泰山木

白河夜船

泰山木

 扇風機が、ブゥ―――――――ンと細やかな音を立てて回っている。

 線香の匂い。薄暗い和室。

「寝ていたね」

 座卓に頬杖をついた■■が独り言のように呟いた。なるほど、僕は寝ていたらしい。卓上には教科書と文房具、うたた寝の間にうっかり引っ張りでもしたのだろう、皺の寄ったプリントが散らばっていた。窓の外を眺めてみる。殺風景な庭の中、泰山木の花弁ばかりが光って見えた。白々しい午後の陽光…………

 勉強中、何とはなし点けていたラジオはいつの間にか、雨音のようなノイズを滔々と垂れ流していた。


 ザ――――――――――――――――ぁ


「みんな、居なくなってしまったよ」

 対座の■■が、にっと無邪気に口角を吊り上げた。

「居なくなったって?」

「そのままの意味だよ。みんな居なくなった。この世界には、君と■、ふたりきり」

 何をばかなことを。と反論しようと思ったが、眼の端に映った庭のあまりの白々しさに、つい、言葉に詰まってしまった。

 扇風機とラジオが零す、単調な雑音……それ以外の音が、聞こえない。

 田舎なのだ。人の気配が希薄なのは、おかしなことではないのだけれど、今は五月下旬、虫や鳥の声はどうだったろう。いつもは聞こえていたろうか。あまり意識したことがない。この静けさは、異常か、普通か。はっきり「こうだ」と断言できないのが、もどかしかった。漠たる不安を拭い切れない。

 ■■は目を細めてくすくすと、声を殺して笑っている。

 別に何ということはないのだ。試みに外へ出て、人か車と行き逢えばすぐ安心できる。しかし、もし■■の悪戯だったら……子供じみた冗談を半ば信じてしまったことになる。それは何だかとても、情けなくて恥ずかしい。

 どうしようか。どうするべきか。

 頭の中で色々な考えが閃いて、形を取る前に儚く消えた。


 ■■。


 ふと気がついた。■■、■■、■■―――――こいつは誰だ?

 一つのことに気がつくと、一本の糸の綻びからするすると布が解けるように、他のことにも気がついてくる。

 僕はこんな部屋を知らない。庭を知らない。この家がどこにあるかも分からない。僕、いや、俺、それとも私? 自分が何者かすら、あやふやだ。

 変だ。妙だ。頭が痛い。気持ち悪くなって、胃の中身を吐き出した。甘い香りに噎せ返る。私の口から溢れたのは、吐瀉物でなく、作り物めいた白い泰山木の花だった。俺の唾液に濡れて、ビニルのようなぬらりとした光沢を帯びている。声を立てて、■■が笑った。よほど面白かったのだろうか、■■は僕の背後へ回り、喉奥に細い指を突っ込んできた。嘔吐く。部屋にまた泰山木の花が散る。

 扇風機の稼働音が、ラジオのノイズが、頭蓋の内側で耳鳴りと混ざり合って、反響していた。

 ■■は飽きずに■の喉を甚振っている。

 涙で滲んだ視界が白い。吐く、吐く、吐く、吐く…………一体いつまで続くのだろう。■■の指が攻撃的に蠢いた。嘔吐く。吐く。また、花が、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泰山木 白河夜船 @sirakawayohune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ