前日譚

秋葉原#1

 二〇一X年 三月四日


恵比寿えびすさん、待った?」

 肩に背広を無造作に引っかけて、宿泊中のホテルのロビーにふらふらと現れた神崎は、ラウンジでコーヒーを飲んでいる着物姿の中年男に力なく声をかけた。彼はどこか疲弊した様子だったが、ロビーとラウンジを仕切る柵越しにその着物姿の男の顔を認めると、少しほっとした表情になった。

「いや、来たばかりだよ、有人あると

 恵比寿と呼ばれた男は、伝票を持って優雅に立ち上がった。

 男性の年の頃は四十半ば、髪は七三分け、親しみやすい雰囲気と人の良さそうな面立ちをしている。紺の大島紬の着物の上に芥子色からしいろの羽織を粋に着こなし、上品な立ち居振る舞いから茶道か踊りの師匠のようにも見てとれたが、それは一見優男のようでいて、動作の一つ一つにムダのない、訓練された精悍さを感じさせる『普段』の神崎青年とは、明らかに正反対だった。



 神崎はいつも、日本「滞在」時間のほとんどを秋葉原で過ごす。

 ――それは、彼がこの世で一番愛している街だから。

『アキバでは、俺はずっと子供でいられる』

『俗っぽい言い方かもしれないけど、ここは、俺にとってのネバーランドなんだ……』

 一度だけ、恵比寿にそう語ったことがあった。

 恵比寿は、

『有人、お前はピーターパンかもしれねぇな』、と返してきた。

 確かにね。

 言い得て妙、といった所か。



 季節の移ろう頃、昼と夜が移ろう時。

 雲ひとつない空は、橙から紫へと感傷的なグラデーションを成している。

 故知の友人同士である神崎と恵比寿は、秋葉原駅に程近いホテルを出て歩き出した。春まだ浅い夕暮れ時の秋葉原駅は、家路を急ぐ多くのサラリーマンでごった返していた。道行く女性たちの装いには、未だ華やいだ色は見えず、今年の春の訪れが少し遅いことを思わせた。そんな人波の中を、神崎は恵比寿に気遣われながら、ゆっくりと歩いていた。

 街には未だ冬の残り香が漂い、神崎の剥き出しの指先を冷たくしていく。彼のYシャツは半袖のままだったが、上着を着ようともせず無造作に肩に背負っている。

 花粉症のマスクをしている通行人が目につくが、こんなにマスクをする人間が多いのは世界中を探しても日本だけだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、神崎は少しおぼつかない足取りで歩いていた。


 なにもかもが懐かしい、そんな目をしながら、周囲の風景を漫然と眺めている。

 前の任務に赴く直前、……つい数ヶ月前にもこの街を訪れたはずなのに、何故かとても時間が経っているような、そんな気がしていた。

 それが……、淋しいような……、でも、変わらないでいてくれたことが嬉しい……。

 そんな気がしていた。


「有人さんよぉ、今度はいつまで日本にいるんでい?」神崎を気遣いながら傍らを歩く恵比寿が、江戸っ子訛りで今回の彼の休暇が何時までなのかを訊ねた。

「うん……、一週間後、成田を発つんだ……」謳うように、呟いた。

「昨日けえってきたばかりじゃねぇかよ」恵比寿は顔をしかめながら言った。

「恵比寿さん。……帰れる場所があるって……いいよね」神崎は恵比寿の問いには答えず、独り言のように呟き、言葉の最後は騒音にかき消されて雑踏の中に霧散した。

 恵比寿は、神崎がここまで弱っている事に胸を痛めてはいたが、今さら何があったのかを彼から聞きだそうとは思わなかった。大方何があったのか察しはついているし、彼が日本に帰って来たとき、暖かく迎えてやるのが自分の努めだと思っている。だから、彼がいくらボロ雑巾のようになって帰ってきても、自分から言い出すまでは一切事情は聞かないことに決めていた。

『そいつぁ聞くだけ野暮ってもんだろう?』――それが恵比寿のいつものスタンスだ。

 お互い数少ない、悠久の時を隔ててもなお「トモダチ」でいられる仲なのだから。



 大きな横断歩道で神崎は立ち止まった。同時に恵比寿も足を止める。

 対岸の歩行者信号が点滅を始めている。

(そういえば、いつから信号ってLEDになったんだろう……)

 自分たちの脇を、幾人かの学生が駆け抜けていった。彼等はグループのようで、道路の向こう側で合流し、どこかへ歩いていった。神崎はその無音のムービーを、濁った目で眺めていた。


 信号が赤になり、車が一斉に流れ始める。テールランプの河が流れ、神崎の瞳を赤く、黒く、滲ませていく。それでも彼は、自ら瞳を紅く染めることはなかった。元より、好んでそうしたことなど一度たりともなかったが。

 ――彼が瞳を紅く染めるのは、心が殺意に満ちた時だけだから。


 路肩に停車したタクシーのドアがひとりでに開く。道路は美しく舗装され、砂埃が立つこともない。道行くどの車も綺麗に磨かれ、傷一つ無く、銃弾に穿うがたれた穴もなく、砂埃さじんまみれているものはない。

 ――彼には、整然過ぎるそれが、とても不自然に見えた。


 ひどく人工的な明かりが人々の頭上から振り注ぐ頃、足元には黒い影が落ちていた。

 空は紫から紺色に変わり、通りに満ちていた空気が湿り気を帯びた風に変わる。

 道を行く人たちが上着の襟を立て、ボタンやファスナーを閉じている。

 彼が紺色の空を明るく感じるのは、ここに文明と平和を謳歌する人々が、多く暮らしている何よりの証拠だった。

 ――彼にとって、つい数日前まで、空は黒いものだったから。


 歩道の信号が青に変わった。

 横断歩道の上を、学生が、サラリーマンが、観光客が行き交う。音楽を聴きながら、外界との接点を断つように、誰とも目を合わせないように、何ものにも興味を抱かないように、コミュニケーションを拒絶する人々が黙々と歩いて行く。

 ――ここには誰一人として、武器を携行しているものは見当たらない。


 殺し合いとは、究極のコミュニケーションだと神崎は思っている。

 武器を持つということは、干渉されることを前提とした『意思表示』に他ならないからだ。ここで言う干渉とは『武器を向ける』ということであるが、たとえそれがマイナス方向であったとしても、強く意思を伝えるという行為にかわりはない。意思と意思の行き違いやぶつかり合いがいさかいを生む。そんなコミュニケーションの手伝いをしているのが、今の自分や、世界中に散らばる数多くのコントラクター達なのだ。

 しかし我が国では、コミュニケーションの必要性を声高に叫ぶ大人達自身が、他人との接触を極端に拒んで、影では他人の足を引っ張っている。

 本音と建て前を上手く使い分けることを強制する大人の社会。正しい事を愛し、素直な心を持つことを許さない大人の社会。世間にそんな下らない大人しかいなければ、殴り合いどころか口ゲンカすら出来ない、しかし他人を思いやれない子供ばかりになっていくのも当然だ。

 そんなことを考えると、この国は、

『いつからこんなに不自由で、不健康な国になってしまったんだろう』と暗い気持ちになる。



「おい有人、お前がいるのは日本だ。おーい、帰ってこい。ほら、お前の大好きなアキバだぞ?」

 ふいに着物の男に肩を叩かれる。どうやら恵比寿には、神崎の心の声は筒抜けだった。

 意識が戻ると、急に周囲の騒音が耳に飛び込んできた。

 どろりと濁った彼の目に光が戻る。

 信号は、再び点滅を始めた。二人の横を誰かが駆けていく。

 神崎の意識がこうして時折、雑踏などで遠のいてしまうのは、一種の時差ボケのようなものだった。武力衝突の激しい地域から急に平和すぎる日本に戻ってくると、彼は感覚を戻すのに若干時間がかかることがあった。


「あ……。ごめん。つい……」神崎は大きくため息をついた。

「大丈夫か? ふぅ、道路の真ん中で意識飛ばされなかっただけマシだけどな。頼むぜおい、しっかりしてくれよ、大将」そういうと恵比寿は、車道にふらふら歩き出さないよう、いつもそうしているように神崎の肩をしっかり抱いた。

「ん……『大将』……はもう……、やりたくないなぁ……」なにかとても悲しい夢から醒めたときのような、感情と現実が混濁した時のような顔をして呟いた。

「有人さんよォ、まだぼーっとしてるみてぇだな。しっかりしろ」と、酔っ払いでも介抱するように、神崎の肩を二、三度揺する。「で、おめえさん、そんな大軍を指揮したことあんのかい?」赤提灯でたまたま隣に座った客にでも語りかけるかのように、さらりと聞いた。

「あるよ。でも……何でもかんでも俺のせいにされるからね。……ほんとは、すごくイヤで、イヤで……、俺、やりたくなかったんだよ……」

「……そっか。でもま、ここじゃ誰もそんなことしやしねぇから、安心しな」

 こくり、と一回。ゆっくりと神崎は頷いた。

 今の仕事に就いてから、他の人間に胸の内を吐露することなど一切なかった。自分の立場上も、自分の中の規範からも、良しとされることではなかったからだ。

 しかし、恵比寿の前でだけは、弱い自分も、傷付いた自分も、汚い自分も、見苦しい自分も、全てありのままを見せることが出来た。

 そうしなければ、いつだって彼は立ち直れなかった。

 ナイーブで傷付き易い彼が今の仕事を続けていられるのも、恵比寿の存在が大きかった。

「ああ……さっきね、ちょっと俺……横になってたんだ……」

「そうかい」

「でもね……」

「なんだい?」

「………………眠れなかった」

「そうかい」

「あのね……俺さ…………」神崎は、つい数日前までのことを、ぽつりぽつりと話し出した。

 恵比寿はただ、彼の言葉を傾聴するしかなかった。

 今回は特に、直近の任務の内容があまりに酷かった。

 紛争地域で、新規パイプライン建設を周辺の武装勢力から警護するのが任務だった。その時襲撃してきた武装勢力の兵士達は、皆一様に年端もいかぬ子供ばかりだった。子供がこうした戦場に駆り立てられることは、様々な理由からさして珍しいことではなかったが、このときはあまりにも少年兵の数が多すぎた。

 そんな理不尽が世間でまかり通っていることくらい、当の神崎にも分かってはいる。彼とて過去任務のために武装した子供を手に掛けたことくらい何度もある。銃を向けられれば誰だって殺す。銃を向ければ殺されても文句は言えない。それが戦場での不文律だ。

 しかし、少年兵は――子供達は、イデオロギーや宗教などを理由に、自分の意思で武器を取る大人達とは違って、ほんの僅かに情勢が狂ってしまったために、やむなく銃を取らされてしまった被害者でもあった。

 パイプラインを襲撃してきた少年兵達は、つい数ヶ月前、別の難民キャンプで神崎が面倒を見てやった少数部族の子供達だった。当然、中には見知った顔も少なくはなかった。

 ――クライアントが変われば銃を向ける相手が変わる。それがコントラクターだ。



 信号は何度目かの青に変わった。彼等の脇を、会社員たちが通り抜けていく。

「……ごめん」ぽつりと言った。

「なにがだよ」口調とは裏腹に、恵比寿の声は優しかった。

「いつも、俺、こんなんで……ごめん」彼の視線は、いつのまにか地面に落ちていた。

「気にすんな、俺だって友達少ねぇんだからさ。世話くらいさせろよ」神崎の頭を抱き寄せ、髪をくしゃくしゃと撫でた。いつもは凜々しい彼が、とても小さくなっている。

「ごめん……恵比寿さん」彼の声は、弱々しく震えていた。

 如何に次の仕事との間が短くても、彼は必ず恵比寿に会いに来た。そして、恵比寿に癒やされてまた戦場に旅立っていく。仕事をすれば、どんなに感情を殺していても心は無自覚に痛んでいく。そして、その傷んだ心を癒やしに、この愛すべき街と恵比寿の元に帰って来る。そして、これを何度も何度も繰り返している。

 今の自分には、すがれる相手は恵比寿しかいないことも分かっている。結果的に、いつも恵比寿に甘えて、恵比寿を利用する形になってしまっていることを、彼自身心苦しく思っている。

 しかし当の恵比寿本人は、彼に甘えられる事をまんざらでもなく思っているのだが。


「ひとつ言わせてもらうとすりゃぁ……」さすがの恵比寿も、今回ばかりは見かねて苦言を呈した。「おめえさんは、やることが極端なんだよ」

「きょく、たん……?」ゆっくりそう言うと、彼は顔をゆっくりと上げた。

「いくら気を紛らわすためっつったってなぁ、そこまで選り好んで酷い現場ばかり行くことねえだろう、ってことだよ。かえっておかしくなってんじゃ本末転倒だろ?」

「あ……、ああ。そう……だよね。うん。……分かってるんだ、俺も。でも、行けって言われちゃうからさ……。だから行くんだ。じゃないと他の人が行かなきゃいけないでしょ……」

 どこか他人事のように、言い訳のように、切れ切れに言葉を繋いだ。

「いくらお前さんが普通じゃねえっつっても、限度ってもんがある」

「そう……だね。……そろそろ俺も限界なんだろうか?」

「それを決めるのは、おめぇさんだけどよ……」恵比寿は苦々しい表情で、そう呟いた。


 器用貧乏な神崎に、会社は毎回無理難題な任務ばかり押しつけてくる。それは彼が何でも無難にこなす社員だから、というだけではない。危険な場所に彼が率先して送り込まれる原因は、『ちょっとやそっとじゃ死なない』という、彼自身の身体上の特性による所が大きかった。

 それでも、唇を噛みながら『誰かを待ち続けている』彼にとって、今の仕事は格好の暇つぶしであり、つい自暴自棄になる自分の気持ちを、幾分か紛らわせてくれる娯楽だったが……。



『――白猫が見つからないような気がしてきた』

 そんな自分は、百万年探し続けた猫、

 永久とわの時間を、探し続ける野良猫。

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