第22話

 殿下の執務室の補修に携わった職人曰く、戸棚脇の壁には鋭いもので人為的にヒビを入れたような形跡があったらしい。更にその補修に携わった日雇いの職人が、昨日から姿を見せていない。その職人がタイプライター入れ替えの実行犯だろうと、今は行方を追っている。


「相手の執務室も、今回の補修範囲に入っているはずだ。タイプライターが証拠となることを考えれば、『私のはありません』は避けたいところだからな」

「職人は、日雇いの男が『日雇いにしては手がきれいだったから覚えている』と。こういう仕事を転々としている者の手は、もっとガサついているそうで」


 イワンの報告を、皆が各自のメモに書き込む。殿下の起訴はもう免れない。起訴されてしまったら、検察部はもう「責める側」だ。エメリヤはその先頭となって検事席に着くことになる。


「誰かの侍者が行った可能性があるな。その辺りも含めて探ってくれ」

「はい!」


 エメリヤの指示に、イワンは良い返事をした。それじゃあほかに、とエメリヤが視線を滑らせた時、ドアの向こうが騒がしくなる。なんだ、とエメリヤが尋ねると同時にドアが開いて現れたのは、セルゲイと未来の側近達だった。


「殺人の嫌疑を掛けられる我が叔父を、聖女が救おうとしていると聞いて来た」


 一人前の口を利いて私の前まで進み出ると、まるで軍人のように敬礼をする。成人後は軍への配属を希望していると、ここ数日の聞き取りで知った。好んで軍に行く者を上に立たせるべきなのか、不安は尽きない。


「初めまして、聖女オリナ。お噂はかねがね伺っています。母にはあなたが悪魔に見えるらしいが」


 外交問題にまで発展した問題をやすやすと口にするセルゲイに、私だけではなく検察部が凍る。笑い話ではないと、分かっているのか。


「これほど美しいなら、悪魔でも構わないと思わないか?」


 冗談めかして笑いながら振り向くと、家来のように連れた三人も笑う。こんな連中に国の未来を預けるのかと思うと、暗澹とするしかない。


「失礼、聖女オリナ。私はこれでもあなたを、いえ正確にはお祖父様とそのご子息を尊敬しているのです。偉大なるカリュニシンの血を。ああ、先程申し上げた『ご子息』とは、今どこぞの席に座っているナルキッソスではない、内乱の中で見事に命を散らした」

「セルゲイ皇子殿下」


 遮った私に、セルゲイはびくりとして黙る。

 本来ならば皇族の言葉を遮るなど許されないが、聖女として聞くに堪えない言葉を最後まで聞く必要はない。一歩前に進み出た私に、セルゲイは不安げな表情を浮かべた。


「ご挨拶が遅れました、オリナ・カリュニシンでございます。お目に掛かれましたことは光栄に存じますが、私達『大人は』仕事中なのです。皇子殿下なればこそ、誰の手本ともなれるようなお振る舞いを見せていただかなくてはなりません。でなければ」


 言い返そうとしたセルゲイを強めた言葉で黙らせ、じっと見据える。身長は、私の方がまだ少し高い。間近でこの瞳に見下されるのは威圧感があるだろう。


「いずれは『我ら』がまた、国土を血に染めることになりかねません。あなたのお命も、脅かされることになるでしょう」


 声を低くして続けた言葉に、セルゲイが唾を飲んだのが分かった。


「どうか、国を背負い民を導く覚悟と矜持をお持ちくださいませ。私達一人一人にあなたと同じ命があることを、お忘れなきように」


 頭を下げると同時に解けた威圧に、セルゲイは踵を返して逃げるように部屋を出て行く。


「これで皇后とは親友だな」


 背後から聞こえた久し振りの皮肉に、眉を顰めて振り向いた。


「まあ、よく言ってくれた。あの小さな暴君に一矢報いた人間を見たのは初めてだ。正直、スッとした」


 エメリヤが続けた感想に、周囲の空気が緩む。笑みを浮かべて頷く捜査官達に、ようやく受け入れられたような気がした。


「あの、質問よろしいでしょうか」

 解れた空気の中で、恐縮した表情でブラトが手を挙げる。


「さきほど皇子殿下が『ナルキッソス』と。おそらく法務長官のことだと思うのですが……西方の古代花のことなら、頭文字は『N』ですよね?」


 当たり前のように聞き流していた言葉に、固まる。そうか、N。名前でないのなら、通称や仇名だ。


「おい、今すぐあのバカ皇子を連れ戻せ!」

 指示を出したエメリヤに、すぐさま捜査官達が駆け出していく。


「清い口だこと」

 私が苦笑すると、鼻で笑った。


 それにしても、「ナルキッソス」か。ツァナフでは見ることのない、西方に古代からある花だ。確か、名の由来も古代の逸話にあったはず。湖に映した自身の姿が美しくて見つめ続けているうちに花になってしまった、だったか。カリュニシンらしい色を持たない叔父を皮肉ってつけたものかもしれない。


 叔父とウルミナに接点は見えないし、叔父には殿下を失脚させる理由もない。でもそれは、ありえないと思っているからかもしれない。でも「もし叔父が犯人なら」、午前一時頃の無実を証明する相手を準備しているはずだ。浮かんだキリムの笑顔を打ち消し、溜め息をついた。

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