第1-3話

 目的地――石田屋に向かう前に、紅緒は周辺を散策してみることにした。

 そこははじめて訪れた土地であり、建ち並ぶ家屋は年季の入ったものが目立った。

 道はどれも緩やかな坂になっている。

 平らな道があると思うと、短い階段があちらこちらに現れた。坂を上るか階段を上るかの違いだ。いくつも上り下りすると、少々うんざりしてくる。どうりで見かけるのは電動自転車ばかりになるはずだ。

 どこの階段も、数えてみると十三段だった。

 いままで数えていなかったが、十三段というのは階段の段数としてメジャーなのかもしれない。

 遅めの昼食を行き当たった蕎麦屋で済ませ、紅緒はスマホで地図を確認する。太い道に沿って歩けば目指す石田屋に到着できそうだ。

 地図の上ではまっすぐな道でも、実際に歩くと坂と階段の入り交じったものになっている。石田屋が見えてきたときには、紅緒のひたいにうっすらと汗が浮かんでいた。

 店に入る前から、紅緒は口元をほころばせていた。

 ガラスの引き戸の向こう側に、栗饅頭が大量に売っている。

 看板商品とホームページで見ていたが、ばら売りから進物扱いのものまで取り揃えられていた。その光景は胸が躍るものだ。

「いらっしゃいませぇ」

 女性店員の高い声に出迎えられた紅緒は、すでに買うものを決めていた。

 ショーケース内で進物と書かれている箱を指差す。

「こちら二箱お願いします」

「お包みしますか?」

「はい」

 紅緒は即答する。誰かに進呈する予定はまったくないが、気に入ったお菓子を包んでもらうだけでもわくわくする。

 包んでもらう間、ショーケースでほかの商品を眺める。

 和菓子以外に洋菓子も鎮座していた。

 栗饅頭に一直線になっていたが、そちらも試してみたくなってくる。栗饅頭は二箱頼んでいた。全部ひとりで食べるつもりで、そのくらい気に入っていた。しかしここにきて栗と餡子どちらがうまかったのか、はっきりしなくなっていた。

「ほかはよろしいですかぁ?」

 進物を包んだ店員が、それを入れる紙袋を用意しながら尋ねてきた。

「あ、すみません、羊羹もひとつ……羊羹はそのままでいいです」

 とっさに目の前に展示されている羊羹を注文する。

「はぁい」

 進物のように包まなくていい、と頼んだつもりが、店員は羊羹をそのまま突き出してきた。

 間違っていない、確かにそのままだ。

 受け取り、紅緒はトートバッグに突っこんだ。羊羹の分トートバッグが重くなったのが嬉しい。

 栗饅頭二箱の入った紙袋は、受け取るとずっしりしていた。

 紅緒は上機嫌で店を後にする。

 部屋で延々と栗饅頭を食べられる。考えただけで楽しくなっていく。

 紅緒は往路とは違う道に入っていった。

 店を目指したときに見ていた地図では、どこをどう歩いても大通りにつながる。大通りに出たら、最寄りの沿線駅はすぐ――のはずだ。

 確か、そうだった――はずだ。

 スマホはトートバッグのなかで、片手は紙袋でふさがっている。地図の確認ができなくもないが、それほど複雑な道でもない――はずだ。

「……運動したら、もっとおいしくなりそう」

 迷ったら、引き返せばいい。

 緩い傾斜を上って足がだるくなったころ、道が下っていく。あちこちにある階段を上り、下り、そこでもまた段数を数えていた。

 どこの階段を上り下りしても十三段だ。

 上って下りて、上って下りて。

 十三階段が不吉なものだというなら、これだけ上り下りしている紅緒はどれだけの目に遭うのだろう。

「うわ、これはちょっと」

 目の前に立ちふさがる階段を見上げ、紅緒はすっかり温まっている胸を上下させた。勾配が急で、階段というより壁だ。普段だったら迂回路を探すようなものだった。

 しかしいまの紅緒には、栗饅頭と羊羹がある。

 上りはじめた紅緒は、数段で後悔していた。階段はまだまだ続き、建物でいうなら三階くらいの道のりだ。

 後悔しても紅緒はもう上りはじめている。

 ふと振り返って見下ろすと、地元のひとだろう通行人が続いていた。

 ワンピースを着たその女性は、すいすいと階段を上ってきていた。

 もう上りたくないだの休憩を入れているだの、軟弱だと思われないだろうか。

 意地になってきて、紅緒は階段を上っていく。休んだり速度を落とすのはいやだった。

 上りきったときには、紅緒の心臓はばくんばくんと激しく重く打ち、息は上がってしまっていた。

 あのひとはどうだろう――振り返ると、先ほどの女性の姿は見えなくなっていた。

 階段の途中、わきに入る細い道がある。そこを進んでいったのかもしれない。自分の荒い息で、その足音にまったく気がつかなかった。

「あー、もー」

 ほかにひとがいないとわかり、紅緒はその場で深呼吸をはじめる。

 深呼吸をくり返すうちに、汗の粒がひたいから流れていった。

 足の下には急な階段がある。数える。

「十三段」

 紅緒は袖口で汗をぬぐう。

「ここも十三段かぁ」

 あたりを見回すと、まだ奥に進めそうだった。

 家屋だけでなく、道の様子も荒れたものになってきている。古い印象がさらに強まった。坂と階段が交じり合った場所だ、なかなか改装や補修のための工事もできないのかもしれない。こんなに入り組んだ地形に重機をどうやって入れるのか、紅緒には想像できなかった。

 ところどころ剥がれた石畳を進む。

 雑草が亀裂から顔をのぞかせていたり、体重を乗せると足下の石が不安定に動いたりする。長い階段の先にある場所だからか、自転車などの移動用の乗り物を見かけない。置いてある物も、乗っている者も。

「このあたりに住んだら、足腰強くなりそう」

 ため息が出る。

 呼吸は整っているが、のどが渇き頭がぼんやりしてきていた。熱中症、という言葉が頭をよぎる。和菓子だけでなく、どこかで飲み物も購入しておけばよかった。

「自販……は、ないか」

 ほしいときに限って見当たらない。

 さらに足を動かすと、短い階段があった。その先は公園らしく、背の高い木々が日をさえぎっている。

 ――ベンチかなにかで休みたい。

 足も腰もだるかった。人目がないなら、公園のベンチで羊羹でも栗饅頭でもかじってしまいたい。

 もう階段を上るのが億劫だが、そこにあるものはたった五段だ。

「……いっち、にっ、さっん、しっ」

 数えながら、意識して足を動かす。重くてだるい。

「……あれ?」

 いま上った階段は、何段目だっただろう。

 わからなくなり、紅緒は爪先のかかっている石の段を凝視する。

 階段を上る前、目視で数えたときは五段だった。

 紅緒はそれを上った。

 とん、とん、とん、とん――では何段目だろう。

 紙袋の取っ手を強くにぎる。

 いーち、にー、さん、しー。

 数える。

 声が自分のものでない気がしたが、紅緒は目を閉じ耳をかたむけた。

 ――はーち、きゅーう、じゅーう。

 紅緒はひざを折っていく。

 かたい石にしゃがみこみ、きつくまぶたを閉じ、数のことを考える。

 聞かなくともわかっていた。

 この階段は十三段ある。

 視線を感じ、紅緒は目を開けた。

 まぶしい。

 いまは何時だったか。誰かが高いところからのぞきこんでいる。十三段目に立っているのだ。そこから手がのびてきて、紅緒の両肩とひたいと胸元と両膝をつかむ。

 つかみ、押してくる。

 ――じゅーいち、じゅーに。

「三嶋さん」

 背中にひどく冷たいものがふれ、紅緒ははっと我に返った。

「十三段どころか、五段からでも落ちたら死ぬことがあります。気をつけて」

 如月の声だ。

 背中にふれているのは、どうやら彼の手だ。染み入るように冷たい。凍えそうだ。

 それよりももっと冷たい色の目が、いくつもの目が、大小様々な目が、紅緒を見下ろしていた。

「落ちたら落としたくなるって、不思議なことですね」

 ちいさな子供の姿の輪郭を持ち、しかしたくさんの目とたくさんの手を持っているそれは、淀んだ声で「じゅーうさん」と囁いてきた。

 紅緒にふれているたくさんの手に力がこもる。紅緒を押している。階段から落とそうとしている。

 そうだ、ここの階段は五段であって、十三段もない。だが如月の言う通り、五段からでも打ち所が悪ければ死亡しかねない。

 じゅうさん。

 頭の後ろから、如月が低く笑う声がした。

「誰も落ちたりなんかしない」

 じゅうさん。

「おまえが落ちて、手本を見せてみるか」

 やぁだ。

 きりきりきりきり、と笑う声がしたかと思うと、そこにはもう紅緒を押すものはなにもいなかった。

 だが、その先に女が立っている。

「あ……」

 落ち着いた色味のワンピースを着た女がいる。

 あの女だ。

 会社のエレベーターで乗り合わせたことがある。スマホが壊れてしまったときの、時間の経過などがおかしくなってしまったときの。

「なんでここに」

 女はこちらを向いている。

 顔が見えているが、そこにある造作がわからない。目にした端から忘れている。

 紅緒は目を凝らした。

 肩と手から、荷物がすべり落ちていく。

 荷物に構わず、紅緒は女を見つめる。

 なんとしても女の顔を覚えておきたくなっていた。

 ついさっき、長い階段をあとから上ってきていた女性――いつの間にか姿を消していた。

 いまではあのときの女性は、目の前の女と同一人物のように思えてきていた。

 顔を覚えなければ、この先にもおなじことが起こるのではないか。

 それを防ぐためには、女がいつの間にか近くにいるなんてことが起こらないようにするには、せめて顔を覚えておかなければ。

 うっすらとした違和感を抱え首をひねる無為さに、紅緒はエレベーターでの出来事以来うんざりしていた。

 それを解消できるなら、端から忘れていく顔を覚えるくらいなんでもない。

「あ、羊羹だ。買ったんですね、ここの羊羹もおいしいって評判で」

 明るい如月の声が水を差す。

「そうなんですか?」

 紅緒の意識は逸れ、思わずそう尋ねていた。

 落ちたトートバッグの中身が、階段にぶちまけられている。買ったばかりの羊羹が転がり出て、そちらから視線を戻すと女は消えていた。

 女が立っていた場所の向こうが見えた。

 そこにあるのは墓地だった。

「……ええと」

 闇に濡れた顔に、紅緒はなにをいうか迷っていた。

「体調悪いんですか? 立ちくらみを起こしていたみたいですが」

 落ちた荷物を拾い、如月はトートバッグに入れてくれた。

 如月に背を押され、紅緒は抵抗せずそちらに足を進める。もう彼の手は冷たくない。爪先はなにごともなく階段の五段目を通り過ぎた。

「大丈夫です……なんで如月さんがここに?」

 肩越しに見上げた彼からは、やはり闇が滴っている。

「おなじです、目的」

 如月は石田屋の紙袋を見せてくる。紅緒のものよりずっとちいさい。もう一方の手に紅緒の荷物を持ってくれていて、慌ててそれを受け取る。

「すみません、荷物……」

「気にしないでください。昨日会社でお裾分けされたものがおいしかったので、買いにきたんですよ。そしたら目の前で三嶋さんも買い物してて驚きました」

 ――まさか店からついてきたのか。

 どう尋ねるか迷う紅緒の耳に、如月の低い笑い声が届く。

「ふらふらしてたから、ちょっと気になって」

 ゆるりとおたがいの足が動き、墓地に近づいていく。

 入り口の目印といっていいだろう石碑があり、そこに彫られた文字は風化して読めない。

 石碑を通過し墓地の敷地に入ると、簡素なベンチがあった。ちょうど木の影になっている。

 如月がそこに腰を下ろすので、紅緒も続いた。ベンチのとなりには水道設備とバケツなど、掃除道具が一式置かれている。

「あれって、いったい」

 如月の顎先らしきところから、闇がぼたりと落ちていく。墓地にしっくりくる姿だ。

「なにがです?」

 興味のなさそうな声だ。彼がどんな表情をしているのかわからない。

 紅緒はトートバッグから羊羹を取り出した。

「よかったら、食べますか?」

「いいんですか?」

 表情はわからないが、やけに嬉しそうな声がした。

 静かな墓地に向き合い、紅緒と如月は半分に割った羊羹をそれぞれかじる。

 おいしいが、やはり水分がほしかった。

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