたら、そういえば郷田さん、神楽さんとダムに行くとかなんとか言ってたなぁなんて思いながら、いつも通り仕事頑張るわ。

おそらく郷田さんは普通に出勤してきてるだろうし。」

「ほら、不安だったら、浮き輪とかつけたらどう?首周りにつけたり、腕につけたりするやつ。救命胴衣みたいな。万全な感じで川かダムに行ってきたら?仕事は私達がやっとくし。」

女性社員たちの言葉に、私のあとに入社した派遣社員の桜田さんが、くつくつと笑った。

くつくつけたけたという笑い声がエレベーター内を埋めていく。

朝から人をネタにして楽しそうですね。私はエンターテイナーだ。

お役に立てて光栄ですわ。このおっさん、ネタとは言え、私のことをいつも殺しにかかろうとしてくる。

他の人には絶対にそんなこと言わないのに。

仮に、もし今、私がいなくなれば、親が心配して捜索願を出してくれるだろうけれど、親すらいなくなったら、わたしは行旅死亡人となって、知らない誰かの仕事を増やし、同時に困らせるのだろう。最後は燃やしてはくれるんだろうけれど。

身元がわかった場合も、引取人がいないってすごく悲しい。死んだあとのことなんて本人は分からないからいいか。いや、でも、魂はあるから、わかるかもしれない。

そもそもダムに落ちた場合、体はちゃんと見つかるのだろうか?山中に遺棄されて、くまに食べられてしまった場合、そういった最悪のシチュエーションを踏んでも、

意外と遺体って特定できるものなのだろうか。

朝から思考があまりにも暗すぎやしないか?滅入るわ。これから仕事だというのに。

なにもかもこのおっさんのせいだ。頭を散らかしているこいつ。目の前にいるこのおっさん。ほんと目障り。

おっさんの言葉や、女性社員の言葉が冗談だということは理解している。

ただ、常日頃から仲がよかったならまだしも、決していいというわけでもなく、険悪なことも多々ある関係だと、どうも冗談に受け取りにくく、気分がどうしても重くなる。

誰かに心配してもらったり、気にかけてもらったり、そういうのって人生のうちで必要なことなんだと思う。かといって、それが必要かつ重要だと分かったところで、

私はそういった存在の作り方も育み方も、もう分からない。そもそも、決まった人としか日頃関わらないし、新たな誰かに出会うことがない。

自分のことをさして好きでもなんでもない、むしろどちらかというと自分のことを嫌っているであろう人たちと毎日そこそこ長い時間を共に過ごし、生きていくための賃金を得ている。

派遣で時給制だから、正月とか、盆とか、やたら休みが多かった月は、派遣会社から自宅に届いた給与明細を開いた瞬間、『のたれ死んでください。』と言われたような気がした。

今は実家にいさせてもらっているからなんとか生きてはいけるけれど、それにしても手取りがあまりにも少なすぎる。私は一応大学を出ていて、いくつか資格を持っているけれど、今の会社は、学歴不問。資格も今の会社では何の役にも立たない。じゃあ他の会社でその資格が役に立つのかというと、持っている資格が教員免許や、図書館司書資格だから、一般企業ではやはり全く役に立たない。

今の会社は、若さと、仕事の覚えが早ければそれでいい。客観的に見れば、いい会社なのかもしれない。

私はお金につながるスキルを持っていないから、在宅勤務がとてつもなくふさわしい性格であるにも関わらず、それができないが故、やはり外に出て、雇われるしか生き延びていく術がない。

先日、ふと自分が卒業した大学について調べてみた。今も、そこそこ人気の大学で、いわゆる『Fラン』と呼ばれるような学部はひとつもなく、入学志願者も軒並み増加傾向で、偏差値も悪くないままだった。私は、会社のみんなが思っているほど馬鹿ではない。

けれど、馬鹿だと思われている。残念ながら、学問と仕事の出来具合はイコールではない。以前、仕事について深く思い悩んでいた頃、そう、あれは確か私が今の会社に入社したての頃。ついつい偶然帰り道が一緒になった男性社員に胸の内を打ち明けてしまったことがあった。私はなにかの精神的な病ではないだろうかと思う時があるのだと。マルチタスクが苦手で、仕事のスピードも早くないし、たまに仕事のやり方に不安を覚えて、うろたえてしまうことがあるから、なにかしらの病名がつくのではないかと。人に迷惑をかけずにそつなく仕事ができるようになれたらいいのに、と。

すると、その男性社員に『あの人、仕事ができないからADHDとか、発達障害なんじゃないかって本人が言ってた。なんか精神病みたいっすよ!』と会社中の人間に言いふらされ、仕事のできない変わった女、という目で見られるようになってしまった。

ちなみに私は実際に病院へ行って、そのような診断を受けたことはない。

確定してもいないことを、自分の心が不安定だからといって、よく知りもしない男にたやすく話してしまった私の完全な落ち度だ。

けれど、私はその男を全力で軽蔑している。男の喋りほど不快なものはない。

ほんと、クズ。会社からすれば、その男より私のほうがクズなんだろうけれど。

生まれ変わったら、才能を持ってこの世に放たれたい。

よく私のことを卑屈だという人がいるけれど、人が卑屈になるにはそれなりの経緯があるから。なんもなしにこうも歪んだりしないから。

あと、もう終わったことをいつまでも根に持つなんて性格悪いとかって言われたりすることもたまにあるけど、いや、そもそも根に持たれるようなことをするほうが悪いから。

なんか、傷つけられたあと、さっさと潔く許すことが性格いい、根に持つやつが陰気で性悪、みたいな流れ、おかしくない?と毎回思う。


人の目に触れているものと、本人の感情はひどく乖離している。

たしか、私の最後のSNSの呟きは、『毛沢東って何した人だっけ?』だった。

そして、そのあと私はこの世のすべてに対する興味を捨てた。

毛沢東が何したかなんてそんなことぶっちゃけどうでもいい。

どうでもいいんだけど、ふと気にはなったから、なんだっけ?と思ったのは事実だ。

本当のことを打ち明けて何になる?なんにもならない。

身内であろうが、ましてや他人となんて到底分かり合えるはずもないことがわかるだけだ。

だからどうでもいいことを呟くくらいしかできない。

本当に見せたいものを人は見せることができない。見せた結果、悲しみが増すだけだから。

だから他人からすれば、何の前ぶれもなく突発的に人が消えたように感じたりする。

そんな素振り見せなかったのに、と。見せなかったんじゃない。

見せられなかっただけだ。本人にとっては、急でもなんでもない。ずっと考え続けてきた上での行動だ。

上澄みだけでは、核心に触れることなんてできないし、本心なんて分かりはしない。

そんなものだ。


『嫌いじゃない』ってなんて残酷な言葉なんだろう。

言われた瞬間、一気に血の気が引く。

お前のことなんてもう好きでもなんでもない。心底どうでもいい。

一刻も早くこの関係を終わらせたい。

もう興味の欠片もないのに、どうでもいい相手にぐだぐだ泣かれ、

ずるずるとああでもないこうでもないと電話越しに引き延ばされるのも鬱陶しい。

まさしく時間の無駄。

風呂上がりに指と指の間に絡みつく髪の毛を振り払う時のような不快感。

別れたあとのことなんかどうでもいいんだけど、逆恨みされるのもなんか怖いし、

しばらくしてまた追いかけて来られても面倒臭いし、自宅の住所とか勤務地とか知られちゃってるから、万が一来られても厄介だし、どうかできるだけ相手の心のダメージを最小限に抑えた状態でさよならしたい。変に傷つかれてもなんか後味悪いし。

無理かもしれないけど、少しでも納得してもらった状態で自分の元から去っていただきたい。とりあえず今を乗り切らないと。この電話を終わらせたらようやくこの女から開放される。あー、ほんと煩わしい。美しく終わらせたい。嫌いじゃないんだよ?ほんと。

もうどうでもいいだけで。


相手からすればこんな感じの心境だったのだろうか。

いっそのことお前のことなんてもう大嫌いだ!こうでああでそうだったじゃん!

許せないよ!ほんと!とでも言って怒り狂ってくれたほうがまだありがたかった。

そこには少なからず人としての熱量がある。想いの残り香、燃えカスがある。

余韻がある。

ああ、今までこの人は必死に感情の火を起こしてくれていたんだな。こちらも申し訳なかったな、と煤を見ながら脱力することができる。

目先の時間短縮と保身と責任転嫁に躍起なあの人の声を聞いていると、

もう終わりだな、と悟った。いや、もう終わりもなにも、あの人の中では随分と前から既に終わっていたのだろう。

終わっていたことを今改めて正式に告げ、あなたという存在は、今の僕にとって、もはや他人以下の存在に成り下がったので、もう必要ないです。

繋がっているのも煩わしいので、関係を絶ちましょうと解雇通知を出した。

ただ、それだけ。相手にとってはそれだけのこと。単純なこと。

離れたいと切に願っている人を、今の私が必死に繋ぎ止めたところで、また少し時間が経てば同じことを繰り返すだけだろう。どの私でもきっともう駄目なのだろうけど、少なからず今の私には何の効力も持ち合わせていない。どう足掻こうが無意味だ。無力の極みだ。大人しく引き下がる他なかった。

今更ながら思うことがある。なぜお前は今まさに捨てようとしている女の貯金額を聞いたのか。なぜ『これからどうするの?』と問うたのか。もう関係ないのに。助ける気もないくせに。これから大変だね。と追い打ちをかけたかったのか。単に私のことを最後に軽蔑したかっただけなのか。

そっちから好きだと言い寄っておきながら飽きたり、都合が悪くなったりした途端に、露骨に疎ましがるなんて何とも身勝手なものだ。無責任なことしかできないのなら、最初から近づいてきてほしくなかった。そちらは被害者面を全面に出してきていたけれど、私から付き合って欲しいと頼んだわけではないし、一切騙してもいないし、嘘もついていない。

一連の取り決めなどは、お前が自ら決めてしてきたことのはずだ。強要などしていない。

なんらかの意図や目的、いわゆる下心でもってそうしてきたものの、思惑から見事に外れて自分の思い通りにことが運ばず、今まで費やしてきた時間とお金が無駄になったから、せめて別れた原因は全面的にお前にあるのだと人に責任をなすりつけて終わらせたかっただけだ。

わかっていないようだから言っておくが、今までを無駄にしたのもお前の判断だし、終わらせたのもお前の判断だ。飽きたのか、嫌気がさしたのか、もっと良さそうな相手が見つかったからそちらに乗り換えたくなったのか、本当の理由を知る由もないが、全てはお前が決めたことだ。今までだって、別れ際だってそうだ。私はただただ受け身だっただけだ。

こうもあっさりと捨てられるということは、初めから好きじゃなかったのかもしれないし、私という人間があのひとにとって思っていたのと違うかったのかもしれない。

ちなみに私は人様のことを『お前』と呼ぶ人間が大嫌いだ。

それが実際に声に出して対象の相手に『お前』と呼びかけていない場合であってもだ。メールやラインなどで文字に起こして『お前』と言われるのも言うのも嫌だし、

こうして誰かのことを思い出したときに、脳内で『お前』と呼ぶことも本来であれば好まない。でも私があいつに強い怒りを覚えた時、それ以外の呼び方は見つからなかった。

お前のせいで私はこんなにも苦しんでいる。絶対に自分から離れることはない、守るってあれほど言ったのに。お前はどうしてそんなに簡単に人を欺けるんだ?

まぁ、好きじゃなくなった相手との約束なんて今となってはどうでもいいし、どうでもいい相手にどう思われようが知ったこっちゃないのだろう。

僕は嘘なんてついていない。本当に『その時は』そう思ったんだよ。人の気持ちって変わるでしょ?

わかなちゃんは気持ち変わったりしないの?変わるでしょ?

きっとあの人に詰め寄ったらそう答えるだろう。

かなり前になるが、ある女に言われたことがある。

『みんな、わかなさんに嫌われても別にいいって思ってるんですよ。だってわかなさんに嫌われてもなんにも困らないですもん。』と。

実際のところそうかもしれない。権力もなければコネもなければ、人脈もない。

何かを無償で人様にばらまくような資産もない。気の利いた言葉を絶妙なタイミングで投げることもできない。要領もよくない。それはさておきだ。

仮にそれが事実であったとしても、それを平気な顔して言えてしまえるお前の人間性を私は心底軽蔑する。何か言葉を吐く時、その発言が相手にとって何かしら実りのある結果を生むと思うのなら伝えればいい。だけど、ただ単に相手を傷つけるだけでしかない発言はするべきではない。さらに許せないのは、そういったひどい発言をするとき、そういう奴らは決まって人を選んでそうしているということだ。

自分にとって価値がないと思う相手であったとしても、だからといって傷つけていいというわけでは決してない。しないひとはしない。

自分の感情に任せて、立場の弱そうな人を選んでひどいことをしない人が少なからずこの世にいることを知っているから私はまだ生きている。

立場の弱い人を容赦なく攻撃してくる人間は、身勝手で自制が効かない。

つまりは頭が悪いか、何かしらの要因をお持ちでいらっしゃるかのいずれかであると思っている。あるいは純粋に性格が悪いか。

仮におかしな奴らに、こいつは価値があると思われたところで、都合よく搾取されて、その価値とやらがなくなれば手のひらを返してまた攻撃してくるだけだ。

そこに『悪気』があろうがなかろうが、受け取った本人が辛いと感じたのであれば、それははっきりとした『悪意』だ。自信をもって傷つくべきだ。

そのような人たちは、言ったそばから自分が言ったことを綺麗さっぱり忘れていたりもする。だからおかしな人の言葉を真に受けてはいけない。

まず自分がすべきことは、そのあちら側の人間に好かれようとすることではなく、

その『悪意』をたやすく受け取ってはいけない。自分に向かって飛んできても手を動かさず、それが地面に落ちるのを見て、決してそれを拾わないことだ。

そんな無責任でただただ害でしかないものを受け取るから相手は余計に舐めてかかる。そして、なにか不快なことを言われたり、されたりしたとき、『自分のせいだ』とか、『私なんてそのようなことをされても仕方のない人間なんだ。』なんて思わないことだ。

おかしいのはあちら側であってこちら側ではない。


今まで生きてきて、たくさん傷ついた。

自分を大切にしてくれないひとのことで悩むことほど無駄なことはないと悟った。

自分のことを雑に扱う人からは素早くそっと離れるのが吉だと学んだ。

我慢は何の足しにもならないと知った。

人も事柄も、切り時を間違えると、自分だけが損をしたり、傷ついたりすることを思い知った。

傷つかないための選択権を持っているときに思い切ってその権利を行使せずにいると、相手にその権利を使われてしまい、呆気にとられ、そのまま取り残されるということ。

これほどにも自分を守るための手段を知っていたにもかかわらずどうして私は行動しなかったのだろう。己の怠慢さや、相変わらずの決断力のなさ、自分自身の思考や判断に自信が持てなかったことが原因だったのだろうと振り返ってみてそう感じる。

人って、いくら頭で考えてもどうやっても答えが出ない時がある。

そういった時、まずは動いてみる他に打開策はないのだけれど、それがどうしてもできない時がある。周りからどう見えているかはさておき、本人の中で、決して現状に甘え続けたいと思っているわけではないのだけれど、動けない。どうにもこうにも動けない。

それは、純粋に、本当にわからない、というのと、見えないものに対する恐怖に苛まれているからだ。けれど、その気持を分かってくださいと人様に訴えたところで、理解を得ることは難しいだろう。

あのときこうしていれば。毎日思う。けれど、その時の自分がそうしなかったのだから、もう仕方のないことだ。

私は後悔を、もう人に話さない。とあるハゲは言う。『後悔先に立たず。』と。

ずんぐりむっくりは言う。『後の祭り。』と。ついでにご丁寧に語尾に草まで生やして。

草は古い。古いのよ。ダサいのよ。もう世間は草なんか昔ほど使わなくなっているし、いまだに草生やしてる人って、ああ、今までオタクしてきたんだな、全盛期の自分からアップデートできてないんだな。まぁ、どうでもいいけど。どうでもいいんだけど、人のことを馬鹿にしてるの丸出しで、イラッとするなぁ。人の悩みを笑うなよ。そこ笑うとこじゃねぇだろ。人が真剣に悩んでいることのなにが一体おもしろいのか説明してくれ。

他人が取り返しつかない状況になっていることがそんなに面白いのか。それに画面いっぱいに草という草を生やしすぎだろ。気持ち悪い。粘着っぽいなぁ。って感じよ。

別にオタクが悪いって言いたいわけでもないけど。

会話の所々に、やたらめったら草はやしてる人ってたまたまなのか大抵、人の話を聞いていない人が多い。相手を煽るタイミングを見計らうことしか頭になさそうな。

事実なんだからさ。本当のことを言って何が悪いんですか?とか、そんな考えだから汚くなるんだよ。

美しくないものは見たくないから私の前から消えてくれ。もう、あなたがたの心が汚すぎて吐き気がする。お前らにだけは言われたくない。

何かに失敗したり、後悔したりしたときに、もう仕方のないことだ、と言っていいのは私だけだ。自責の念に駆られているとき、お前らにそれをわざわざ言われる筋合いはない。

ハゲとずんぐりむっくりに、なんの力もないが意外に世間の大多数の女性の意見とさして相違のないっぽい私から言わせてもらう。

ハゲや、ずんぐりむっくりや、何かしら消極的な見た目や、変えようのない事象を固有名詞代わりに使われて呼ばれる時、それはその指摘された見た目や変えようのない事象そのものを非難したいのではなく、それとはまた別のもっと違ったものが原因で嫌悪感を抱かれ、そのように呼ばれていることが多い。

人の気持ちに配慮できる当たり障りのない、人との正しい距離感を保てる優しいおじさんの頭が散らかっていたとしても、人は別にさしてなにも思わないのではなかろうか。異臭を放っているとかの例外を除けばだが。

相手との距離感がおかしかったり、デリカシーがなかったり、内面的要素に嫌悪感があるからこそ、それに付随して分かりやすい外見を指摘されるのだ。

人によるのかもしれないけれど、見た目は普通だけれど、容赦なく人を傷つけてくるおっさんと、タンクトップ姿で乳首が透けていたとしても性格がいいおっさんとだったら、乳首タンクトップおじさんと握手する方がいいと答える女性もきっといるだろう。

おじさんに焦点を当てて話してしまったが、おじさんに限ったことではなく、

若かろうが、内面が攻撃的であったり、自己中であったりすると、逆に禿げてなかろうが乳首が透けてなかろうがまっすぐに嫌われる。

私は冷静に自分というものを分析した時、おそらく結婚には向いていないだろうし、

男性という存在を特に大好きというわけでもない。

自立してお金を稼ぐ能力が乏しい割に、男に媚びることに長けていないし、

男性の体の真ん中にぶら下がっているものを気持ち悪いと多々感じるし、腹の立つことを異性に言われたとして、心の中では怒りの渦を巻き起こしても、それを口に出すことがままならない。そして、明らかに理不尽な内容で声を荒らげられたとしても、心と体が萎縮してしまって、あまり強く言い返すこともできない。

こんな力関係で夫婦生活がうまくいくとも考え難い。嫌なものは嫌なのだと相手にはっきりと言える最低限の強さを持てない限り、私は誰とも結婚するべきではないだろうと頭では理解している。私が男性に対して対等な立場に立つまで誰とも人生を共にできないのだとしたら、そのようなときがいつか訪れてくれるとは非常に考え難く、そうなるともう独りで死んでいくしかない。もう、私の人生とはそのようなものなのだと、諦めてしまえばいいのに、寂しいと感じてしまう。


私と、私の両親の前で、お前を信用して家計を任せていたら、思っていたよりも貯金額が少ない。今まで使ってきた金を返せ。ないから返せないなんてそんな言い訳は通用しない。絶対に返してもらう。今までの裁判の凡例でもそのような例がありますから。出処はどこからでもいいので金を集めてきて返してください。夫だったその人は言った。

夫婦間でもお金を返さなくてはならないものなのか、恐怖に指先を小刻みに震わせながら必死にネットを漁って調べようとしたけれど、裁判結果はケースバイケースで、相手の出方にもよるし、はっきりとした答えが全く出てこなかった。自分のようなケースで離婚に至った夫婦なんて腐る程いるはずなのに、こういう場合は、こういう判決になります、というような明確な答えがまったく見当たらなかった。本当に心から困った時、インターネットは何の役にも立たなかった。全く心の拠り所にならなかった。驚くほどに肝心なことが書かれていなかった。

いてもたってもいられなくなった私は、少しでも心の不安を軽減したいという一心で、国が設立した『法テラス』という法的トラブルを解決へと導く手助けをしてくれる総合案内所に助けを求めた。一つの相談につき3回まで。時間は一回の相談につき、30分までなら無料で相談ができたため、金銭的に不安を抱える私にとってかなり助けられた。

法テラスで、おおまかな事の経緯を説明し、今までの結婚生活の中で、借金もなく、現在生活が困窮しているわけではなくとも、夫が思っていた預金金額より実際の貯金額が少なかった場合、やはり使ったお金は返済しないといけないのでしょうか?と尋ねると、若い女性弁護士は、

「一体何にお金を使ったんですか?」

と尋ねた。

私は正直に、

「夫との共通の趣味がアニメでして、アニメグッズにお金を使いました。」

と答えた。

「じゃあ、旦那さんも容認してるんだからいいんじゃないですか?」

女性弁護士は他人事のような口調でそう言ったあと、

「でもまぁ、使った額にもよりますよね。旦那さんと話し合ってそのグッズを折半するか、全部売却したらどうですか?20代前半ならまだしも、その年齢で・・・。」

おそらく女性弁護士がそのあとに付け足したかった言葉は、あほとしかいいようがありませんね、的なニュアンスの言葉だったんだろうなと思った。

私は自分が情けなくなって、俯いた。夫と話し合ってグッズを折半したり、グッズの一部を売却するという共同作業ができたりする関係性なら、今、私はこんなところにはいない。

夫との会話が一切成立しないからここにいる。藁にもすがる思いでここに座っている。私は膝の上で丸めていた手にぎゅっと力を込めると、同時に気づかれないように小さくゆっくりと息を吐いた。今にも涙がこぼれてしまいそうだった。

泣いてもどうしようもないのに。悪気はなかったとはいえ自分が撒いた種なのに。

先を見据えて、計画的にお金を使えばよかった。しっかりしていなかった自分の責任なのに。

本当は質問したいことがたくさんあったのに、言葉に詰まったまま、机の一点を見つめたまま固まってしまった私に女性弁護士は続けた。

「サラ金にでもお金借りて、旦那さんにお金返したらどうですか?」

女性弁護士の軽い口調とは裏腹に、内容があまりにも重すぎる打開策に、

私は瞬時に顔を持ち上げて、女性弁護士の顔を見た。

「サラ金ですか?」

そう聞き返す自分の顔が、筋肉の強張りによって歪んでいるのが分かった。

「そうですね。お金がないならそうするしかないでしょうし。闇金から借りる人もいます。」

何言ってんの?この人。怪訝そうに見つめる私の視線など全く気にもとめない様子で、淡々と抑揚無く恐ろしいことを提案し続ける女性弁護士に、

『自業自得でしょうに。もう、面倒くさいんでとりあえずとことんまで堕ちといてください。』

そう言われているような気がした。

もう、帰ろう。そう思いながらも、私は頭が真っ白になって返す言葉が思い浮かばず、

「名刺とかいただいてもいいですか?」

しゃがれた声を絞り出してなんとか尋ねた。

「あー。今、私名刺持ってないんですよ。あと、うちの事務所、離婚問題に関する弁護は法テラス経由では受け付けてないんですよ。法テラス経由だと弁護費用が破格なんで。あ。通常料金をお支払いいただく形であればお受けしなくもないですよ。やれと言われたらしないこともないです。離婚問題って時間と労力ばっかりかかって、ほんとお金にならないんですよ。」

この人、おそらく本当は名刺持ってるな。受けたくない案件抱えてる人間に名刺渡しても無駄だもんな。名刺だってタダじゃないんだもんな。

あと、初めからやる気がまったくないのに渋々引き受けられてのちのちいい加減な弁護をされるくらいなら、こうしてやる気ないですとはっきり言ってくれたほうがある意味、誠意があるのかもしれない。お互いにとってそのほうがいいのかもしれない。

ただ、法テラスという機関は、お金に余裕のないいわゆる社会的弱者が困ったときに救済するための場所であるはずなのに、金にならない案件はやりません、と言い切ってしまうのはいかがなものなのか。おそらく、金にならなさそうな案件は定められた時間の中で、最低限の自分の意見を述べ、その場限りの対応をしてやり過ごし、さようなら。

ランダムで何人もの相談者と面談し、遺産相続とか、民事訴訟とか、明らかに金になる案件のみをこの場所で拾い、正式に引き受けるということを繰り返しているのだろう。

そういった弁護士さんもいるのだな。貴重な時間を無駄にしたけれど、腹立ってなんていられない。はい、次。まだ見ぬ新たな弁護士の方どうか何卒お願いします。

お金を持っていない私で申し訳ないですが、少しでも力になってください。

法律の知識なんて私には全くないけれど、いくらなんでも

『サラ金にでもお金借りて、旦那さんにお金返したらどうですか?』

っていくらなんでもそれはないわ。職務怠慢も甚だしい。無料相談なんてそんなもの。いやいや、ひどすぎるでしょ。そんな言い方あまりにも無慈悲すぎるでしょう。

一番おすすめしてはいけないアドバイスでしょう?それは相手方と戦った結果、最悪の結果となった場合に、最終的にそうしないといけない可能性のある手段の一つであって、そうならないために戦うのが弁護士さんのお仕事なんじゃないんですか?

いくらなんでも話が飛び過ぎじゃないですかね。雑。

ほんっと、雑。これはもう早急にセカンドオピニオンする必要があるなと素人目に見ても私は思った。

そのあと弁護士さんを変え、先行きの見えない不安に終始うろたえ、戸惑いと恐怖を抱えながらも、家庭裁判所で『婚姻費用分担請求調停』と、『離婚調停』が同時に行われた。

本心ではもうさっさと離婚したいけれど、そこはあえて伏せて、

『まだ離婚はしていないのだから、あなたには妻である私を扶養する義務があります。ですので、最低限の生活を営むための婚姻費用をください。離婚はしません。』という私の主張と、

『もうお前のことは大嫌いで、夫婦関係はもう破綻しているのに、なんでお前を養わなあかんねん。金なんて一円たりとも払いたくない。さっさと離婚してくれ。』という夫の主張。

真っ向から対立するお互いの意見を、調停員さんに間に入ってもらいつつ、限られた時間の中で議論し、戦った。

離婚はしてもいいけれど、その代わり、『婚姻期間中に使った金を返せとは、今後一切言いません。』夫にそのように約束させなくては。

そのためにも、離婚したいという夫の要望に対して簡単に首を縦に振るわけにはいかなかった。

『離婚の原因は俺の心の支えにならなかったお前の責任だ。さっさと離婚してくれ。あと、金返してくれ。』

私と、私の両親の前でそう言い、終始イキり散らかしていた夫は、夫側の弁護士を通して送ってきた書面で、『家庭裁判所での話し合いには一切参加しない。そっちで勝手にやってくれ。話し合うことなど何も無い。俺の考えはもう決まっている。お金も払わないし、今後婚姻関係を継続させるつもりも無い。離婚しますとそちらが同意すればいいだけの話だ。悪いのはそっちなんだから。』というような旨が、はっきりと書かれてあった。

それなのに、調停当日、普通に来た。

おそらく有給を使って来た。別に来なくてもいいのに、来た。

調停中、調停員さんを通して話を進めていくため、夫の姿は調停期間中、一度たりとも目にしていない。みたくないので心底ありがたかった。

ついでに言うなら、両家を交えての話し合いの際、

「うちの息子はおたくの娘さんとは一切やり直す気はございません。これから出会う新しい人と一からやり直したいと言っております。ですので、そちらもいい方を見つけてお幸せになってください。あと、うちの息子が、そちらが使ったお金を返して欲しいと言っておりますので、よろしくお願いします。」

と義父が言った。

私の母が、

「裁判で、うちの娘がおたくの息子さんにお金を返さなくてはならないという義務があると認められたのならお返しします。そちらから離婚したいとおっしゃったのだから、そちらから離婚の申立をお願いします。離婚調停では、離婚したい理由は、俺の人生において妻はなんの心の支えにもならなかったから離婚したい。そうお伝え下さい。うちの娘を捨てようとした時、悠斗さんはうちの娘が別口座に預金を持っていると思っていましたよね?だから、毎日うちの娘に睨みつける、暴言を吐く、わざと大きな物音を立てる、などの圧をかけて家にいられない状態に追い込んで、うちの娘を家から追い出すことに成功しましたね。その後、生活費は一切支払わず、1年半ほど放置。そのあと、思い出したかのように一方的に連絡してきたかと思いきや、『俺の家に残してあるお前の荷物をさっさと引き上げてほしい。離婚の原因はお前が俺の人生において何の心の支えにもならなかったから。お前のせいだから。ちゃんとお前の両親にも離婚の原因は全面的にわたしのせいですと伝えといてくれよ。ついでに別口座に隠し持ってる金を俺の口座に戻しといてくれよ』とおっしゃいましたよね。ということは、離婚理由は浪費ではないということですよね?ということをこちらは調停で主張させていただきます。というか、俺の家ってなんですか?あの家はあなたのすみかでもあるけれど、うちの娘の家でもあったはずでしょう?まだ離婚も成立していないし、あなたが一方的に追い出しただけだから、あなただけの住居という発言はおかしいでしょう?あなたがうちの娘にぶつけた様々な発言は、あなたがメールで言ってくださったお陰で、すべて保存してありますので。証拠として出させて頂きます。そちらもいかにうちの娘があなたの人生において心の支えにならなかったかを調停員さんに提示してください。裁判所でお会いしましょう。」

と淡々と答えた。

すると元夫は、

「離婚調停を起こすのはそちらからどうぞ。」

と言った。

そちらからどうぞ?何言ってんだ?このおっさん。

「そちらがうちの娘のことを心の支えにならないからいらないとおっしゃってるんでしょ?いらないって、うちの娘はペットショップの犬か猫かなにかですか?犬や猫でももう少しちゃんと責任持って飼ってもらってますよ。なんでこちらからなんですか?」

元夫は、面倒くさそうに頭をかきながら言った。

「いや、そちらも別れたいんだろうなと思って。」

はぁぁ?人を馬鹿にするのも大概にしていただきたい。こっちから離婚したいなんか言ったら、いろいろとこちらがただただひたすら損だろうが。

私は思わず大きなため息をついた。色々と情けなくて涙腺が緩んだ。

私って、私の人生って、一体何なんだろう。

「あなたがうちの娘を一方的に夫婦として住むべき家から叩き出した行為は悪意の遺棄にあたると思います。」

私の父の言葉に、元夫は、

「そちらが勝手に出ていったと思いますけど。」

首をかしげるような仕草をして見せながらそう言った。

私は腸が煮えくり返りそうになるのを感じた。ふつふつとやり場のない怒りが込み上げてくる。

なんでこいつは空気を吸えているの?いっそのことどこか知らないところで野垂れ死んでくれ、と心底願った。

私はあの日。遠回しに、この家から出て行ってくれとやんわり夫に言われた日。

むりくり、とはまさにこのことだとその時感じた。

この世の中、何事も『証拠』だ。証拠がなければ、言った言わないの水掛論だ。

これほど無駄なことはない。私は随分と前から、夫から理不尽なことで責められたり、馬鹿にされたり、身勝手な主張をされたり、いわゆるモラハラに頭を抱えていた。悔しい思いをたくさんしてきた。夫が私に投げつけてくるあらゆる主張は果たして正しいのか、私は知りたかった。

だから私はある日を境に、ボイスレコーダーを仕込んでいた。

今思えば、罪悪感などさっさと捨て去って、自分の身を守るためにも一刻も早く録音をしておけばよかった、と後悔した。でもなかなかできず、行動に移すまで随分と時間がかかった。

純粋に、万が一、録音していることが夫にばれてしまったらどうしようという不安が大きかったのかもしれない。

ボイスレコーダーには、実家の居心地はどうや?居心地が悪くないのなら実家に戻ったら?俺は飯とかは自分でなんとかするし。そのようなことを何の脈絡もなく話す夫の声がしっかりと入っていた。

これで、こちらが勝手に家を出ていったという夫の主張は通らなくなるだろう。

冷静に考えると、実家の居心地が悪くないのなら、実家に帰ってそこで過ごしたら?という提案そのものが支離滅裂だ。帰る場所があるのなら帰ってくれ、というのは不仲とはいえ、まだ戸籍上、夫婦関係である以上、通らないはずだ。

夫は、妻がこちらの提案に賛同したので、その瞬間からお互いの同意の元、別居が開始されました。ですので、夫婦関係の破綻が証明されるので、離婚は成立すると考えるのが妥当である。と、のちの調停で主張してくることは火を見るよりも明らかだった。

ああ言えばこう言う。どこまでも悪知恵が働く。とことんまで相手を舐め腐る。

こいつはあほだから世間相場的にもありえないようなめちゃくちゃなことを言っても、ワンチャンまるめこまれてこちらの都合のいいように動いてくれるかもしれない、追い詰めて脅しておけばびびって、私が悪かったですと、自分の言うことを大人しく聞くかもしれない。というような、社会的、精神的に自分より立場の弱そうな人間の足元を見て、こいつは言い返してこなさそうだな、と人を選んだあと、とことんまで尊厳を踏みにじる。執拗に跡形もなくなるくらいまで。

そんな人を夫に選んだ自分をとんでもなく恥ずかしく感じた。

私は不本意にも夫のその身勝手な誘導に従うしかなかった。心がもう完全に萎縮していた。

夫にしてみれば、疎ましくなって邪魔になった物体をさっさと目の前から排除できて、あとは夫婦生活を営んでいたときに使った金をできるだけ多く取り戻せたら万々歳だったのだろう。

でも、私はすんなりと金を返すつもりはなかった。

この女は俺の心の支えにならなかったから、この女が有責配偶者です。

この理屈がやすやすと通ってしまうようでは、もう、『わやくちゃ』だ。

恐ろしくて誰も安心して結婚などできなくなってしまう。

堂々と、私にドヤって言ったように家庭裁判所という法で人を裁く場所で言ってみて頂きたい。その主張が通るのか否か。さぞ自信がおありのようですので。

「こちらからは離婚の申立はしませんので、離婚したかったらそちらからお願いします。そちらの望む『離婚』というものを、一方的に家を追い出されて扶養義務も怠られたこちらがわざわざ申し立てる意味がわかりませんので。離婚の申し立て、待ってますね。」

私の母の言葉に夫は、わかりました、と答えた。

そして、そのあと約2年半、一度も連絡はなかった。当然その間、夫とは会っていない。

いくら待てども、埒が明かないと思った私は、相手を『こちらからは離婚請求はせずに何らかのアクションを起こさせる方法』を取ることにした。

それが『婚姻費用分担請求』だ。本来私は、夫から生活費をもらおうという気はなかった。自分自身、うまく貯金ができていなかったことへの反省の念があったからだ。

けれど、あちらは一向に動かない。嫌いな相手を扶養すること無く、配偶者控除という恩恵だけ受け続ける事ができているのだから、向こうから離婚の請求をしてこないのも理解できた。このまま得をして、5年位経った後、『婚姻関係の破綻』を主張して、すんなり離婚するつもりだったのかもしれなかった。

男の5年はどうってことないのかもしれない。けれど、女の5年はあまりにもあらゆる損失が大きすぎる。『婚姻費用分担請求』は、不仲であろうが、別居していようが、給与の多いほうが少ない方に毎月決められた金額を支払う義務を課すための話し合いだ。

もしその義務を怠った場合、相手方の会社の給与を差し押さえることもできる。

確実に、夫は支払いを拒否するだろう。それでいい。そこで、なんらかのアクションを夫自身も起こさざるを得ない。それが目的だった。

婚姻費用分担請求の調停を起こすために様々な書類が必要となり、戸籍謄本などを取りに行った。その時、初めて、まだ元夫が生きていることを知った。ああ、まだ生きてるんだ、と心底がっかりしたことは今でも記憶に新しい。

私の人生、こんなはずではなかったのに。悲しくなって私はまた少し泣いた。


今の私は抱えきれないほどの後悔を抱きつつ、派遣先の会社では、『年齢』という自分がどうあがいても変えようのないことで執拗にパワハラを受け、それでも生活のために若者がよくする『飛ぶ』という憧れの選択肢を取ることもできないまま心を無にして、なにがなんでもひとまずタイムカードを埋めるということだけに徹している。

私の元をそそくさと離れていったあの人は、私にどう思われようがもう関心もないだろう。

私が譲ってあげた抽選販売で手に入れた某人気アパレルブランドのくまのぬいぐるみポシェットは『抽選販売で当選して購入いたしました。新品・未開封です。』という丁寧な説明文と共に、謀反者である男の手によって高額転売されていた。

私と仲良くしていたときに使用していたアカウントの出品者名を別のものに変えているだけで、アカウントそのものや過去の出品物がそのまま残った状態で出品されていたためすぐさまそれが空君だと分かった。一度譲ったものを、相手がどう扱おうが自由だということは重々頭では承知しているけれど、大人しそうな顔してえげつないことをやってのけるんだな、と憎しみの感情がふつふつと湧き上がった。

別にエゴサをしたわけではない。部屋の掃除をしていた時、ふと過去に参加した某アパレルブランドの購入抽選券の控えが出てきた。『やみくみゃちゃんポシェット抽選券』と書いてあった。どんなポシェットだったっけ・・・。確か背中に羽のついているかわいいクマちゃんだったような・・・。肝心のポシェットは、この部屋のどこかにあるはずだけど、おそらくいくつも重ねてある収納ボックスの中にしまってあるだろうからすぐには探せない。さくっと調べてみますか、と検索をかけてみたら、フリマアプリがサイトの検索になぜか引っかかった。画像を見てみると見覚えのある姿をしたポシェットだったからサイトを開いてみると、空君が私から譲り受けたポシェットをバカ高い金額をふっかけてあたかも自分が当選しました的な書きっぷりで出品しているのを見つけてしまった。こんな悲しい偶然、なかなかない。きっと神様かなにか見えないなにかしらが、『あいつ、そういうやつやで。いい加減、目ぇ覚ました方がええで。』と教えてくれたのではないだろうかと思った。

もう届かないけれど、一つだけ言いたい。空君。あなたが私のことを人に話した時、なにも知らない人たちは口を揃えてこう言うだろう。

『絶対そんなの嘘付いてるよ。絶対ずっとそのままだよ。』と。

けれど世の中には、例外も存在するということ。なにも知らない人間が本来『絶対』なんて言葉を使うべきではないということ。人による、ということ。

私みたいな人間もいるのだということ。空君は、『別居してるとか口では言ってても、実は夫さんと電話したり、出かけたりして、僕の見えないところでは仲がいいのかもしれない。』と私に言ったけれど、残念ながらそのようなことは一切なかった。ひたすら放置されていた。

だけど、一番重要なことは、真実がどうであれ、空君が私を信じられなくなったということ。心が離れたということ。なら、もう仕方がない。私の言葉より、人様の言葉の方に信憑性を感じたのだから。

お前、と思うのに、あなたに大切なことを伝えたいと思いを巡らせた時、名称がお前ではなくなっていることに気づいて、安堵している自分がいる。

深く傷ついたけれど、空君を失ったこと以外の大きな罰はきっと今後当たらないだろうと思っている。なぜなら私は空君で遊んだり、騙したりは一切していないから。


会社では今日も、平常運転。

「その製品、もうわざわざ新しいビニールに入れ替えなくてもいいですよ。古いビニールを再利用した状態で大丈夫ですよ。」

正社員の穂月さんは言った。

えっ?だって、さっき井上さんが、全部新しいビニールに入れ直せって・・・。

そう思いつつも口には出さず狼狽えていると、

「新しいのになんか入れ替えんでええで。」

背後から声が聞こえた。振り返ると、井上さんはこちらに背を向けたまま、何やら別の作業を始めていた。井上さん。さっき、古いビニールじゃ駄目。全部入れ直してって私に言いましたよね?

最初に出した指示が変更になることってよくありますよね。まぁ、そういうこともありますよ。臨機応変にそこんとこはね。わかりますよ。それはいいとして、なんであえてほったらかしにしたん?


給与日のその日、会社帰りに少し都会まで出て、通帳に記帳を済ませたあと、

ふと甘いものが食べたくなってミスタードーナツに入ると、ドーナツが並ぶショーケースの前に初々しいお互いぎこちなさそうなカップルがいた。

彼女がトレーとトングを持ったままどうしよう、どれくらい買えばいいのかな、と蚊の鳴くような声で呟くと、彼氏が、『おやつなんだから、食べられる分だけいくらでも買っていいよ。』と柔らかな口調で言いながら、ショーケースの扉を開けた。

じゃあ、これと、これ。彼女が遠慮がちにドーナツをトングでゆっくりと掴んで、トレーにそっと乗せると、彼氏が『それだけ?もっと買っていいんだよ。これとか。』と言って、まだトレーに載せていないドーナツを指さした。彼女が、それをまたゆっくりとした動作でトレーに運ぶ。

おそらく今からどちらかの恋人の家へ行き、ドーナツを食べ、そのあと、キスをして、それから・・・。

私の脳内がスケベなだけなのかなんなのか、その二人からは、なんとも言えない生々しさがあった。初々しさがそう見せているのかもしれなかった。なんというか、所詮表面上のイメージに過ぎないのだけれど、いろんなことがはじめてなんだけれど、もうあんなことやこんなことをしたくてしたくてたまらなさそうな空気が二人からダダ漏れているように見えた。

実際はそんなことないのに、ただ単にドーナツが食べたくて買いに来ただけなのに、こんな見ず知らずの女に『なんかちょっと卑猥な空気感が漂って見える。』なんて思われてしまうなんて心外だろうなぁ、と思うのと同時に、あー。もうやだ。今すぐここから逃げたい。帰りたい。と思った。

決して広くはないこの店内で、愛し、愛され、限りある時間を共にし、想い合っている二人がいる。かたや親以外、誰にも必要とも、重要ともされず、自分が死のうが生きようがまったく誰の人生にも影響も与えないこの私とでは落差がありすぎて

くらくらと目眩がした。

なにも起こっていないのに辛いと感じてしまった。

誰からも必要とされないってこんなにも惨めなものなんだ、と勝手に落ち込むと、

ドーナツが入った軽い袋の端をつまんで、とぼとぼと家路をたどった。

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