息子をかかえて、ベランダから月を見る。

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

息子をかかえて、ベランダから月を見る。

 ベランダの窓を見上げて、息子が指さした。

 夜の空に、月が光っている。十三日目の月か。

 きれいな月だった。


 息子はこのごろ、意思表示がずいぶんとはっきりしてきた。

 まだ言葉はしゃべらないけれど、興味のあるものに指をさして、声を出して訴えてくるし、気に入らないことがあればイヤイヤと首を振る。

 その息子が、空の月を指さしてしきりにアピールしてくる。

 月が、見たいらしい。


 息子を抱きかかえて、ベランダに出る。

 夜の空気はぬるい。

 それを不快に思う様子もなく、息子は空を指さして、月を見上げる。

 それから、ベランダの外の街並みも。


 景色は別に、とりたてて変わったものがあるわけではない。

 ただ夜の、明かりのついたビルがあったり、道路を車が走っていったり、帰る人たちの声が時々聞こえたり、そんな程度のものだった。

 月は確かに、きれいだったけれど。


 そんな月を、息子はじっと見ていた。

 そして街並みも、じっと見ていた。


 息子をずっと抱きかかえながら、何かおもしろい? と問いかけてみたり、あれはビルだよ、明かりのついているところに人が住んでいるよ、などと説明してみたりした。

 息子は、じっと景色を見ていた。


 長時間のだっこは、さすがに疲れる。

 そろそろ中に戻ろうかと声をかけると、息子はイヤイヤと首を振って、月を指さしてくる。

 仕方なくもう少しその場にいて、それでもやっぱり疲れるので戻ろうとすると、息子はやっぱりイヤイヤとして、月を指さす。

 そんな繰り返しで、私たちはずっとベランダにいた。

 息子は、じっと月と、景色を見ていた。


 景色を見る息子の顔を、私は見た。

 息子の顔は、真剣だった。

 こちらにまったく目を向けることもなく、ただじっと、景色を見ていた。

 真剣で、目は輝いていた。

 その目の輝きに、私の目が吸い込まれてしまうほどに。


 考えてみれば、息子にとって、あの空の月も、このありふれた夜の街並みも、見慣れない新鮮なものなのだろう。

 こうして今見ている景色は、息子にとって、いまだ見慣れない新鮮な世界なのだ。

 その世界を、息子は今一生懸命に、取り込んでいる。


 ああ。

 息子は今、世界に触れているんだ。


 じんわりと、涙がにじんできた。

 息子がこうして景色をながめて、それを取り込んで、息子の中の世界が、今まさに形作られている。

 そんなちっぽけな、けれど世界創造にも等しいような壮大で奇跡的なものが、息子の中で行われている。

 それを私の腕が支えて、そのきらめきの一端が、私が今見ているこの息子の目の輝きなのだ。

 腕の中できっと起こっているのであろう世界変革のスパークに思いをはせて、それが私の目をにじませた。


 十数分は、そこにいた。

 真剣に景色を見ていた息子の目は、だんだんうつらうつらとしてきて、やがて私の胸に頭を預けて、眠ってしまった。




 今日こうして見たことを、将来息子は覚えていないのかもしれない。

 けれどこの日見た景色が、あの目の輝きが、将来の息子の世界をがっちりと構築していくのだろう。

 そう、思いをはせる。

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息子をかかえて、ベランダから月を見る。 雨蕗空何(あまぶき・くうか) @k_icker

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