観覧車という名の、『監獄』

秋野 秋人

第1話

「ねぇ、どうして泣いているの?」

僕の向かいに座っている彼女はそう言った。その言葉を聞いて、僕は自分が泣いていることを初めて自覚した。なんで泣いてるんだろう、と自分でも不思議に思った。

「あれ、なんでだろ。」

「高いところ、苦手?」

と、彼女はからかうように笑う。

僕達は今、観覧車に乗っている。最近できたばかりのそれは、周りにある高層ビルとも引けを取らない程の高さがあり、その景色に思わず唖然としたのは事実だ。しかし、泣くほどではない。僕は元々高いところが、そこまで苦手という訳ではない。

「じゃあ、嬉し涙だ。」

と、僕は言った。

「嬉し涙?」

「そう、こうやって一緒にいれることへの、嬉し涙。」

言いながら僕は涙を拭う。そして拭い終わって赤くなった顔でにっこり笑う。

「何それ、今さら?」

彼女は半分驚き、そして半分笑った。つられて僕も笑う。

今日で彼女と付き合ってから一年が経つ。そんな記念日にどこか出かけようか、という話になって、僕がこの観覧車を選んだのだった。その選択は正しかった。通常では見られない程の高所からの景色は、いつも見ているはずの街並みでさえも、なんとも言えない特別感と優越感を纏っているように見えて、さながら派手にデコレーションされたバースデーケーキのようだ。そう見るとあの夕日も、なんだかロウソクのように見えてきた。夕日は観覧車が時間をかけて上がっていくにつれ、反比例するようにどんどん海の底へ沈んでいく。

「綺麗な空。」

と、彼女が呟く。そうだね、と相づちをいれる。それ以上言葉を交わすことはなく、二人ともただ黙って外の景色を眺めていた。しかしそれは、決して退屈さによる沈黙ではなかった。むしろその沈黙が、僕には居心地の良いものに思えた。

―ずっとこの時間が続けばいいのに。

しかし、まるでパラパラ漫画をめくるかのように、景色はゆっくりと、それでいて着実に、移ろいでいった。


―プルルルル…

僕たちの乗っているゴンドラがついに一番頂上へ着こうとしている時だった。彼女の電話が突然鳴りだした。

「ごめんね、こんな時に。」

僕は手でどうぞ、と促す。彼女は申し訳なさそうな顔をして、電話にでた。

「はい、もしもし。」


その時、観覧車が少しギィギィと軋む音が聞こえた。建てられてから何十年も経って、骨格が錆びついてきた古い建物のような音だった。この観覧車は、建てられたばかりのはずなのに。


「え、警察?…事故?」

彼女がそう言った。恐らく電話がかかってきた相手と、その用件をそのまま復唱したのだろう。警察。事故。僕もその言葉を頭の中で復唱する。彼女の話し方からはなんだか物々しい雰囲気が感じられた。

「お母さんが…」

夕焼けのせいで世界が真紅に染まってきているというのに、彼女の顔色だけは真っ青になっていった。なにかただならぬ事が起きている、とその様子から感じられた。彼女は何度かはい、はい、と相づちを打つと、「分かりました。すぐ向かいます。」と言って電話を切った。


「お母さんが、交通事故にあったって…ひどい怪我なんだって…」

電話を切ってすぐ、彼女はそう言った。

「だから、早く行かないと…!」

酷く焦っている様子だった。

「それは、大変だ…早くしないと…」

と、僕も同調するようにそう言った。しかし、そう言った後、今彼女が置かれている状況の残酷さに気が付いた。彼女がいくら焦っても、母親の元に向かうことはできない。今すぐには。


なぜなら今彼女は、”監獄”の中にいるからだ。この観覧車という乗り物は一度乗ってしまったが最後、途中下車なんてできないし、当然タクシーみたいに「早めにお願いします」なんて言うこともできない。ただその場に留まり、最初に乗った場所まで戻るのを、ひたすら待つことしかできない。冷たい檻の中で、刑期が過ぎるのを待ち続ける囚人と同じように。


彼女は電話を切った後に少し僕と話してからは何も言わず、ただ窓の外を眺めているようだった。そうすることしかできないからだ。しかしただ呑気に景色を眺めている訳ではなく、彼女の目には明らかな焦りが浮かんでいた。ワイヤーで吊るされているゴンドラが風に吹かれてガタガタと揺れる音がする。それ以外は何も聞こえない。その沈黙の時間はさっきのものとは違い、僕にとって実に居心地の悪いものだった。彼女の焦りが僕にも伝播し、空気そのものが分厚くなっていくような感じがした。一息吸う度に、肺の奥が詰まる。まるで僕と彼女の間に、目には見えない、幾重にも重なった、層ができたみたいに。


そんな僕らの焦りとは対極に、その観覧車はひたすらゆっくりと回っていた。かえってさっきよりも遅くなっているようにも感じ、止まっているようにさえ思えた。


「ねえ、あと何分くらいかかるかな…?」

と、彼女が僕に聞いてきた。彼女の声に、僕は思わずビクッとなる。

「えっと…今が頂上くらいで、ここまでくるのに十分くらいかかったから、帰りも同じくらいかかるんじゃないかな…」

と、僕はしどろもどろな口調で答えた。彼女は何も言わず、ただ俯いていた。その目は、色々な感情がごちゃごちゃに混ざって融合しているような目だった。


またしても沈黙が流れる。観覧車は…何故だろう…さっき外を見た時からいくらかは時間を置いたはずなのに、ほんの少ししか動いていない。ただギィギィという音はさっきよりも大きくなっていた。

―早くこの時間が過ぎてくれ。

と、何度思ったことか。しかし思えば思うほどそこから見える景色は、一枚の静止画のように動かなくなっていく。夕日でさえ、まるで自分が沈まなくてはいけないことを忘れているかのように、ピタリとそこに佇んでいた。


そこからしばらくした後だった。誰かがすすり泣く声が聞こえた。耳を澄ますと、その声は間違いなく彼女のものであった。彼女は顔をおさえて、なるべくその声を外に出さないようにと努めている。しかし、無情にも手の隙間から漏れ出てくるその声は、ひとつひとつの涙の粒と混じりあって、その手から零れていった。この残酷な現状に涙を流している彼女を目の当たりにして僕は、こう思った。

『僕が、こんなところに誘ってさえいなければ。』

彼女は決してそのことを口に出さない。ただ涙を流して、現状に絶望するだけだ。だけど、きっと彼女も思っているはずだ。なんでこんなところに誘ったんだろう、と。僕のことを酷く恨んでいるはずだ。きっと。恐らく。否、絶対に。


もうしばらくすると、突然彼女は泣くのを止めた。もうそうすることすらうんざりしたという様子で、その表情は驚くほど澄みきっていた。しかしそれは反対に、彼女の心が朽ち果てていっていることの現れであった。


余りにも長すぎる監禁によって、彼女の心は既に全てを諦めていた。この”監獄”から、出られることは無いのだと。そしてそれは僕も同じだった。彼女をこの檻の中に入れたのは僕だ。僕はその事を激しく後悔していた。せめて彼女だけでも、と何度も思った。彼女だけでも解放されて、そして母親の元に一直線に飛んでいく姿を見れば、。しかしこの監獄は、そういう仕組みにはなっていない。僕らが外に出たいと思うほど、よりその鍵は何重にもロックがかけられ、扉はどんどん分厚くなっていく。脱出の術は無い。僕らにできることは、ただひたすら待つことだけだった。いつになるかも分からない、解放の時を。






何十年もの時が経った、ように思えた。夕日はようやく自分の使命を思いだしたかのように、水平線の向こうに消えていった。それは僕らの解放の時が近くなってきていることを示唆していた。しかし、それで僕らの心が晴れることは無い。寧ろ今となっては、ここから離れることさえ躊躇われた。本当にここから出てもいいのか、と。しかし監獄の鍵は外され、扉は開かれる。寧ろ監獄の方から、僕らを解放したがっているようにさえ思えた。



乗降口まで戻ってきたあと、ゴンドラの扉が開く。そこに係員がやってきて僕たちに降りるよう促す。そのゴンドラの中の空気感は、普通の人が触れたらすぐ顔をしかめたくなるほど異様なものだったが、恐らくその仕事をしている人間にとってはさして珍しいものでもないのだろう、その係員はあくまで通常通りといった感じで、ただ機械的に僕らを降ろして、さっさと次の乗客を乗せてしまった。


そこから降りてすぐ、彼女はどこかに消えてしまった。母親のもとに行ったんだろうか…それは分からないが何にせよ、もう二度と僕の前に現れることはないだろう。僕はただその事実を噛みしめて、ひとりそこにぽつんと立ち尽くすだけだった…



―いつもそのタイミングで、僕は現実に引き戻される。僕の後ろには、かつて彼女と乗った時の面影はほとんど残っていない程、錆びついて古ぼけたあの観覧車があった。あの日から、僕はひとりで何回この観覧車に乗っただろう。やはり結局、あの日から彼女とは一切連絡がつかない。きっと彼女の方はもうあの日のことなんて忘れて、別の相手と幸せに暮らしているんだろう。しかし僕の心は、いつまでもあの日に囚われたままだった。そしてひとりで、何度も何度もあれに乗る。

そして乗った瞬間にいつも、僕は大粒の涙を流した。何故泣くのかは僕自身にも分からない。ただもしも、あの日流れなかった涙が今になって流れてきているのだとしたら、それはいつまでも止むことはないのだろうと思う。そうして泣いていると、僕は誰もいないはずの向かいの席に、あの日の彼女の幻を見る。そしてその彼女は僕に向かって、決まって始めにこう言うのだ。

「ねぇ、どうして泣いているの?」


あの観覧車は老朽化が進みすぎたため、来月には取り壊しが決定されている。しかし、あの観覧車は『監獄』である。姿が失われたとしても、きっとその役割を果たし続ける。そして僕の心を永遠に捕え続けるだろう。

もう二度と、その扉が開かれることはない。

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