第2話
久霧が翌朝、起きると歌月も同じく目が覚めた。
地上に降りてからも人の気配などには敏感だ。歌月に掛かれば、遠見も可能と言えた。彼女の異能はそれだけではなかったが。
「……ああ、目が覚めたか」
「はい」
「もう少し、寝ていなさい。私はもう行く」
久霧が自身の居所に戻ると聞いて、歌月は人知れずため息をつく。やっと、開放される。そう思いながらも寝台から出た。
「まだ暑いとはいえ、体に障る。寝台にいたら良い」
「わかりました」
「ではな」
久霧は一度は名残惜しげに振り返るが、そのまま行ってしまう。歌月はやっと憎き男が去ると本当の意味で体から力が抜けた。さて、今日は久霧への呪詛でも作ろうか。邪な考えが浮かんでしまう。が、それでは月へは帰れなくなる。次の満月まで待たなくては。歌月は考えを巡らせた。
この日から、歌月は少しずつ準備を始めた。まずは羽衣に
歌月の様子がおかしい事は胡月も気がついていたが。見て見ぬ振りをしていた。歌月が月に、天上に帰りたがっていた事は以前から知っている。なら、そのようにしたら良いと思う。主の好きにしたら胡月はそれで構わなかった。ただ、残された子らが気がかりだが。まあ、もしもの事があったら。自身が育てようか。胡月は秘かに決めたのだった。
少しずつ、月は満ちていく。羽衣をこっそりと歌月は修繕していた。百もの草鞋は既に埋めてある。後は筍を植えて、成長を待つだけだ。歌月はうっそりと笑う。
「……歌月様」
「あら、胡月。何かあったの?」
「月へお帰りになる、つもりですか?」
胡月が小声で尋ねると、歌月は目を見開いた。何故、わかったのかと思ったらしい。胡月は苦笑いする。
「わかります、歌月様のお顔を見ていれば」
「あら、そんなに嬉しそうにしていた?」
「はい」
頷くと、歌月は少女のように笑った。その表情に見入ってしまう。
「それは嬉しいわ、やっと。故郷に帰れるのだもの」
「……そうですか」
「胡月、誰にも言わないでね。特にあの男には。でないと、止められてしまうから」
歌月はそう言って口元に指を持っていく。胡月は真一文字に口を結ぶと、頷いた。
月が完全に満ちた。歌月はやっと、この時が来たと歓喜に心は満ちる。
一人で静かに庭に出ると、帯を解きながら池に近づく。しゅるりと帯が落ちると袖から腕を抜いた。ぱさりと地面に衣が落ちた。下に着ていた襦袢もだ。肌着類も脱いでしまう。一糸まとわぬ姿になると、池の中に一歩ずつ入った。久しぶりの冷たさに声が出そうになるが、我慢する。歌月はパシャリと水浴びを始めた。しばらくそうしてから、上がる。
水気をろくに拭かずにあらかじめ、近くに置いていた羽衣を手に取った。袖を通すと月光に照らされながら、歌月の白い裸体が映し出される。羽織り、帯を締めた。簪を手に取り、器用にくるくると一纏めにして最後に挿す。領巾を肩から腕に掛けた。歌月は最後に筍を植えるために草鞋を埋めた場所に向かう。
(……ここだったわね)
両手を汚しながら、ちょっとずつ穴を掘った。しばらくして筍を掘った中に入れて土を掛けていく。やっと、全てが整う。歌月はさあと晴れた空を見上げた。そこには見事は満月が輝いている。その月の光を受けて、筍がちょっとずつ伸びた。歌月は自身の腰の丈までくると両手で若竹を掴んだ。足も掛けるとぐんとそれは伸びていく。どこまでも伸び、歌月は空高くまで昇っていった。
胡月は主が部屋にいない事に気がついた。障子戸を開けても、そこは既にもぬけの殻だ。ようやく、歌月が天上に戻れたのだと合点がいく。
(ああ、良かった。歌月様は戻れたのか)
ほうと息をついた。が、問題は残された王子達だ。久霧が手元に置くだろうか。仕方ない、自身が引き取って養育する他はなかろう。胡月はそう算段をつけるのだった。
王妃がいなくなったとの報を受けた久霧は、直ちに方方を探させた。が、どこにも王妃たる歌月の姿はなかった。王城の庭には、ただ何者かが埋めたらしい夥しい数の草鞋が見つかる。歌月がいたはずの部屋には、一通の文と一つの壺が残されていた。
<君の名を 知らるることも
なくてとは 思ひしことも
懐かしきかな>
意味は(あなたの名前を知っていた事も、もうなくなりますけど。思っていた事も今となっては懐かしい限りです)という感じだろうか。裏の意味は(あなたの名前も忘れてしまうでしょうけど。ただ、今となっては懐かしく思われます)となる。また、歌の脇には(これは不老不死の薬を入れておきました。飲みたければどうぞ)とも書かれていた。
久霧は「こんな物があっても、忌まわしいだけだ。海に捨ててしまえ」と言った。仕方なく、部下は海に不老不死の薬を捨てに行く。
久霧は、後に寝付いてしまう。彼は先の正妃の風津姫が生んだ姫に王位を譲った。珍しい女王の誕生になる。
こうして、歌月が生んだ子らは侍女の胡月が秘かに引き取り、育てた。歌月はどうなったのかは誰にも知る由もない。そう、歴史書には記してあるようだ。
――完――
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