水は天上に昇りて

入江 涼子

第1話

   とある国に女がいた。


  その女は異能を持っていたが。国の王は女を手元に置きたがっていた。が、女はそれを嫌がる。王は逃げようとまでした事に怒り狂い、女を捕まえて地下牢に閉じ込めてしまう。半年もの間、閉じ込められてやっと女は王城に仕えると言った。

 王はそれを聞いて喜んだ。彼には正妃がいたが。その正妃を無理に離縁してしまう。王城から追い出して新たに女を妃にする。そうして二年程が経った。


 女――歌月かげつは正妃の部屋にてため息をついた。王――久霧ひさぎが彼女を正妃に迎えてから二年だ。かつての先代の正妃は名を風津ふつ姫といい、娘を二人程生んでいた。歌月も息子を二人生み、今も懐妊中だ。現在は四月になっている。


「……歌月様、お加減はいかがでしょうか?」


「特に、可もなく不可もなくと言った感じかしら」


「左用ですか、なら。夕餉を少しは召し上がってください」


 歌月付きの侍女である胡月うづきは心配げな表情で言った。胡月も歌月と同じく、異能持ちだ。つまりは同じ一族の出身と言える。


「胡月、私が食事をとらなくても平気なのは知っているでしょう。むしろ、地上の食物は害にしかならないわ」


「確かに存じています、あなたが本当は月神だという事は。けど、御子のためにも少しは召し上がらないと。周囲から怪しまれます」


「……それはそうね、わかった。肉などはいらないけど。果物くらいは食べてみるわ」


 歌月が答えると、胡月はやっと安堵の表情に変わった。嬉々として、お膳にあった白桃の小皿を主人に手渡す。歌月は仕方ないと思いながらも受け取る。白桃を黒文字で切り分けて、口に運ぶ。じゅわっと広がる甘酸っぱい果汁に柔らかな果肉がたまらない。なかなかに美味だ。歌月はこれに気を良くして、小皿にある白桃を食べきった。


「うん、美味しいわね」


「お口に合ったようで良かったです、歌月様」


「そうね、桃は穢れを払う効果もあるから。お腹の子には丁度良いかもしれないわ」


 歌月はそう言いながら、黒文字を置いた。胡月も彼女がこれ以上は食べないとわかっている。残った食事はそのまま、下げた。胡月が部屋を出ていくと歌月はまた、ため息をつく。


(早く月に帰りたいわ、久霧に囚われてから。もう、二十年ね。長い時間が経ったわ)


 歌月は独りごちながら、部屋から出た。廊下に出ると夜空を見上げる。そこには満月が浮かんでいた。眺めながら、腹を撫でたのだった。


 夕餉を済ませて、胡月に手伝われながら湯浴みをした。今宵は久霧のお渡りがある。と言っても、夫婦の営みはしない。懐妊している以上、医師からも出産が終わるまではと厳命されている。髪などを洗い、香油を塗り込まれた。仕上げに薄化粧を施して、寝間着を身に纏う。髪を法術で乾かすと身支度は完了だ。


「では、歌月様。何かありましたらお呼びください」


「ええ」


「失礼致します」


 胡月は深々とお辞儀をしてから、部屋を差っていく。障子戸が閉まると人の気配は無きも同然だ。歌月は静かに夫である久霧の訪れを待った。


 半刻くらい経って、やっと久霧が三人程の家来を連れてやってくる。歌月は内心で胸を撫で下ろす。このまま、来ないのではと思っていたからだ。久霧は歌月の寝室に足を踏み入れると家来達に声をかける。


「そなたらはこのまま、退出したらいい。人払いを頼むぞ」


「「「はっ、御意に」」」


 家来達は一斉に一礼すると、退出していく。人の気配が遠ざかると久霧は障子戸を閉めた。


「やっと、二人きりになれたな。変わりはないか?」


「……ええ、胎子はらごも元気ですわ。私も」


「そうか、良かった。ここ十日間はずっと、歌月とは会えずじまいだったからな。心配でたまらなかった」


 国の王である久霧は、日々多忙を極める。歌月もそれはわかっていた。まあ、彼が来ない方が彼女としてはかえって有り難くはあるが。


「それにしても、歌月。そなたと出会って二十年は経つが。一向に変わらぬな」


「……そうでしょうか」


「ああ、そなたと初めて会ったのは私がまだ、八歳の時だったな。あの頃が懐かしいよ」


 歌月は仄かに笑う。確かに人の身である久霧は一年に一歳ずつ、年を取っていく。が、歌月は十五年に一歳ずつ年を取る。地上に降りて彼に囚われてからもそれは変わらない。歌月にしてみれば、人の生涯など一瞬と言っても相違なかった。


「久霧様、私が月に帰ったら。どうなさいますか?」


「なっ、そなたがか?!」


「はい、もう月に帰りたくなりました故」


 歌月が笑顔で頷くと、久霧は目を見開いたままで固まる。と思ったら、いきなり彼女の体を強く抱きしめた。その手は哀れな程に震えている。


「……歌月、私を置いて行かないでくれ!そなたを喪ったら、生きる価値もなくなる!」


「……久霧様」


「どうして、そんな事を言うのだ。とうとう、地上が嫌になったか」


 なかなかにこの男は聡い。内心で歌月は舌打ちをしたくなった。この男のせいで、自身は月神から徒人ただびとに堕ちたのだ。どうしてくれようか、歌月は秘かに考えを巡らせる。何だったら、久霧を弑してしまおうか。けど、吾子らの手前、それは避けた方が良い。


「久霧様、今日はもう寝ましょう。お疲れでしょうから」


「そうだな、歌月」


 歌月はにっこりと笑みを浮かべながら、久霧を寝台に導く。憎しみや恨みの刃を巧みに隠しながら。いずれは、久霧に報復をと彼女は目論むのだった。

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