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『2143年12月23日』






 子供が風呂に飛び込むように、秋津洲は北緯20度のほぼ赤道上に墜落した。

 それは、それこそバスタブのお湯が溢れるような様であった。海水が盛大に波となり、周囲へと波紋を押し出す。

 浮遊機関の生み出す張力が海を不自然にささくれ立て、見かけ上の排水量が増えていく。

 喫水が規定の高さまで伸びたところで、浮遊機関はようやくアイドリング状態に移行した。


「総員配置に付け。浸水がないか、その他不具合がないかチェックしろ」


「はっ!」


 気密区画から逃げるように出ていく船員達。

 もし浸水があれば早速沈むので、浮遊機関はまだ停止しきっていないのだ。

 のっそりと移動を開始する多聞丸を始めとしたブリッジクルー。

 武蔵達パイロットは仕事もないので、とりあえず飛行隊待機室へと移動することにした。


「空気が美味い」


 武蔵は宇宙服を脱ぎ、甲板に出て大きく深呼吸する。

 学生時代を含めても、地球の海など久方ぶりであった。

 天然の潮風は、成分としてはセルフ・アークのそれと同一であるはずなのに、どこか有機的な有難味がある。

 ラジオ体操のように何度も深呼吸をしていると、背後からアリアが蹴りを入れてきた。


「大和空尉、さっさと移動するのです」


「了解」


 気の抜けた叱られて然るべき行動だったので、甘んじて武蔵は怒られる。

 飛行隊待機室に入れば、そこではどこかそわそわした飛行隊の面々が長椅子に腰掛けていた。


「アリア先任、これからどうなるんです?」


「天空の橋立に入港したら船の点検があるはずなのです。その間は我々は待機なのです」


 武蔵ははめ殺しにされた窓から外を見た。

 宇宙まで伸びた、長い、あまりに長いワイヤー。

 人類最大の建築物たる、軌道エレベーターがちょうど見える。


「全長3万8千キロメートル、文句なしの世界一だ」


「大半がただのワイヤーなのです。太くて丈夫な紐を建築物と主張するのは苦しいと思うのです」


「世界2位の建築物である万里の長城だって、場所によっては石を積み上げただけだからどっこいどっこいでしょう」


 ちなみに万里の長城は2万1千キロメートル。

 軌道エレベーターと比べて3分の2しかないと切り捨てるべきか、古代文明が現代工学の3分の2まで迫ったことを称えるべきか悩ましいところである。

 さて、ところで軌道エレベーターはある種の『港』である。

 単純に物資を宇宙に上げ下げする装置ではなく、それに付随する税関設備や宿泊施設など、様々な機能が融合した巨大建築物だ。

 宇宙に伸びるワイヤーの出発点は巨大メガフロートなっており、その上には多くの建物が建っている。

 ようするに、天空の橋立の外見は巨大な塔を中心に据えたほぼ真円状の島なのだ。


「数少ない、現存する地上の……いや海上の人類の拠点か。街とかもあるんですよね?」


「その中途半端な敬語超ウザイのです……まあ隊員の余暇を過ごす為の店とかも多いのです。大半が民間人ですよ」


「色街とかありそう」


「性病になるからやめとけなのです」


 あれま、と武蔵は肩を竦める。

 抗生物質の技術は失われてはいないが、だからといって病気になれば軽率な行動に叱責を受けること請け合いだ。


「それに、楽しいだけの場所じゃないのです」


 そういうアリア。

 だが、その次の言葉は続くことはなかった。


「まあ、色気のないアリア先任には居心地の悪い場所でしょうね」


 あえて空気を読まなかった武蔵は、ぎろりとアリアに睨まれて降参と言わんばかりに両手を上げるのであった。








『2143年12月25日』







 軍隊における仕事とは何か。

 訓練。実戦。災害の多い国ならば、被災地の救助任務も連想しやすい。

 だが、彼等の本質は違う。

 『移動』と『待機』。それこそが、軍隊の過半を占める要素なのだ。

 軍人はひたすらに歩く。とにかく行進する。移動、移動、移動。

 一般に勘違いされがちだが、機動力という言葉は運動性能を示すものではない。

 『砦を攻めるには3倍の兵力を要する』と言われるように、地形とは戦力比率すら大きく狂わせる要因となる。

 だからこそ、互いに優位となる地を求める。それは敵の上方であったり、風上であったり、それこそ砦であったり。

 相手を出し抜き、より迅速に優位なポジションを得る。その為の能力全般を『機動力』と呼ぶのだ。

 そして、待機。これもまた、ただ待つだけ、というほど優しい作業ではない。

 人間は生きている。生きていれば、生活せねばならない。

 必要な時間寝なければ判断力が落ちるし、屈強な身体を維持するにはそれだけのカロリーを摂取しなければならない。

 食えば出る物も出るし、身体を清潔に保たねば病気にならずとも体力が落ちる。

 兵士を準備したところで、24時間の中で戦える時間などたかが知れている。

 だが敵はこちらの時間など気にしてはくれない。体調や健康状態など考慮しない。

 非常事態に対応出来る兵士を待機させるのは、かなりの重労働なのである。


「かつて軍隊の必需品であった馬が廃止されて自動車やバイクになったのも、この辺が理由だな。生き物は管理が面倒臭い」


 未だ出番の巡ってこない飛行隊は、上陸に向けての喧騒の中でなお、暇を持て余していた。

 飛行隊待機室、なぜか扶桑野を始めとした他の面子は出払っていたので、武蔵とアリアは人目を気にすることもなく気軽に話をする。

 アリアは揺れる船内において、なぜかトランプタワーを建築していた。


「いえ、そもそも車やバイクは馬より優れているじゃないですか。馬はどんなに頑張っても60キロ、自動車は100キロとか普通に出るのです」


「いや高速道路でもなければ100キロなんて出さないだろ。あと馬の速度をサラブレッドの最高速度を基準にするな。長時間60キロで走れる馬なんていねーよ」


「ならばなおのこと、やはり自動車の方が高性能では?」


「初期の自動車なんて軽自動車以下のお粗末なものだ。悪路ではアンダーパワー気味になるし、動物と比べて小回りも効かない。ぶっちゃけ車両採用時は『馬の方がいいだろ』って意見は根強かった」


 初期の車両の低スペックさを差し引いても、維持の容易さは軍隊においては重要な性能であった。

 そうやって軍馬は徐々に車両へと置き換わっていき、性能向上もあって機械車両の優位は揺るがざるものとなったのだ。


「馬は騎士の友、っていうのも納得だ。いつでも実戦可能な状態に馬を維持する労力なんて、考えたくもない」


「あれ、私達、何の話をしていたんでしたっけ」


「休暇だ。休暇はいいが、何やって過ごそうかって相談だ」


 休暇というか、半舷上陸が許されたのだ。


「そうでした。武蔵、一緒に出かけますか?」


「なんだ? クリスマスデートのお誘いか?」


「ぶふっ」


「おいなんで笑った」


 アリアは吹き出し、7段のトランプタワーは倒壊したのであった。







 半舷上陸はんげんじょうりく

 船が停泊した際に、乗員の半数を当直として残し、もう半数に陸上での休暇を与えることを言う。

 海に出れば気の休まることのない海軍において、遥か昔から行われてきた休暇方式だ。

 当然ながら軍艦が寄港するような土地は世界的にも限定されており、そういった港は各国の海軍軍人達に金を落とさせる為に歓楽街が形成されることが多い。

 町は金を得られるし、軍人は航海中に溜まった金を使える。Win-Winである。

 経済的には軍艦側の国が一方的に損をしているのだが、それはさておいて、とにかく沖ノ鳥島においても軍人向けの歓楽街が存在するという話である。


「えっちな店だ! えっちな店に行くんだ!」


「おっ? おっ? おっ? 大和空尉そういうのに興味あるんでっか? しゃーない、わいが連れてって差し上げますわ」


「うむ! 頼むぞ扶桑野准空尉」


 男達がアホな予定を画策していると、それに待ったをかけたのはアリアであった。


「待つのです。大和空尉、貴方には用事があるのです」


「自分に用事、ですか?」


「貴方には、私と共にある場所へ向かってもらうのです」


 ふむ、と1つ頷く武蔵。

 まさか本気でデートですか? とからかうのは不敬になってしまうので、武蔵は態度で示すこそにした。

 赤面し、指先を自分の口に当て、そそくさとわざとらしく視線をそらす。

 女子がやればあざとい仕草だが、男がやってもキモいだけであった。

 だが、その意図は伝わる。


「ちょ、武蔵、変な勘違いをしないで下さい!」


「アリア先任……職務中は名前呼びはしない約束であります」


 しれっと自分は公私混同していない、お前は何色ボケてんだと指摘する。

 武蔵もちゃっかりファーストネーム呼びだが、少なくともアリアはスルーしてしまった。


「し、視察なのです! 変なことを言わないで下さい!」


「はい、視察ですね。判ってます、判ってますから」


「そいやっ!」


 これ以上話していてもからかわれるだけ。そう察したアリアは、ひねり込みアッパーを武蔵に打ち込んだ。


「ほげっ」


 暴力系ヒロインと言われればそれまでだが、悪いのは武蔵である。

 武蔵の口元がニヤニヤしているのが、もうどうしようもなかった。


「とにかく、これを持っていくのです!」


 アリアが差し出したケース、そこに収まっていたのは2丁の拳銃であった。


「出たなリベレーター」


「なんで反逆者リベレーターなんて単語が出てくるのです? これはプレス銃なのです」


 分解途中のオートマチック銃、というべき風貌。

 全体的なチープさはともかく、グリップ部分は形だけ見れば割と普通だ。

 ただ、奇妙なのは銃身部分であろう。大柄になりがちなオートマチック銃の遊底スライド部分を外したような、切り詰められた銃身が露出した分解途中の拳銃のような外見。

 この時代における、自衛隊員用の自衛拳銃であった。







「ちゃんと銃は持ってますか」


「まあ、一応」


 武蔵を連れ立って歩くアリア。

 行き先は知らされていない。半舷上陸が許可されてすぐ、アリアは武蔵を連れ出したのだ。

 武蔵は腰に触れて、その頼りない武器を探る。


「一応とはなんですか、一応とは。貴方の命を守る為の物ですよ」


「これを銃と認めたくないんだよ、なんだよこの玩具は」


 武蔵とアリアの腰に据えられた拳銃。

 自衛隊内において『プレス銃』と呼ばれるこれは、文字通りにプレス加工を多用した安価さを追求した銃であった。

 装填数が僅か一発の、完全な護身用銃。

 無いよりマシ程度の、お守りとしての仕様を満たしているとはいえ、無手の人間相手にすら外せば反撃されかねないどうしようもない銃である。


「護身用ですから、最低限の性能があればいいのです」


「知ってるぞ、これが隊内では『自殺用拳銃』って揶揄されていることくらい」


 その評判は、自衛隊内ですらこの銃が最低限のラインを満たせていないと考えられている証拠であった。

 UNACT相手に銃なんて使わない、護身用として『ないよりマシ』で構わない、というコンセプトで生産された銃。

 武蔵の目からはFP-45リベレーターにしか見えないが、セルフ・アークに実物サンプルがあったとは思えないし、あったとして参考にするかは怪しい。

 要するに、これもある種の収斂進化の結果なのだ。

 装填数は1発だが、実は10発をグリップに格納可能。これが単発式のくせにオートマジック銃のようなグリップを持つ理由。

 銃弾は他の銃に合わせて設計された物なので、銃本体よりずっと高精度で作られており、威力、射程も大きい。

 だが銃身にはライフリングが掘られておらず、有効射程は驚きの3メートルという有様である。

 弾自体はもっと飛ぶのだが、3メートル以上離れた敵に当たるとは保証出来ない、という意味で。


「どうせ作るならステンガン作ればいいのに」


 ビールソーセージ帝国に大打撃を受けた朝食だけは美味い帝国が、起死回生の為に設計した安価かつ最低限の性能を満たした小銃。

 これも『水道管』と揶揄された安物銃だが、小銃としての体裁を保てているあたりリベレーターよりはずっとマシであった。


「ちゃんと整備したんでしょうね」


「徹底的にメンテした。というか改造した」


「備品を勝手に……」


 小言を思わず言うものの、戦争中の軍隊において兵器の小改造はある程度認められるものだ。

 ごく小さなものであればコックピットに家族の写真を貼ったりなど、性能に影響するところであれば小銃に自前のスコープを取り付けるなど。

 航空機の吸気口にサメの絵を描いたり、役に立たない機銃を木の棒に換えたりなど、細々とした現地回収は意外と多い。

 原則として兵器の改造は厳禁だが、それで士気が保てるならば、多少の改造は目を瞑られるものなのである。

 このプレス銃についてもそれは同様で、あまりにチャチな作り故に、専用改造キットすら非公式で発売される始末であった。

 かくいうアリアのプレス銃も、一応の安全対策に強化が施されている。


「バレルはライフリング入りで削り出し、装填は後装式に改造した」


「昨日渡したばっかりなのに、1日でよくそこまで……自分でやったんですか?」


「航空機の整備士資格を持ってた俺が、銃程度の改造を出来ないはずがないだろう」


 そういうものなんだろうか、と首を傾げるアリア。

 艦内の貧相な工作機械では精度に限界があったものの、『口径さえあれば機械は動く』と無茶な仕事を要求されてきた武蔵には不可能なことではなかった。


「なんにせよ護身用だ、使う機会なんてないだろう」


「これから向かう場所は治安が悪いのです。本気で使うことを覚悟しておきなさい」


 どこに行く気だ、と愚痴りたいのを堪え、武蔵はアリアの後を追った。







 沖ノ鳥島は島ではない。

 いや島なのだが、それは人が上陸して設備を設営出来るほど上出来な島ではない。

 よって人が生活する港町は正しくは海上に浮かぶメガフロートであり、人工の島だけあってその区画整理は徹底されている。

 管理されていない土地など一辺もない―――そのはずであるが、それでも狭間に生きる人々というのは存在し続けていた。


「スラム街か」


「なのです」


 始まりは、臭いであった。

 海風が通り抜ける、そもそも人口の少ない天空の橋立においては悪臭はあまり問題にならない。

 海という巨大すぎる浄化装置は、この人工島に住まう人がせっせと垂れ流す環境汚染を嘲笑するように希薄化させてしまう。

 それでも尚臭うというのなら、それは汚染を垂れ流すシステムすら麻痺しているということだ。


「スラムには2種類あるそうだ。いや、専門家に語らせるなら2種類では済まないんだろうが、大きく区分して2種類だ」


「なんか急に語りだしたのです」


「1つは発展途上国に多い、インフラの途絶した無法地帯のスラム。そしてもう1つは、先進国に生まれるようなインフラや公共事業に組み込まれた最貧民の集合体であるスラム。ここは見たところ、前者のように思える」


 ざっと見たところ、その区画の住人は家を持っていなかった。

 ダンボールハウスやバラック小屋に住んでいる、という意味ではない。

 そんな仮染めのプライバシーすら許されない、常に警戒をせねばならないほどの治安の悪さを感じさせる土地であった。

 住人は武蔵達を訝しげに見て、しかし2人の着る制服に慌てて視線を逸らす。

 武蔵は恍惚の表情で呟いた。


「国家権力ちょー気持ちいい」


「その恥ずかしげもなく虎の威を借るラクーンっぷりは死にたくなりませんか?」


「冗談だ」


 なんで狐じゃなくてタヌキなのだろうかと疑問に思いつつ、武蔵は足を進める。

 戦時下の軍隊とは合法的なヤクザのようなもの。

 というのは言い過ぎかもしれないが、その純粋な暴力は弱者にとって畏怖の対象以外の何物でもない。

 この白制服を着ている限り、2人は損得勘定すら出来ないほどに追い詰められた者以外からの攻撃を受ける心配はなかった。


「それで、ここに何があるんだ?」


「何って……これを見て、なんとも思わないのですか?」


 アリアは愕然とした面持ちで、武蔵を凝視した。


「見せておいた方が、いいと思ったのです。この時代は、こういう人達がいるって」


 ふむ、と武蔵は唸って一帯を見渡す。

 この地の住人が家を作らないのは、警戒の目を走らせる為という以外にも、この島が赤道に近く常夏だからという理由もある。

 寒さの問題が小さいのなら、家の重要性は減る。

 逆に言えば、寒くなる土地のスラムは無理をしてでも家を作らねばならない。それがダンボール製でも。


「この地の人は、どうやって糧食を得ているんだ?」


「さ、さあ? 知りません」


 使えない、という言葉を飲み込んで武蔵は近くで座る男に近付く。


「やあ。景気はどうだい?」


「ふん、世間知らずのガキが2人迷い込んだ以外は、いつも通りってとこだ」


「それは上々。あ、一本どう?」


 武蔵が差し出したタバコに、男は鼻を鳴らして一本抜いた。


「で、話は聞いてただろう? ここの連中ってどうやって食いつないでるんだ?」


「ハン。日雇いの仕事をジエタイから受けたり、魚を釣ったりさ」


「ああ、魚って手があったな。税金は収めてる?」


「上は俺達の存在すら把握してねえだろ」


 皮肉げに口端を吊り上げつつ古びた100円ライターで火を着ける男。

 なるほどなるほど、と武蔵は頷きながら礼を告げ、アリアの元へ戻る。


「判ったような判らんような。まあスラムだな」


「武蔵の順応性にビビってます。なんですか貴方。私、これを初めて見た夜は一睡もできないくらい頭にこびりついたのに」


「先進国でぬくぬく生きてた女子高生ならそれが普通だ。気にするな」


 お前だってそうだろ、というアリアの視線を無視して武蔵は適当な店舗に近付く。


「やっほー。ここ何の店?」


「知らない方がいいぞ」


「スラーリングラードかな?」


 吊るされた謎の肉に苦笑する武蔵。

 形状からして人肉ではないので、食べてみようかと一瞬考えてしまう武蔵であった。


「アリア、デートでは男が奢るのが嗜みだと思うわけだ。これ食う?」


「貴方が先に食え」


「嫌です」


「冷やかしは帰ってくれませんかねぇ」


 店主が心底迷惑そうに眉を顰めた。


「武蔵、行きますよ。あっちです」


「はーい」


 アリアが向かう先は、更に排他的な空気漂う路地であった。


「ここでは自衛隊員でも危険です。気を抜かないように」


「まるで俺がさっきまで気を抜いていたかのような言い草はやめて頂きたい。お前さっき不審者に後ろ取られてたの気付いてたか」


「えっ。ええっ」


 急にきょろきょろと周囲を見渡して、怯えた様子を晒すアリア。

 こういう態度を取るから舐められるのである。


「あの、武蔵はなんとも思わないのですか? こんな、人らしくない生活を送る人を見て」


「いや、割とありふれた光景だろ」


 武蔵は呆れた目をアリアに向けた。


「資本主義をやってれば上と下が出来るんだ、セルフ・アークは格差が小さかったってだけで、こんなの地球では21世紀でも残り続けてきた光景だぞ」


 何を言いたいのかと思えば、ようするにアリアは武蔵に見聞を広めて欲しかったらしい。

 武蔵に言わせれば、アリアが世間知らずだっただけである。

 人が宇宙に暮らす時代であっても、差別も格差も貧困も飢餓も、死語にはなっていなかったのだから。


「いえ、そうではなく、実情を見てほしかったと言うか……」


「見ただけで判った気になるなら、コイツ等に引き裂かれると思うが。とはいえ俺はここに堕ちるつもりはない、あいにく高等教育を受けて文明的な生活に浸ってきた俺にここの生活は難しい。まあ堕ちたら堕ちたでやりようはあるが」


 こういう環境における最大の問題は、貯蓄を行えないことだ。

 給金を貯金に回す余裕もなく、微々たる余力も盗まれるリスクから安心して蓄えることが出来ない。

 この状況に武蔵が陷った場合、真っ当な手段で成り上がるには技師としての技能を活用して貯金をしたとしても年単位を必要とする。

 真っ当な手段であれば。


「それは、彼らの現状から目を逸らしているだけでは?」


「いや待て前提がおかしい。なんで俺が彼らの生活に責任を持たにゃならん」


 むむむっ、と武蔵を睨むアリア。

 彼女とてスラムに関して負うべき責任がないことは理解しているが、だからといって無碍に切り捨てられるほど割り切れてはいなかった。


「俺が抱えるべき問題ではないし、この世の全ての問題から目を背けないなんて無理だ。人間そこまで何でもかんでも背負えるように出来てない。俺は貧困層に犠牲を強いるし、家畜の最期に心を痛めたりなんかしない。そこまで背負えない」


 嘆息を1つ、吐く。


「人間は、生きるだけで罪を犯していくんだ。自分の罪を償う気はないが、忘れる気もない。それで妥協しろ」


「……武蔵って、そういう人だったんですね」


「何を今更」


 落胆したようなアリアを、武蔵は眩しく思う。

 例えそれが非合理的で未熟な証であったとしても、失うより抱く方がよほど苦しいのだから。


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