第67話 駆け引き
ルークは全身に氷水をかけられた心地で立ち尽くした。仮面があってまだ良かったかもしれない。仮面の向こうで、サイラスが涼しい顔でこちらを見ている。ルークは憎しみが沸点を超え、先程まで燃え盛っていた体内の熱が、急速に下がっていくのを感じた。
(なるほど、腹が立ちすぎると、却って冷静になれるというわけか……怒りのあまり、頭脳がより明晰になった気さえする。クレア。そうか、やはりこいつは、ヴィジュアルバードを飛ばしてこちらの様子を見ていたんだな。しかし……)
ルークは暫し考えてある結論に達すると、嘲りを含んだ声で応じた。
「『奇妙な存在』? 何の話だ、サイラス。貴様も先程大広間で目にしただろう、僕の可愛い妻クレアの姿を? 彼女の一体どこが、『奇妙』だと言うんだ?」
サイラスは欄干にもたれかかったまま、表情を動かさずこちらをじっと見ている。サイラスは相手の表情、仕草、ちょっとした声色の変化などで、その裏にある真実を見事に探り当てることが出来る。だが。
(貴様と一体何年一緒に過ごしてきたと思っているんだ、サイラス。お前が相手にかまをかける時、その右眉が微妙に上がるのを、僕が知らないとでも思ったか? 賭けてもいい、お前は、クレアの秘密を、何一つ知らない! もしもお前が彼女の秘密を知っていたら……クレアの身に、ほんのわずかでも、あの『カエルムの賢者』の血が流れている可能性があると知っていたなら……お前は、今ここで、僕を八つ裂きにしてでも彼女を奪い去るはずだからな!)
ルークはフン、と鼻で笑って腕を組んだ。
「未だ結婚の一つもしていない貴様のことだ、僕の可愛い妻が羨ましくなるのも分からなくはないが……それで国王に告発だ、などと笑わせる。ハハッ、一体我が王になんと言うつもりだ? まさか、あの麗しい女性は魔術院の長の妻にはもったいない、とでも?」
サイラスは唇の端に笑みを浮かべたまま、じっとこちらを見つめている。一見優雅な姿だが、その眼光は鋭い。この瞳だ。サイラスの、魔力を帯びた、深みのある瞳の輝き。その黒い瞳は、時に熟した葡萄色に揺らぎ、見る者に何とも名状しがたいざわめきを与える。ルークにとっては懐かしくもあり、
(ミラー師匠は、いつも言っていた……サイラスの、この瞳。こいつは天性の魔術師だ。生まれながらに、強大な魔力をその身に宿している。それも厄介なことに、一つ間違えば身を滅ぼしかねない闇魔法の、な……)
数ある魔術のうちで、最も習得が困難と言われているもの。それが、光魔法と闇魔法だ。ルークの師である大魔道士ミラーは、恐らくロマ王国建国以来、初めてその両方を習得した、まごうかたなき天才だった。そのミラーが、長い生涯で弟子に取ったのはたった二人。それが、ロマ王国きっての武門の一族を
サイラスは、瞳を閉じて優雅に首を振った。
「……そうか、そうだったな。お前のその、一見激情型に見えて、妙なところで思い留まる、その厄介な性質。全くお前は、子供の頃から、何一つ変わっていないな」
サイラスは、夜風に銀髪をなびかせて笑った。ルークの脳裏に、初めてサイラスに会った時の記憶が鮮明に蘇る。
(僕が、何の考えも無しにデイヴィスの家を飛び出して、川べりの岩場で腹を空かして倒れていた時……初めてお前に会った。あの時、偽善者のお前はミラー師匠にこう言った、『あれ、誰か倒れている……ミラー師匠! 子供がここで死にそうになっていますよ。ああ、けど、この子……魔力があるな……それも、かなりの。ふふ。ねえ、ミラー師匠。この子、弟子にしたらどうですか? そうしたらきっと、才覚を表しますよ……まあ私ほどではないにしてもね』 そして忘れもしない、お前は、僕に水を飲ませようと師匠が川に下りて行った時、朦朧としている僕の耳元で呟いたんだ、『……ああ、いい退屈しのぎになりそうだ』)
ルークは、手袋をした拳をぐっと握りしめ、低い声で言った。
「……あの時の僕は、まだ子供だった……本当にな! 今思い出しても自分に吐き気がするよ、貴様のような忌々しい男を、無邪気に『兄弟子』と慕っていたなんて!」
その時、爆音と共に二人の立っているテラスが微かに振動した。ルークは仮面の顔を振り向ける。
「……なんだ?!」
サイラスの張った魔防結界のせいで、正確には魔力の出所が分からない。けれど。
「大広間の方だ……これは……電撃……? だが、レインじゃないな……この響き、これはまるで……」
雷魔法に似た、けれど非なるもの。魔術ではない、何かしらの自然現象に近い。だがここは王城で、電撃が自然発生するような場所ではないのだ。ルークが、ある可能性に思い至って眉を潜めた時。サイラスが無造作に体を起こして呟いた。
「……全く。余計な騒ぎを起こすな、と言い置いていたものを」
「サイラス、貴様……まさか、精霊を……?」
サイラスは両腕を上げて肩をすくめた。
闇魔法の中で、サイラスが最も得意としている術がある。召喚術と死霊術だ。どちらも冥府の住人を呼び出す非常に危険な術で、適性の無い魔術師が無理に行使しようとすると命取りになる。自らが呼び出した冥府の存在に、魂を食われてしまうのだ。だがサイラスは、その術に素晴らしい適性があった。それこそ、彼自身が、冥府から遣わされた存在なのではないかと思えるほどに。
ルークは、サイラスの様子を見て眉間に皺を寄せた。
「そうか、地底の精霊か! 貴様、なぜそんな危険な存在を使役している! 奴らの
「使役? 言葉が悪いな、弟よ。私は何も、彼を……いや、今は彼女だったか……を使役しているわけではない。彼女がこちらを慕ってくれているだけでね」
「地底の精霊が人間を慕うだと? 冗談じゃない、地底の精霊といえば、人間の魂を勝手気ままに食い荒らす悪鬼だぞ! 貴様、そんな危険な存在をロマ王城に放つなど、一体どういうつもりだ! ロマとスティリアの危険な均衡状態を、今ここで貴様が崩すと言うのか!」
「ははは、心外だな、ルーク。この私が、親愛なるロマ国民に、危害を加えるはずがないだろう? これは、そうだな……ふふ、ちょっとした余興だ。ロマのデズモンド国王陛下には、我がスティリア王も敬意を払っておられるのでね。退屈しのぎに、ロマ国王には愉しんで頂こうというわけだ」
サイラスは涼しい顔でそう言った。スティリアの外務卿たるサイラスのその言葉に、恐らく嘘は無い。ルークの予測通り、こいつは単に忌々しいちょっかいをかけてきているだけだ。なぜなら、もしも地底の精霊が本気を出していたら、今頃王城の一部が吹き飛んでいるだろうから。だがそれでも、ルークはクレアが心配でたまらなかった。
ルークは胸の前で素早く印を組んだ。サイラスの結界が、あっけなく砕け散る。やはりこの結界はサイラスの戯れ、気休め程度のものでしかなかった。サイラスが
「そんなに慌てて、どこへ行くのだ、弟よ。7年ぶりの再会、ゆっくり語らおうではないか」
「ふざけるな。貴様とは二度と顔を合わせたくないね。さっさと帰れ、この疫病神」
と言って踵を返そうとしたルークの足元から、突然、低い唸り声と共に黒い影が三体飛び出した。テラスの石造りの床に、地割れが起きたような亀裂が走る。ルークは反射的に飛び退き、その影の何であるかが分かった瞬間、思わず低い唸り声を上げていた。
「……
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