第2-1話

 部長の居成が前日から出張で不在な上、ぽっかりと仕事が暇になっていた。

 その上週末の金曜日とあって、フロアの空気は緩んだものになっていた。

 栗饅頭以降すっかり和菓子にはまった紅緒は、近々遠方に水菓子を食べにいく計画を立てていた。何度も脳内でくり返し経路を確認している。当然手元の仕事は疎かになっていた。

「如月くん、こちらどうぞ。また母からなんですが」

 箱を抱えた中川が、如月にちいさな菓子を手渡す。紅緒は全身を耳にしてそれを聞いていた。

「三嶋さんもどうぞ」

 紅緒にも寄越したそれは、ゆべしと書かれた個別包装の菓子だ。

「ありがとうございます」

 時々配られる和菓子は、彼女の母親から流れてくるものだった。取り寄せで買ってしまうが、全部は食べ切れない、とのこと。

 見知らぬ中川母の味覚に、紅緒は敬意を抱くようになっている。

「如月くん、怪談話って興味あります?」

 闇濡れ男に中川は笑顔を向けている。いまどきの可愛い子、という見た目で、さっさと如月もなびけばいいものを。

「ネットできさらぎ駅っていうのが有名で」

「きさらぎ駅?」

 自分とおなじ名だ、彼の声が訝しげなものになってもおかしくない。

「知ってます? 如月くん」

「いえ、駅とか電車は詳しくなくて」

「実在の電車じゃなくて、噂話です。どこにもないのに、たまに迷いこんじゃうひとがいるっていう駅」

「ああ、それで怪談話って」

「そうそう! そうなんです」

 彼女が説明するに、電車でうたた寝をしたタイミングで、実在しない駅にたどり着いてしまうのだという。駅名はきさらぎ駅、そんな駅など存在せず、手持ちの携帯電話でも現在地を割り出せなくなる。

「最初にそこに迷いこんだひとは、帰ってこられなかったって」

「じゃあどうして、きさらぎ駅のことをほかのひとが知って」

「きさらぎ駅に着いてから、相談所みたいなところに色々相談してたそうですよ。二十四時間誰かがいて話を聞いてくれるところが、ネットにあるんですって」

「それは便利ですね」

 興味の薄そうな如月の声を耳に、紅緒はゆべしの包みを開いてみる。ほのかに甘いかおりがして、ひとりでうなずく。

 中川母が選んだというだけで、すでに紅緒はこのゆべしが格別にうまいと信じていた。

「何人か迷いこむひとが出て、帰って来られたひともいるのかな、確か」

 あやふやだ。

 怪談話なら、べつにあやふやなところがあってもおかしくないだろう。

 紅緒はゆべしを一口かじり、独特の歯ごたえとやんわりとした甘みを堪能する。噛むと甘みが強くなっていき、おいしさから中川母に心底感謝した。

「で、興味のあるひとが集まって、きさらぎ駅にいかないかって企画があるんですよ」

「……実在しないんですよね、その駅。たまたまいける場所って印象の話でしたが」

 如月は心底興味のなさそうな声を出し、手元のゆべしの包みをはがしはじめた。

「ここじゃないか、って目星をつけたひとがいて、行こうって」

「大丈夫ですか? そのひと」

 どういう意味での大丈夫なのかわからないが、ゆべしを食べた如月は「おいしい」と小声でつぶやいていた。

「鉄道好きの方が発起人なんです。おもしろそうだし、どうかなって」

「ああ、お知り合いの立てた企画ですか」

「知ってるひとではないんです。でも、うちの石津さんたちと参加してみようかって話をしてて」

 広げたゆべしの包み紙をキーボードの横に置き、紅緒は石津を一瞥する。

 こちらもいまどきの可愛い子だ。しかし中川と石津はタイプが違う。中川はあまり化粧をしているように見せない化粧をするが、石津はきっちり化粧を見せてくる。

 どちらも毎日大変だろう。紅緒は感心していた。

「遠足みたいですね」

 如月は興味がわかないらしい。そんな声だ。

 インターネット上でその企画の告知があり、彼女は参加しようというのだ。どうにかなりたい相手を誘うには、ずいぶん色気がない。

 中川と石津をはじめ、総務のメンバーから現在五名で出かける予定だという。

 女性四人男性ひとり。

 早急にどうにかなろうというのではなく、一緒に出かける時間を取れたら、ということか。

 よりによって、企画開催は目前の明日だった。

 手元のファイルを広げようとした紅緒は、如月の視線を感じる。

「三嶋さんはどうですか? 電車とかに興味は」

「楽しそうですね」

 紅緒は笑顔を浮かべ、如月のとなりに立つ中川を見上げた。中川の目は笑っていない。

「よかったら後で写真見せてください。明日明後日と天気もいいみたいですから、楽しんできてくださいね――中川さん、ゆべしおいしかったです!」

「もちろんです、楽しみにしてて!」

 中川は満面の笑顔で了解してくれた。

 彼女はゆべしをさらにふたつくれて、紅緒は中川母だけでなく中川にも心から感謝したのだった。


        ●


 月曜日、すかすかのフロアで紅緒は働いていた。

 きさらぎ駅探索ツアーに出かけた面々が、全員欠勤した。

 ――ただひとり、如月以外は。

 昼休みになる前に、首をかしげながら居成部長がフロアに向かって口を開いた。

「誰か、今日休んだ連中からなにか聞いてないか?」

 先週末の中川たちの会話を、その場にいたものは全員聞いていた。全員の視線を受け如月は手を上げた。

「先週末なんですが、じつは声をかけられていて」

 そこで彼が説明したのは、みんなでどこかの駅にいこうと誘われた、というものだ。

 居成部長はさらに首をかしげる。

 そうするしかないだろうし、詳しく如月が説明してみても、目的地が怪談じみた場所なのだ。

 居成部長は顔をしかめていった。

「で、如月くんはいかなかったのか? その口振りだと」

「体調を悪くしたので、辞退したんです」

「どたキャンか。で、目的地はどこだっていってた? お化けの話はどうでもいいんだ」

「企画立ち上げの方と待ち合わせて、それから出かけるって話だったので……詳細は聞いてないんです。電車で遠方にいくようなことは、中川さんが話してましたが」

「おいおい……ずいぶん不用心だな。そんなのにホイホイついて出かけていくのか? 物盗りかなんかだったら危ないだろう」

 責める声ではなく、それはもう居成のひとりごとになっている。

 企画を楽しもうという本人たちがいないためか、確かにひたすら危ない話だ、と遠慮なく紅緒も思った。

 企画者が中川とどのていどの知り合いなのかわからないが、犯罪などに巻きこまれていないことを紅緒は祈っていた。もし彼女になにかあったら、中川母との縁も終わってしまう。

「……行き先が山かなんかだったら、へたすると遭難だってするもんなぁ」

 居成部長のつぶやきに、フロアの空気が重くなっていく。全員が欠勤し、誰とも連絡がつかない状況なのだ。

 それから一日、居成部長が欠席者たちに連絡を入れ続けたが、誰ともつながらなかった。

 その間に居成部長や欠席者たちの分の仕事もまわってきて、紅緒たちは残業になだれこんでいったのだった。



「まあアレですよ、帰ってこないですよ」

 十月も終わりに差しかかった夜の道で、如月がのんびりとつぶやいている。

「なにか知ってるんですか?」

 月曜日だというのに、残業後の倦怠感がひどい。

 二十二時を過ぎるまで残業するのは久々で、なによりその大半が資料やデータを探すことに費やされていた。

 同僚たちのパソコンのパスワードなどわからないし、問い合わせが来てもお手上げのものがほとんどだ。

 なかにはパスワードを付箋に書き、モニターに貼りつけているものもいる。普段は居成部長が叱りつけていたものだが、おかげで一部のデータは確認ができた――急ぎの確認が必要になりそのパスワードを使ったが、コンプライアンスについて後々つつかれたら面倒そうだ。

「すごいですよねぇ。実在しないはずの駅に、ぞろぞろ遊びにいっちゃったんですから」

 オフィスビル街の道にほかの通行人はなく、紅緒と如月の足音が反響している。そこに如月の明るい声が流れ、紅緒はいますぐ駆け出したくなっていた――如月のいない場所へ。

「……辞退したって」

「いやぁ、そんなの嘘に決まってるじゃないですか。みんな帰ってこられないのに、一緒にいってたなんて話したら、おかしいと思われるでしょう?」

 そのとおりだ。すでに紅緒はおかしいと思っている。

「みんなで帰ってきたらよかったんじゃ」

「そこまで俺は親切じゃないですよ」

 如月の顔を見つめる。

 闇濡れでずぶ濡れで、彼の表情は皆目見当がつかない。

「どうしてその話を……私に?」

「俺だけが帰ってきたっていうの、俺と三嶋さんだけの秘密ですよ」

 紅緒の知りたいこたえではなかった。

 彼がどんな表情を浮かべているかわからなかったが、そこにあるのはにやりと口元を歪めたものの気がする。

「なんでそんな」

「中川さんのこと気にしてたから。どうなったかだけでも、教えたほうがいいかと」

 確かに中川のことは気になっている。

 ちらりと、中川の訃報でもあったら中川母と対面することができるな、とも思った。

「みんな、無事で」

「最後に見たときは、無事でしたよ」

「みんな……生きてますか?」

 予想外の質問が自分自身の口から出ていった。

「たぶん、いまは」

「……生きてるうちに戻ってこられたりは」

「どうでしょう。そんなかんたんには死なないと思いますよ」

 興味のなさそうな声を聞いたとき、紅緒たちは会社の最寄り駅を目前にしていた。

 さすがに通行人の姿もあり、紅緒は口を閉ざしていた。

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