第1-2話
社内の各部署が共通で使う書類は、そのほとんどが手書きで記入するようになっていた。
会議室の利用記録も同様だ。
「ネット使ってるんだから、まとめて管理したらいいのに」
五階の廊下で紅緒はつぶやく。
エレベーターホールに出してあるテーブルには、花の活けられた花瓶とクリップボードが置いてあった。
クリップボードには利用記録の用紙が何枚か留めてある。
応接室や会議室を利用するときは、用紙に記入する必要があった。電気代や消耗品の管理をするため、という名目ではじまったらしい。わざわざ足を運んで用紙を確認しなければ、目当ての時間に空室があるかわからない。とても不便だ。
週明けの会議室確保のため、紅緒はおつかいで総務を出てきている。
日付と用途と人数を書きこみ、三嶋のシャチハタハンコを押す。
そのかたわらを、エレベーターが動く鈍い音が響いていた。
上から下に降りていくのが、階数表示の明滅でわかる。
エレベーターの不調に行き会ってから、今日で三日が経っていた。
念のため管理部に問い合わせたが、最近エレベーターの不調は起きていないとのことだ。エレベーターに乗りこんできた女性がいたが、あの日応接室も会議室も利用記録は白紙になっている。
――だからなんだというのか。
ただひたすら紅緒は納得がいかない。
妙な時間を過ごした、と流してしまえるならいいが、起きてほしくないことが起きている。
紅緒のスマホが壊れてしまったのだ。
手にしていたクリップボードを戻し、紅緒はエレベーターの横にあるドアに足を向けた。
あの日来客があってもなくても、いまさらあのエレベーターでなにがあったのかはわからない。
事実として残っているのは、紅緒のスマホが壊れ、修理対象外の診断が下されたこと。
かかった費用は大きかった。
そして現在、あの日如月が買ってくれたコンビニのプライベートブランドのお菓子が、紅緒の机の引き出しにいくつか収まっている。
菓子を目にするたびに、紅緒はあのエレベーターでおかしな事態に遭遇したのだと思い出すことになった。
胸に残っている違和感にどう対処したらいいものか、そこを紅緒はつかみかねている。
自分以外は、なにも起きていないというのだ。
居合わせた如月に尋ねても、はぐらかされてしまう。
しつこく食い下がろうにも、彼と話をしようとすると、おなじフロアの女子社員がすぐ割りこんでくるのだ。如月を狙っている、と公言する中川という女性だ。
「明かり点いてても、へんに薄暗いよね」
足を踏み入れた階段――非常階段であるそこは、掃除もされて清潔だ。警備員もいる社用ビルのためか、外部から入りこんだ部外者が休憩していることもない。
壁の蛍光灯が煌々と光を放っているというのに、殺風景だからかやけに薄暗く感じる。
紅緒はあの一件があってから、エレベーターを使わなくなった。
階段を使って上り下りをしている。
もうあんな目に遭いたくない。
閉じこめられ、外部と連絡が取れない――それだけなら、ただのエレベーターの不調だ。
しかしこれまで圏外になった覚えのないスマホが紅緒も如月も不通になり、遠隔監視しているエレベーターの不調は記録になく、外部の来客の記録もない。
その上流れた時間もどこかに消えた。
紅緒はポケットのなかでスマホをにぎりしめる。
新品だ。
階段に足をかける。
おなじことが起こるとは思えないが、極力エレベーターには乗りたくなかった。
起こったとして、今度も違和感が残るだろうか。
誰かがおなじ目に遭ったとき、紅緒はどんな反応をするだろう。
おかしなことがあったね妙だねでも無事でよかった、といえるだろうか。
それのどこかおかしいの、とそんな言葉を返す可能性がある。結果として、異常はなにも残っていないからだ。
いやな経験だったのは確かで、エレベーターを前にすると胸がもやもやしてしまう。
「いーち、にー」
つぶやくように、紅緒は階段の段数を数えながら上ってみた。
総務部のある六階までの上り下り運動が増えただけで、紅緒の太腿やふくらはぎは筋肉痛になっていた。
痛みも胸のもやもやも吐き出すついでに、段数を数えていく。
「……へー」
上り切ってみれば、そこは十三段だった。十三段というだけで、不吉だと感じてしまう。
踊り場で身を反転させ、さらに上る。
無意識のうちに数え、そちらも十三段。
「十三って……絞首台の段数だっけ?」
死刑囚が刑を執行されるときに上る階段の段数――だったような気がする。
不吉なものとおなじだから、それもこれも不吉になる。
死者の出た家は不吉だし、事故の多い場所も不吉。穢れが残って淀んで忌まわしくなる。
よくわからないことが起きたエレベーターも、いまでは紅緒にとって不吉だった。
「残業したくないなぁ」
六階につながる扉を開け、紅緒はひとりごちる。
そのうちエレベーターに対するいやな気分も薄れ、いつか忘れていくだろう。そう思っているが、もごちゃごちゃ考えこんでしまいそうになる。
紅緒は眉間を揉み、自分の頭に向かって空になれ空になれと念じつつ、総務部のドアを開いた。
一瞬部内の視線が紅緒に向けられ、すぐに逸らされる。
「確保できました」
視線を逸らさなかったひとりに、紅緒は報告する。
「そう? おつかれさん」
部長の居成がうなずくのを見届け、紅緒は自分の席に戻った。
相変わらず闇に濡れている如月の視線を感じたが、実際のところはわからない。
彼のとなりの席に腰を下ろそうとすると、キーボードの前にお菓子が置いてあった。個別包装の菓子だ。
「中川さんからですよ」
となりから声がかかり、離れた席の中川春子に顔を向ける。
中川は口角を上げ紅緒を見ていた。
「ありがとうございます、いただきます」
彼女は如月とどうにかなりたい、と公言している。
如月のとなりの席のため、紅緒は頻繁に彼女の視線を感じていた。
仕事上の話であっても、如月と会話をすると彼女はじっとりとした目で見つめてくる。彼女は如月のとなりの席になりたいらしい。となりと離れた席、どちらのほうが如月の闇濡れを視界に入れなくて済むか。紅緒としてはそれが重要だった――となりのほうがましそうだ。
さっそく栗饅頭の包みを解く。
机の引き出しには、如月がくれたお菓子がしまったままだ。隙を見て、ドリンクサーバーなどがある共用スペースに置いてこようと思っていた。
そこにはご自由にどうぞ、という茶菓子入れが置いてあり、差し入れなどがあったらそこに入れるようになっていた。すると食べたいひとが食べてくれるのだ。
引き出しを開くたびに、如月からもらった菓子が目に入る。どうしても紅緒はエレベーターでの出来事を思い出してしまうのだ。
そんなきっかけは、排除したらいい――が、共用スペースには如月も立ち寄るようで、タイミングがつかめずにいる。
一口サイズといいがたい栗饅頭を、モニタから目を逸らさず口に放りこんだ。
手元の書類を片づけながら、紅緒は足下のゴミ箱に放った包み紙を確認した。石田屋という店名を目に焼きつける。
おいしい。
好みにあった味というのはおそろしいものだ。
紅緒は引き出しのお菓子を見ても、エレベーターを連想しなくなっていた。
ただ今度は頭から栗饅頭が離れてくれない。お裾分けされた栗饅頭をこんなに気に入ることがあるとは、出会いがどこにあるかわからないものだ。
順調に仕事を終わらせた紅緒は、定時を過ぎてすぐ如月が席を外したタイミングに腰を上げた。手伝えよ、という目線を部内から感じたが、言葉にしてこないのだから帰っても問題ないだろう。
更衣室でブラウスを脱ぎ、壁にかかっているカレンダーを見上げる。
金曜日とあってか、周囲で着替える女子社員たちの会話は弾んだものだった。仕事に対する愚痴を語る声が、いつもよりわずかに高い。週末の解放感のためかもしれなかった。
パンツとかかとの低いパンプスに履き替えるなり、紅緒はトートバッグをつかむようにしてロッカーを閉める。
「お先に失礼します」
おつかれさま、といくつかの声に会釈をし、紅緒はビルから小走りに出ていく。
帰りの電車に揺られ、紅緒はとなりと肩のぶつかりそうな混雑のなか、スマホで石田屋を検索する。
該当する店はすぐ見つかった。
栗饅頭が看板商品の和菓子屋で、紅緒がまだ足を運んだことのないエリアにある。
もう閉店している時間だが、定休日は火曜日だ。
――明日いってみようか。
混み合った電車から降りるころには、紅緒の週末の予定は決まっていた――たらふく栗饅頭を食べるのだ。
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