闇がしたたる 三千世界に怪異は嗤う
日野
第1-1話
エレベーターに同僚と閉じこめられてしまった。
「困りましたね」
彼の声は弱っているように聞こえたが、ほんとうにそう思っているのかわからない。
「外部と連絡取れたらいいんですけど……」
返事をせず、三嶋紅緒は操作盤の階数ボタンを連打する。
あれもこれもどれも押す。
反応がない。だから余計に連打する。息苦しくなってきた。ここから出してここから出して。
ボタンを押す力は次第に強くなっていき、指が第二関節からしなるように曲がりはじめていた。
それでも連打する。
「ちょっと三嶋さん、落ち着いて」
となりの彼が肩を叩いてくる。連打する速度を緩めるが、それでもボタンを押しこみ続けていた。
「なんとかならないですかね、なんていうか、その……なんていうか」
「落ち着いてください」
紅緒は彼を一瞥する。
「警備室もあるんですし、きっと大丈夫ですよ。なんだったら、ネットで外の様子でも――あれ、圏外ですね」
取り出したスマホに、彼が意外そうな声を上げた。
「圏外!?」
スマホの圏外表示など、目にしたことがない。緩んでいた連打の勢いが戻り、指が痛くなっていた。
「圏外って、圏外ですか!?」
「壊れたのかな、三嶋さんのはどうですか?」
紅緒もポケットからスマホを取り出す。一緒に入れていた飴の小袋がこぼれ落ちたが、床に落ちる前に彼がすくい取ってくれた。
「私のも圏外……」
スマホを掲げて左右に振り、拝むようにもしてみるが、アンテナ部分の表示が変わることがなかった。
その姿勢で紅緒はしゃがみこんだ。
「圏外なんて最近は話にも聞かないのに……様子を見たほうがよさそうですね」
そういって彼は紅緒が掲げているスマホの画面をのぞきこんできた。
そこにある黒い頭を、紅緒は上目遣いにする。
彼は黒く重たげなものを頭から被っている。どろどろと。ぬとぬとと。いつもそうだ。それはどこからともなく湧き続け、彼の肩から上をどっしりと濡らしていた。
その顎先から、ぼたりと黒いものが滴り落ちた。
しかしそれはスマホにも紅緒にも降りかからず、滴ってすぐにどこかに消えてしまっていた。
写真で見た彼は、好青年といってよかった。
好意を持たれやすい顔立ちだろう、なにせ特上に整っているのだから。
彼が微笑んでいる写真は、社内の交流会で撮られたものだった。
よその部署の女子社員にも出回っている、と聞いた。あいにく紅緒は美形の写真を眺めて楽しむ趣味がなく、ただ「ああこういう顔なのか」とため息を噛み殺しただけだ。
好青年――
紅緒はずっと如月の顔を知らなかった。
電気工事を請け負う一灯電社総務部に勤めはじめ、一年ほどが経っている。彼は同僚であり、紅緒のとなりの席にすわっていた。
わざわざとなりの席をのぞかずとも、彼の様子は視界のすみに入ってくる。
時々見える手指はどちらかというと長く、キーボードを叩く音は軽快だ。電話やほかの同僚とのやり取りの声を聞く限り、低くやさしく丁寧だ。仕事自体はどちらかというとはやく、周囲のミスにも気がつくので重用されている。
同僚として悪くないだろう。
だが入社日からずっと、紅緒は彼の顔を見られずにいた。
頭から黒く重たげなものを彼は被り続けている。
紅緒の目にそれは、ときにはねっとりとした血糊にも見えた。そうでないなら、闇や影が滴っているといっていい。
肩へと垂れていくそれは、いつも空中でかき消える。
出所のわからないその黒滴はつねに如月を濡らし、紅緒はできるだけそちらを見ないようにしている。
仕事上のことだけであっても、できるだけ関わり合いになりたくなかった。
とはいえ、彼にだけ冷たい対応を取るのは避けたい。そのため入社以来紅緒は、まんべんなく同僚たちにおなじ態度を取っていた。
総務部は総勢十二名で構成されている。
紅緒がつき合いの悪いタイプだと判断すると、誰も食い下がったり絡んだりしてこなかった。
――それなのに。
如月と閉じこめられたエレベーターでは、依然外部との連絡が取れないままになっていた。
一番いやな相手と、紅緒はさほど広くない個室に詰められている。
「俺か三嶋さんのスマホ、どっちかは電源切っておきませんか?」
「……なにかあったら、ってことですか?」
返事はない。
エレベーターの壁に背を預け並んで立っており、声に出してもらえないと困る――彼のほうを横目にしても、どろどろと黒く濡れているばかりだ。表情は読めない。
「用心しましょう」
如月がスマホの電源を切った。電源を落とす前に見えた時刻は、午後二時になるところだ。
手持ち無沙汰になったが、自分だけスマホをいじっているわけにもいかず、紅緒は制服のポケットにしまいこんだ。
こんなことなら、昼を食べに外出しなければよかった――気持ちが沈むことを考えはじめてしまう。後悔しかすることがない。
仕出し弁当のメニューが好みでなかったため、今日は注文しなかったのだ。
出かけた昼休み、食事をして戻った自社ビルの一階では、エレベーターがちょうどやってくるところだった。
運よくほかにひとはおらず、エレベーターの扉が開こうとしていた。
いつも出勤時や昼休みには混み合うエレベーターが空いていて、喜んで小走りになった紅緒はそこに乗りこんだのである。
――まさかそこに、如月が駆けこんでくるとは。
エレベーターが現在停止しているのは、十二階建てビルの三階と四階の間だ。
乗りこんだとき紅緒は、総務部のある六階いきのボタンを押していた。
ふたたびエレベーターが動作したとき、そこに向かっていくのだろうか。
「私も如月さんも戻ってないんですし、誰かがおかしいと思ってくれたらいいんですが」
「エレベーターも止まったままなら、遠隔監視システム……でしたっけ? なにかしら動きがあるはずですよね」
閉じこめられて、大体一時間が経過している。
たかが一時間、されど一時間。
トイレにでもいきたくなったら事だ。
紅緒はもう一度操作盤の前に立ち、ガチャガチャとボタンを押してみる。今度はでたらめに、あっちこっちに指を跳ねさせた。四階、二階、六階――適当すぎて、それ以降はどのボタンを押したかわからなかった。
「ああ、三嶋さん! そんないじらないで――」
どれかが反応したらいい、とそのていどの考えでの連打だ。
彼の手が肩をつかんできたため、紅緒はあきらめて操作盤から一歩下がる。
「もしも壊れたら……」
「壊れますかね? これ以上」
そういってしまってから、紅緒は気持ちが重くなる。
いま自分たちは壊れたエレベーターに乗っているかもしれない。
そもそも異常がなにもなかったら、エレベーターが停止することはないだろう。
さっさと救助なり復旧なりしてもらわなければ困る。
どう困るのか、そこは考えたくなかった。
エレベーターが微妙に振動した――どうやら動きはじめたようだ。
「動いた!」
紅緒は心の底からよろこんでいた。
ボタンをやたらに押したことが功を奏したのかどうかわからないが、とにかく出られるならそれでいい。
エレベーターが到着したのは十階だった。
「十階?」
そこは資料保管室のあるフロアで、紅緒は足を踏み入れたことのない階だ。
「……とにかく動いてよかったですね、三嶋さん」
適当にボタンを連打していたとき、多分十階のボタンも押していたのだろう。
「そうですね。残業したくないですから、はやく戻りましょう」
電灯のついていない暗い廊下を、紅緒はすばやく左右に見回した。利用者がいないからだろう、暗い廊下は冷え冷えとしている。
ここを訪れるものは、保管資料の詰まった段ボール抱えているものだけだ。いまは部の男性社員が請け負ってくれており、紅緒は未経験の雑務である。
ボタンをむやみやたらに連打していたことを思い出し、気を取り直すように紅緒は総務部のある六階のボタンに指を向けた。
「あっ」
間違えて、ひとつ下の五階のボタンを押してしまった。
「うわ、恥ずかしい……」
ごぅん、と低い音がした。
これまでに聞いたことがない音だ。
一時的とはいえ、エレベーターは動作しなくなっていたのだ。これがなにかの不具合をしめす音だったりしないか――紅緒はその場で耳をかたむけた。
すぐにエレベーターは五階に到着し、紅緒はほっと息を吐く。
「じゃあ、六階にいきましょうか」
肩越しに如月を一瞥していると、エレベーターの扉が開いた。
――女性が乗りこんできた。
落ち着いた色味のワンピースの女性だ。
十月に入ったいまの時期、上着もないと寒いだろう――そう思った紅緒のとなりに如月が進み出てきて、女性に向け頭をかたむけている。
知っている相手だろうか。彼の顔は闇濡れだし、女性は紅緒に背中を向けているのでどんな雰囲気なのかもわからない。少なくとも女性を社内で見かけたことがなかった。外部の人間で、五階の応接室を訪れていたのだろうか。
如月の指が一階へのボタンを押す。
エレベーターは動くようになっている。来客を帰すのを先にしてもかまわなかった。
紅緒はエレベーターの壁に背中を預けた。
なぜかエレベーターは下降しなかった。
――上へ。
声もなく、ぽかんと口を開けた紅緒たちを乗せ、エレベーターはあっという間に十階に着いた。
開いた扉の向こう、十階の表示がある。
女性はそこで降りていった。
扉が閉まるより先に、如月がボタンを押す。
今度も一階のボタンだ。
なんとなく、紅緒は無言でいた。
閉じた扉を見つめるうちに、エレベーターが止まる。
下降していた。
息を詰めていた紅緒の前で扉は開き、そこには見慣れた風景があった。
「降りましょうか」
如月にうながされるまま、エレベーターから降りる。
入れ替わりに乗りこんでいくのは、たくさんの社員たちだ。
見知った顔がエレベーターに吸いこまれ、扉が閉じた後のロビーは静かなものだ。
「……如月さん」
受付には案内の社員がすわっている。如月と紅緒を見るともなしに見ているのがわかった。如月の足が社外に向かう。紅緒はそれについて歩き、ビルを出るとふたりで近くのコンビニに向かっていった。
通りかかった飲食店の軒先にある時計の時間に、紅緒は驚いて足を止める。
まだ午後一時になっていない。
「えっ、うそっ」
制服のポケットに入れていたスマホを引っ張り出す。操作しようとした紅緒は、スマホの電源が落ちていることに気がついた。
「き、切ってたっけ……?」
如月が顔を近づけてくる。
「三嶋さん、なにか食べたいデザートありますか?」
「……は?」
電源ボタンを長押しする。じれったいほど反応がない。確かエレベーターで如月が電源を落としたとき、午後二時になっていたはずだった。
「俺、コンビニにいってきますね。三嶋さんとはここで――リクエストないなら、適当に選びますね」
なにをいってるんだこいつ、と思うのに、相手の表情がまったく読めない。闇濡れした顔からぼとぼととなにかが滴っていくだけだ。
「じゃ」
立ち去っていく背中を見送り、紅緒は道のはじにふらふらと寄っていく。
「……なにが?」
じわり、といやな汗をかいていた。
がっしりとスマホをにぎりしめ、紅緒は起きたことを反芻する。
――エレベーターの不調に巻きこまれた。
ひとに説明するなら、ただそれだけだ。
下の階にいくボタンを押したのに上にいったり、ボタンの操作を受けつけなかったり。
それだけのこと。
だが飲みこめない、引っかかるものを紅緒は感じていた。
「なにが」
時間の流れがおかしかったことなど、どうひとに説明したらいいのか。
――説明など、する必要はあるのだろうか。
紅緒は手元を見つめる。
ずっと電源ボタンを押しているのに、スマホはまったく反応しないままだった。
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