6-61



 武蔵は日本の航空会社に入社し、研修期間を経て星間線のパイロットとなった。

 当初配置されたのは、地球圏内の小型機路線であった。

 月面都市やコロニー、あるいは地球内を弾道飛行で飛び交う旅客輸送線である。

 武蔵は元々その手のライセンスの下位互換を取得していたこともあり、業務事態はすぐに慣れた。

 しかし思った以上に苦労したのは、生活リズムが無茶苦茶なことであった。

 こればかりはどれだけ競技レーサーとして経験を積んだ武蔵としても不慣れな要素であった。飛ぶタイミングが事前に決まっているエアレーサーは数日前から体調を整えられるが、民間パイロットはその時間の定義が根本的に狂う。

 日付変更線を飛び越えることなど四六時中。自転速度時速1500キロ以上で飛べば時間が止まることもあるし、コロニーごとに標準時刻は異なっている。

 相対性理論云々が関わっておらずとも、時間は狂うのだ。

 まったくアテにならない機内時刻を見るたびに、武蔵は宇宙生物の力がなくとも時間なんて曖昧なものだと感慨を抱いていた。

 そんな仕事を数年した後、次に配属されたのは惑星間線であった。

 これはパイロットとしての花形、まさにエリート路線。

 パイロットとしての枠組みでこれ以上の格上となると、教導隊や曲芸飛行チーム、政府専用機のパイロット、そして―――星間飛行士くらいだろう。

 未だ人類が未到達な小惑星帯の向こう側を探索する、21世紀の冒険者。応募要項は経験問わずとはいえ、やはり長年の惑星間航行経験は評価対象となる。

 武蔵も知識としては知っていたが、惑星間の航行は地球圏とはまた違う大変さがあった。

 人類の生活圏は太陽系の主要な惑星全体に広がっているが、それでも他の惑星に向かうのは一大事だ。

 その難易度は21世紀初頭に海外移住するより高く、いわば大航海時代にヨーロッパの人間が新大陸に引っ越すような決意を必要とする。

 行ったら戻ってこれない。あるいは、人生でも往復するのは何度か。そのくらいの心意気で渡るものなのだ。

 そんな長距離航行をする宇宙船は、最早飛行機というより文字通りの船に近い。

 月と地球を行き来する小型機とは訳が違う。あらゆる生活の為の設備を詰め込んだ、全長数百メートルの客船。それが、武蔵の就職先であった。

 例として上げれば地球と火星の往復船。両惑星の距離はおよそ5500万キロと言われているが、これは惑星探査機を送り込むのに適したタイミング、最接近時の距離だ。

 双方共に動いているので距離は大きく変動する。最も離れているタイミングでは、両者の距離は4億キロに達してしまう。

 単純な距離では7倍だが、更に公転軌道の都合で逃げる火星を宇宙船が追いかける形となれば、惑星間航行は1年近くにすら及んでしまうこともあるのだ。

 ……もっともこれは最悪のタイミングの話であり、それでも惑星の最接近を待つよりは速く到着するので、常に地球と火星間には宇宙船が飛び交っているのだが。

 一度出発すれば、年単位で戻ってこれない。帰る度に子供が大きくなっているのは浦島太郎気分だった。


「曰く、女の子が父親と遊んでくれるのは10歳までだそうだ」


「何それ?」


 久々に再会した時雨と、武蔵は我が子との交流について話し合っていた。


「女の子は学校の同性同士で遊ぶようになるから、10年のリミットが終了したら交流を諦めろってことらしい。俺やばい。今度出港したらもうタイムリミット尽きるヤバい」


「武蔵はそれ以前の問題でしょ。この前、お父さんじゃなくて、おじさんって呼ばれてたじゃない。マジウケる」


「ウケるな」


 ケラケラと笑う時雨。

 まったく笑えない武蔵であった。


「抱き上げたら防犯ブザー鳴らされたぞ」


「警戒心があって結構じゃない」


「防犯ブザーって簡単に止められるんだな。意味なくないかアレ」


「そこは技術屋のお父さんがなんとかしてくれるでしょ」


「ブザーの音をカバティのキャントにしておいた」


「そこは携帯端末の着信音とかにしなさいよ。幼女のキャントは不自然極まりないわよ」


「大音量の着信音なんて不自然だろ。カバティカバティは口が閉じてても不自然じゃない」


「ルール違反じゃない」


 二人の娘が元気に走り回り、カバティカバティと楽しげに連呼する。

 時雨は武蔵にげんこつを落とした。


「変なこと教えるな!」


「変とはなんだ。立派な世界的競技だぞ」


「おじさん、お母さんと喧嘩してるのー?」


 娘に問われ、武蔵は答える。


「違うぞ娘よ。これはツンデレだ」


「つんでれ?」


「お母さんはいい歳して、ツンデレが抜けないんだ。ツンデレが許されるのは高校生までだというのに、まったく困ったものだ」


「困ってるの?」


「そうだ。お前は好きな奴が居てもツンツンしちゃ駄目だぞ。ツンツンしていいのは好きじゃないやつだけだ」


「またアンタは変なことを教えて……」


「ふーん」


 娘は武蔵をツンツンした。

 娘は武蔵を好きではないらしい。

 武蔵は項垂れた。


「ねえ。今更だけど、アンタ的には、娘と息子どっちが良かったの?」


「息子なんて可愛いわけないだろう。娘一択だ」


「世の中の男の子達に謝りなさい。っていうか、アンタだってかつては男の子だったでしょうに」


「だからこそ判ることもある。男の子なんて動物だ。本能で動く二本足の猿だ」


「酷いいいようね。次の子、男の子だって病院で言われたわよ」


 武蔵は時雨の身体を見た。

 スタイルに変化は見られないが、どうやらそういうことらしい。


「なんてこった、タイミング的に出産時には俺は宇宙だぞ」


「甲斐性ないお父さんで困っちゃいますねぇー。駄目お父さんですよー?」


「うぐっ……」


 なにせ武蔵は、第一子の産後に出張中だったという前科持ちである。

 あらゆる誹りを受けても仕方がない立場であった。


「……判った。育児休暇取る。今度の育児には参加する」


「あら。前の時は普通に飛んでったのに、どういう風の吹き回し?」


「前回とは状況が違う。お前は男児の面倒くささを理解していない」


「そこまで違うもの?」


「かつて男の子だった俺が言うんだから間違いない。男児は猿だ。いや、犬だ」


「問題発言」


「そうだな。犬は利口だから、犬に失礼だ。小さな男の子はバグったマイクロマウスだ。合理性もなにもない」


「せめて生物に例えなさいよ」


 なぜ武蔵がそこまで言うのか、時雨は数年後に理解することとなる。


「でもいいの? 育児休暇取ったら出世が遅れるっていうじゃない」


「さすがに今の時代、それを理由に出世が滞ったら訴訟ものだ。それに、別に星間飛行士は今の会社内の出世でなるものじゃない。なろうと思えば自分の意思ですぐに応募も出来る」


「しないの?」


 武蔵は言葉選びに迷い、答えた。


「ちょっと考えがあってな。今は別のことを勉強してたいんだ」


「別のことって?」


「それこそ、アビオニクスとかもだな」


「あらま、私の仕事?」


 武蔵がいない間、時雨は彼女の得意分野であるアビオニクス系のエンジニアとなり猛威を奮っていた。

 飛行機の電子部品、アビオニクス。その開発にはとにかく金がかかる。

 飛行機は最早単独で飛ぶ機械ではない。地上管制や他機との連携をリアルタイムで行い、様々なシチュエーションに対応するプログラミングを一切のバグなしに果たさねばならない。

 現実問題としてバグなしなど不可能なのだが、それでも空中で機能停止など笑い話にもならないのだ。

 そんな事情もあり、航空機開発においてハードよりソフトの方が金がかかる。

 時雨のようなプログラマーとして突出した能力を持つ人間は、企業にとって手放せない存在なのだ。

 ―――恐ろしいことに経営側がそれを理解せず、手放してしまうことなどよくあることなのだが。


「いっそ転職して、お前の下に付いて勉強するのもいいかもしれない」


「えーっ? いやよ、武蔵が部下なんて。やりにくいったらありゃしないじゃない」







「―――はい。コーヒー、煎れたわよ」


「ああ、ありがとう」


 二人で購入した、それなりの大きさの一軒家。

 庭に出した白いテーブルでのんびりとしていた武蔵は、コーヒーカップを2つ持ちやってきた時雨を迎え入れた。


「どっちが俺のだ?」


「こっち。これは砂糖入った私の分よ」


「んじゃもらうぞ」


 武蔵はカップを啜る。

 お互い予定がない時は、彼らはこうやって時間を過ごしていた。

 世界の情勢は安定している。

 人類の歴史とは戦争の歴史であるというが、それでも平和な時代もあった。

 それにちょうど当たったことは、彼らにとって幸福なことだったのだろう。

 子供達も学生となり、巣立ってしまい、武蔵達はまた二人になった。

 テロメア伸長措置もあり姿の変わらない二人だが、その間には既に気を置けない空気しかない。

 夫婦とは、親子より長い時間を共に過ごすのだ。

 二人は確かに幸せを感じていた。甘く、暖かく、緩やかな幸せを。


「私、武蔵と一緒で幸せだった」


 有り余る貯金もあり、余暇を過ごす二人は青空を見渡す。

 いつまでも美しい時雨は、武蔵の隣でそう囁いた。


「……ずっと、ずっと、二人でいようね」


 木漏れ日の降りる楽園の中、武蔵は答える。


「そうか。でも、俺はやっぱりハーレムが欲しい」


 時雨の顔が凍りつく。


「これは記憶とか夢じゃない。お前が意図的に作り出した、仮想現実だろう」


 ベンチに座り、時雨の座る場所にハンカチを敷き、武蔵は座るように促す。

 時雨は悲壮な顔で、被告人のように武蔵の隣に座った。


「芸のないやつだ。前も同じことやってただろ」


 時雨がいやいやと首を振る。


「武蔵は、この数十年間幸せじゃなかった?」


「幸せだったよ。これが、時雨の理想の幸せなんだな」


「そう。これでいいでしょ? 私はこれがいいの」


「やだやだ。ハーレムしたい。酒池肉林しーたーいー!」


「おばか! 人類は基本的に一夫一婦なの!」


「今回の人生で確信した! 俺はハーレム出来る程度には稼げる男だ!」


「あー赤貧人生にすべきだった! 小さな石鹸カタカタ鳴る人生にすべきだった!」


 時雨の言動が武蔵と似てきているのは、夫婦というものはそういうものなのである。


「アンタ、ハーレムを実現したとして、あの子達にお母さんが何人もいる理由説明出来るの?」


「きっと偉大なお父さんに尊敬の目を向けるだろう」


「言っとくけどあの子に『お父さん嫌いキモい臭い』がなかったのは私の慈悲なんだからね。実際は思春期の娘からしたら男親なんて毛虫以下なんだから」


「つまり親父はやがて蝶になるんだな」


「蛾よ」


 がよ。

 武蔵はこれほど残酷な2文字を知らない。

 時雨はベンチの背もたれにのけぞり、セルフ・アークの空を見上げる。


「武蔵は本当にあんな世界がいいの? 宇宙怪獣がいて、地球が滅亡して、武蔵がハーレムとか言い出すあんな世界が」


「現実逃避したって仕方がないだろう。現実はどこまでも追い掛けてくる」


「せっかく、せっかく70年分も世界を作ったのに。頑張って作ったのに」


「どうりで、作り込みが甘いと思ったんだ」


「いつから気付いてたの?」


「初日から」


 時雨はぎょっと武蔵を見た。

 武蔵は初日から時雨の意図を疑っていながら、70年も茶番に付き合っていたのだ。


「初日って、中学校の時よね。どんなミスをしたっていうのよ」


「お前、現実ではフライ・バイ・ワイヤって技術を知らなかっただろ。けど記憶世界のお前はアビオニクスの知識が一通りあるみたいだった。いきなり矛盾してやがる」


 無論、それだけで確信は得られなかった。

 なにせ記憶世界だ。多少記憶が前後していても不思議ではない。

 しかし、ハーレムの女性達がそれとなく武蔵から離れていくあたりで確信した。


「ちょっとわざとらし過ぎる。お前はお前として意識があった上で、中学校からのやり直しをしていたんだろう」


「それに70年も付き合う武蔵も、どうかと思けどね?」


 火星の宇宙コロニーでも月面基地でも、武蔵は文化の多様性をというものを感じなかった。

 国際化が進む21世紀、文化は世界規模で平均化されているとはいえ、さすがに変化がなさすぎである。

 武蔵と時雨の知識の限界、見識の限界。知らないものは知らないのだ。


「すっかり武蔵も、この世界に馴染んだと思ったんだけどなあ」


「知らずにいれば、確かにヤバかっただろうな」


「星間飛行士の夢を諦めたのも、そのせい?」


「俺は夢を諦めていないからな。この狂った世界を脱出した時には、改めて何かしらの方法で外宇宙を目指す。この記憶世界で下手に経験を積んだら、かえって間違った知識を得てしまう気がした」


 実は武蔵はこの人生において、工学系からは距離を置いていた。

 学んできたのはあくまで情報系、あるいは数学に関する知識ばかりである。

 武蔵達の記憶を前提に構築された世界なので、数学系については信用出来ても工学系については間違った情報を学んでしまうという危惧があった。

 武蔵は記憶世界で学校の授業を受けるにあたり、違和感を感じたことはなかった。

 これは異常なことだ。学んでいない学問が記憶世界にあるはずがない。

 武蔵がそれに気が付いたのは、記憶世界で初めて帰宅した時だ。

 武蔵は自宅の詳細までを把握していない。

 人間の記憶は曖昧だ。あえて覚えていようとしない限り、自分の住んでいる家でさえ寸法や小物の配置を寸分の狂いなく覚えているはずがない。

 しかし記憶世界の武蔵の家は、彼の記憶と照らし合わせてもまったく違和感がなかった。

 可能性は2つ。

 武蔵の記憶から仔細を抽出し、過去の事象を高精度で再現したか。

 あるいは、厳密に検証すれば穴だらけな再現なのだが、武蔵がその不完全な世界観をリアルに感じているだけなのか。

 武蔵の見解としては当人すら思い出せない曖昧な記憶を、なんとかして高解像化していると考えている。

 それくらい出来なければ、過去の人格の再現など出来ないと考えるからだ。

 となれば武蔵が学ぶ多くの未知の学問も、かつて武蔵がどこかで見た記憶の片隅に残っていた数式などが流用されているかもしれない。

 しれない、が―――流石に、そんな曖昧なソースを元に勉学に励む気にはなれなかった。

 どれだけ無理矢理記憶を抽出したところで、世界一つを再現することなど出来るはずがない。

 必ず、曖昧なままでリアルに感じているだけの部分があるのだ。

 武蔵は大学に通ったことはない。武蔵達が通った大学は、二人のイメージの大学像だ。

 時雨は出産経験はない。彼女の出産の痛みは、彼女の想像の産物だ。

 この世界に終焉を齎すバグがない、なんてことはない。

 バグは無数にある。

 ただ、それに気付けないように出来ていたのだ。


「やってくれたな、時雨」


 つまるところ。

 武蔵が時雨の精神に介入しようとしていたように、時雨もまた武蔵に洗脳を仕掛けていたのだ。


「記憶世界の登場人物、俺とお前以外の第三者は俺達の記憶を元に構築されていた。お前がよく知らない立場の人間についてはほぼ俺の記憶ベースによる再現だっただろう。そんな現象があったからこそ、お前の人格形成も俺の記憶が影響していると考えた。実際お前の言動は中学生の頃とはちょっと違う気がしたからな」


「だがその割に、お前から俺に対する影響がなかった。気付けなかったわけではない、間違いなく干渉がなかった。不自然なほどに。それはつまり、何かしらの制御が行われていたということだ。そんなことが出来るとすれば、この世界の管理人以外にない」


「お前は、最初から現状を理解していたと考えるべきだ」


「武蔵ってほんと、アレだよね」


「なんだよアレって」


「私が何度独占しようとしても、ハーレム願望を無くさないんだもん。生粋の変態よ」


 その物言いに、武蔵は違和感を覚える。


「何度も、ってのはなんだ? 俺を独占する為にお前が色々施策していたのは知っているが……」


 言ってて恥ずかしくなってきた武蔵であるが、次の言葉に彼は愕然とした。


「武蔵が私の記憶に入り込んだの、今回が初めてじゃないでしょ?」


「―――そうだ。それは、確かにそうだが」


 武蔵はこれまで、何度もダメ元で記憶世界への突入を行っている。

 その度に精神崩壊で話が終わっているが―――時雨としては、また違う見解があったのだ。


「何度もあの手この手で武蔵を独占しようと、人生を繰り返したんだ。私達以外の全てが滅んだ地球をベースにした人生、第三次世界大戦が起きた歴史の人生、色々やってみたけど、どの半生でも武蔵はハーレム願望をしてなかったし、最後は世界を否定した。今みたいに」


 そうっと、音もなくすり寄る時雨。

 その瞳には、何百年分も武蔵を籠絡し続けた老獪さすらある。


「最後に聞くけど、本当にあの世界がいいの? 人類100億人が死んで、終わることのない輪廻に囚われた袋小路の世界が」


「ああ。俺は、あっちがいい」


 思考が伸びていく。

 劣化したテープのように、境界線もなく薄まっていく。

 せめてもの抵抗に時雨から視線を話さずに、武蔵は言った。


「いばらをかき分けてここまで来たぞ。目を覚ませ、俺の眠り姫」

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