6-58
2044年、初夏。
武蔵自身すっかり忘れていたが、この時期武蔵には性格形成に関わる大きな出来事があった。
武蔵の兄の死である。
「そんな大事なことを忘れるなよ」と言いたいところであろうが、ご容赦願いたい。
この男、実はそれなりにお兄ちゃんっ子であった。
甘え慕うような可愛げのある性格ではないものの、武蔵の行動は基本兄をトレースしてきたものである。
彼の兄は優秀な人間であった。
武蔵が秀才ならば、兄は天才だ。
武蔵と同等の空戦理論を掌握した上で、アリアのような小手先の操縦技術の巧みさを持っている。
パイロットとしては現時点の武蔵より更に格上。同じ条件で真っ向勝負すれば勝ち目はない。
学業文武で空への情熱は武蔵のようなまがい物ではない。あらゆる面において武蔵の上位互換。
武蔵がかつて中学の部活動に不満を覚えたのは、こういう前例を知っていたからでもあった。
そんな男だというのに―――武蔵の兄は、訓練飛行中にあっさり死んだ。
空を飛ぶ為に産まれたきたかのような空の天才が、あまりに簡単に死んだ。
純粋な事故とは言い難いが、それは問題ではない。
コンプレックスの対象、人生の目標、歳が離れた実兄。
彼の死は武蔵をそれなりに動揺させ、それは最終的に空部引退まで決意させた。
まごうことなき転換点。人生のターニングポイント。
分水嶺は常にあまりに唐突に現れる。
人生に、伏線などという気の利いた予兆はない。
これは武蔵が特別だったわけではない。肉親が死んでいながら話題に上げないのは信濃も同様。
影響が小さかったから話題に上がらなかったわけではない。
あまりに大きな出来事であったが故に、人生が狂い、そして早々になかったことにしてしまっていた。
人が一人いなくなるというのは、それほどに慌ただしいのである。
―――そんな出来事を訃報の連絡を受けた時点でようやく思い出し、武蔵は愕然としたのだ。
大和武蔵という男、合理主義を突き詰め過ぎたクズである。
家族の死の乗り越え方は人によって色々あるであろうが、武蔵は「どうせ影響はないから今後はいなかったものとして扱おう」程度の処理をしていた。
高校に入ってからの波乱の生活あたりまでは脳裏の片隅に残っていたが、そしてループに突入しての苦労の日々により、記憶は忘却の彼方である。
……話を武蔵の人格形成に戻すとしよう。
中学3年生の武蔵は、兄の悲報を聞き強く動揺した。
絶対不敗という人生の大前提が崩れたのだ。根幹が揺らいだと言っていい。
人間、上を目指す間は楽なのだ。
上がいなくなり周囲に誰も居なくなった時、人は初めて孤独になる。
そうなれば、あとは空を衝動的に目指すしかなかった。
―――元より、彼が追い掛けていた兄の影すら幻影なのだ。
故人を誹謗するような言いようになるが、今となれば武蔵にも判る。
かつての武蔵は兄を過大評価していた。
子供には大人が万能人間に見えるように、実際は色々と苦労していたであろう兄も武蔵には完璧人間に見えていた。
蜃気楼の完璧人間が更に死んで最強となった。
そんなものを追い掛けていては、人間壊れてしまう。
影に追い付けるほどの溢れる才気があればあるいはかもしれないが、武蔵は凡人だ。
大和武蔵という人間は作られた天才、幼少期よりの英才教育によって形成されたタイプに過ぎない。
英才教育といえば聞こえはいいが、努力と才能は別次元の話である。
実のところ幼い頃より一貫して続けていたスポーツの優位、それが崩れるのが中学、高校の時期となる。
これまで何千時間と費やしてきた努力を、初心者として入ってきた部員が凌駕する。
史実にて時雨が武蔵に勝利したのも、この一環と言えよう。
つまり早く競技を始めた優位など、純然な才能には敵わないのだ。
武蔵は比較的に早くコレを自覚し対策していた。
彼固有の域まで作り込まれた一撃離脱戦法。これを現在のエアレースのルール上で凌駕するのはかなり困難。
競技者として最強の領域に踏み込んだそれは、しかし武蔵の限界を定めてもいた。
最強であることもまた、彼に閉塞感を感じさせていたのだ。
兄という目標。
伸び悩む実力。
時雨という素人に負けたという現実。
多方面的に追い詰められた武蔵は、無茶な訓練の末に時雨を負傷させるというミスを犯す。
これをきっかけに恋人関係であった彼女とも距離が生まれ、そして武蔵はエアレースから身を引いたのだ。
そんなかつての自身を思い出し、彼は思う。
「友達にはなりたくないタイプ過ぎる」
武蔵は高校の見学に来ていた。
時雨についても懸案事項は絶えない。兄の死をすっかり忘れていた自身の薄情さにも自己嫌悪がハイケイデンスな昨今だ。
更に学生らしい凡庸な悩みもある。進路希望とか。
この点については、前々から疑問があった。
時雨が武蔵のプライベートな情報や、進学先として選ばなかった雷間高校について知っているはずがない。
だというのに、武蔵は記憶世界において自分の家の中が正しく構築されていることを確認していた。
極秘に入手したお宝本の存在が、当時の時雨に露見していたとは思いたくない。
想像の域を出ないが、これは武蔵の記憶を元に補完、構築されていると思われる。
その確認にとまだ雷間高校空部の部長ではない足柄妙子に会いに行ったのだが、彼女は普通に高校生として在学していた。
空部の見学という名目であったが、彼女はマネージャーとして一人で部室船にいた。
この時点では更に高学年の、武蔵が顔を合わせたことがない先輩がいたはずなのだ。
そも、マネージャーしかいない部活動が成り立つはずがない。
しかし妙子はその点に違和感を感じている様子もなく、初対面であるはずの武蔵にそれなりの付き合いがあるような親しげな態度でお茶を出してくれた。
彼女は天然のようでいて、それなりに計算高い。美人として評判だからこそ、男子との接触には距離感を測るタイプだ。
そんな妙子が、武蔵には自然な笑みで接してくる。
完全に、武蔵の認識から生み出された妙子であった。
……その割に、流れで告白したら流れで振られたわけだが。
「ということは、今の時雨もやっぱり俺の認識に引きずられている部分があるのか?」
それはそれで目的に即しているのだが、だとすれば逆も考えられてしまう。
つまり、時雨の記憶に武蔵の精神が引っ張られかねないのだ。
しかし武蔵が検証した限り、それらしい違和感はない。
自分の変化に自分で気付けないのは道理だが、客観的に検証してもそれらしい齟齬は生じていない。
武蔵は時雨から自分に対する干渉はないと、暫定的に考えることにした。
その仮定が正しいのならば―――
「徒労だな」
武蔵から時雨への影響も、また考え直さねばならない。
武蔵は疲れを感じ始めていた。
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