第11話
「あいにく、私はウルミナに手紙を出したことはない。ふらりと窓から忍び込むのが好きだからな」
「恋人と鉢合わせしたことは?」
「なかった。気配があれば近寄らないから、相手まで確認したことはない」
軽く手を払い、ソファへ凭れて腕組みをする。さっきより険しい表情になった理由は察せた。
「申し訳ありませんが、殿下のタイプライターを確認してもよろしいでしょうか」
「ああ、構わない。調べてくれ。ただ、どこにあったか。もう長いこと使っていないからな」
ネストルが小さく唸った時、ブラトと侍者が戻って来る。
「ああ、いいところに戻って来た。私のタイプライターはどこだ」
「タイプライターでございますか。それなら、こちらに」
侍者はブラトから離れて颯爽と壁際へ向かい、足場の脇にある観音開きの収納を恭しく開けた。
「そちらへ持って」
「ああいや、それはこちらがします」
初めて口を開いたイワンは侍者に駆け寄り、タイプライターをテーブルへと運んだ。
「じゃあ早速、あの文面を打ちましょうか」
イワンは侍者から紙を受け取り、タイプライターにセットする。
「インクリボンは?」
「いつでもお使いいただけるよう、セットしてございます」
「いつ変更しました?」
「手入れを行う毎に変えておりますので、一月前でございます」
侍者の答えに頷き、イワンは手早く打ち込んであの文面を再現する。できました、と引き出した紙に残るものは、私が取り出した現物と完全に一致していた。「N」の滲みまで同じだ。
「完全に一致しましたね」
「侍従は昨晩、〇時頃に殿下がお休みになっているのを確かめて下がっています」
イワンの推察とブラトの報告に頷き、手紙からネストルへと視線をやる。表情が、呆然としたものへと変わっていた。
「オリナ、私は殺していない。私ではない」
「殿下、その辺りを含めた詳しいお話をお聞きしたいので、検察部までご同行願います」
私が口を開くより早く、ブラトがネストルに同行を願う。願いと言いつつ、ネストルに拒否権はない要求だ。
ネストルは腹立たしげな溜め息をつき、腰を上げる。私も、腰を上げた。
「私は嵌められたようだ、オリナ。私が失脚して歓喜の声を上げる者を探ってくれ」
ネストルは抑えた声で私に告げ、促すブラトに従い廊下へと向かう。イワンもタイプライターを抱え、私に会釈をしてそのあとについて行った。
昨晩のアリバイはなく、犯人像と同じ魔力量で、ウルミナと関係があったと証言されて、自身も認めた。そして執務室のタイプライターで打った文章も、完全に一致した。十分な証拠は揃っている。でも。
「殿下は、御自身に疑いが掛かるのは分かっていらっしゃった。でも、タイプライターの話を持ち出した途端に困惑なさった。証拠と一致してると示して、呆然と。犯人の芝居にしては、下手だと思わない?」
私の気掛かりに、傍で控えていた兄が頷く。
「殿下が全て事実を話してらっしゃったのなら、恋人もNなんだろう」
「リストアップされた人物も確かめたいし、エメリヤ検事正に報告しましょう。あちらの話も聞かなくては」
無事に聞き出せたか心配ではあるが、私が行くよりは多くを掴んでいるはずだ。でも、まだ情報が足りない。「ネストルが犯人でない」のなら。
「ここ一年ほどの間に執務室へ出入りした方の名簿は作成できますか」
尋ねた私に、侍者がはっとした様子で沈んだ顔をもたげる。縋るような視線が、予想外の事態を告げていた。信じられないことなのだろう。
「報告などで定期的に足を運ばれる方の名簿であれば、問題なく」
「それで構いません。早急に作成して、私の元まで届くようにしてください」
「はい、早急に」
然りと頷いた侍者に頷き返す。ついでに、気になることは聞いておいた方がいいだろう。
「最近、殿下はタイプライターをお使いになりましたか?」
「いえ、長らく拝見しておりません。殿下は筆跡の美しさを好まれる方ですので。ですから……ああ、そうです。懇意になさっていた御婦人方なら、お手紙を受け取られたことがあるはず。お手元に、その証拠があるのではないでしょうか。私も、いくつかお名前を覚えております!」
ふさわしくない早口で訴える侍者に、兄と顔を見合わす。
秘された恋の噂は、噂だから許されるものだ。相手も独身なら問題はないが、既婚者ならそうはいかない。妻の不貞は法で裁かれずとも、教義的には許されないものだ。夫の不貞に言及がないのは、男達が教義を作ったからだろう。
ウルミナは、教会にとっては「悪しき女の見本」として存在していた。だから礼拝に足を運べず、聖下の言葉も受けられなかった。ひっそりと通い、私やほかの者達の祈りを受けるしかなかったのだ。葬儀も教会では行えないし、神にも迎え入れてはもらえない。
それを知っている女性達が、ネストルとの関係を認めて受け取った手紙を見せてくれるとは思えない。当然、うまくいっていると見せ掛けている夫婦関係にもヒビが入る。
「聞いておくか?」
「そうね。もしかしたら、匿名なら協力してくださるかもしれない。私は聞かない方が良いですから、リストを書いて見えないように渡してください」
私が知れば、見逃すわけにはいかなくなってしまう。侍者はすぐに、懐からメモとペンを取り出した。
匿名の証言や証拠は裁判には採用されないが、「ウルミナだけがタイプライター」のおかしさの裏づけにはなる。採用されなくても、調べる価値はあるだろう。
「殿下にとってウルミナ様は、どのような存在だったのでしょう。哀れに思えて慰めていたとおっしゃいましたが。恋人がほかにいると知って嫉妬なさっていた、などは?」
「いえ、そのようなことは。そのとおり、お慰めになっていただけでしょう」
「意中の方は、いらっしゃいませんでしたか?」
続けた問いに侍者はペンを止め、老いた表情になんとも言えない寂しげな笑みを浮かべた。
「ええ、いらっしゃいません」
胸の痛みを収めるように答えて視線を伏せ、再びペンを走らせる。
「殿下は決して、人を殺めるようなことはなさいません」
「内乱を忘れたか?」
鋭い声で返した兄に、次は噤む。
平和だと、もう二度と血など流れないと信じたいのだろう。でも残念ながら、平和とはそれほど強固なものではない。何かあればすぐに崩れ落ちる、脆くて弱いものだ。
「相応の状況と理由さえあれば、人はいくらでも残酷になれるものだ。私は、オリナのためなら全て殺せる」
「お兄様」
窘めた私に、兄は小さく鼻を鳴らす。萎縮した侍者に詫び、部屋をあとにした。
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