第63話 舞踏会(5) 魅惑
アゼルと名乗ったその女は、唇の端に魅惑の笑みを浮かべ、腰を
「ねえ。あなた、あの魔術師様の妻なんですってね? さっき聞いたわ。あなたと、あのイヴとかいう女が話しているのをね。名前はクレアちゃん……だったかしら。可愛いひとね」
低くて温かみのある、不思議な声。ビロードで耳の中を撫で回されるような感覚に、頭がぼうっとしてくる。私は、本能的に後ずさっていた。レインが、腰に差していた魔法の杖をさっと抜く。アゼルが体を起こして笑った。
「あはは! おチビちゃん達、何を警戒しているの? もしかして私に魅了されちゃった? 安心なさい、私は、あなた達のような幼稚な女どもなんかに興味は無いから」
「……あなたは一体、誰なの?」
私が眉を寄せて問いかけると、彼女はフフッと笑った。
「言ったでしょ? 私はアゼル、スティリアの女よ。でも少し前までロマにいたの。ロマの王都で一番高級な娼館にね。何人もの貴族の男を相手にしたわね。あなたのような子供じみた女は知らないでしょうけど、どんなに清廉潔白そうに見える男でも、中身は獣と大して変わらない。今ここで気取って踊ってる男共だって、ベッドでは別人よ。でもまあ、彼らには随分楽しませてもらったけど。中でも、私が一番気に入っていて、私のことを一番可愛がってくれた男は……」
そう言って、彼女は目を細めて嘲るように私を見下ろした。
「さあ、誰でしょうね? 某五大院の
私がじっとしていると、アゼルは首をそらせて楽しそうに笑った。滑らかな青白い喉元が
「彼、前は私に夢中だったのよ。懐かしいわ。今夜は久しぶりに私と踊ってもらおうと思って来たんだけど、いなくなってしまったわね。残念」
「奥様! 騙されては駄目です! あの
と憤慨したように私の袖を引っ張るレインに、アゼルが美しい顔をしかめた。
「うるさいわねえ、この山猫!」
「や……山猫だと?!」
目を吊り上げて身を乗り出すレインに、アゼルは「しっしっ」とまさに猫でも追い払うような仕草をした。
「そうよ。ぎゃんぎゃん山猫みたいにうるさいんだから。あんたみたいな色気の
「お、お前ッ! 言わせておけば……!」
いきり立つレインを無視し、アゼルは飲み干したグラスをぽいっとテーブルに置いた。そして、銀のトレイに盛られていた葡萄を一粒、長い指でもぎ取って口に放り込む。まるで子供みたいな仕草だ。ワインレッドの優美なドレスを着ている淑女がすることじゃない。どこかちぐはぐな印象を受けるが、それが却って、私の猜疑心を強める。レインは否定するが、あのルークなら……このアゼルに惹かれても不思議ではないかもしれない……。
私が黙ってアゼルの一挙手一投足を見つめていると、彼女は楽しそうに笑って手招きをした。
「ねえ。ここは騒がしいわ。静かなところでちょっと話さない? あなたに、いいことを教えてあげるから」
「……いいえ。話があるなら、ここで聞くわ」
「つれないわねえ! これだから、堅物の子供女は嫌なのよ。折角、あの人の秘密を教えてあげようと思ったのに」
「秘密、ですって?」
「そうよ」
そして彼女は、私の耳元に顔を寄せて囁いた。
「知りたいでしょ? あなたの大切な男……ルークの秘密をね」
私は目を見開く。心臓がどくどくと音を立てる。アゼルは、硬直した私を舐めまわすような声で続けた。
「ふふっ、驚いた? 私も知ってるのよ、その名をね」
「どうして……」
「言わなくても分かるでしょ。さ、あの邪魔な魔法使いの女は、ここに置いて行きなさい。あなただって、ルークの名をあのレインに知られるわけにはいかないでしょ? あの男の名を知っているのは、この場では私とあなただけ……あのイヴとかいう女ですら知らないんだから」
ルークは私に、決して一人になるな、と言った。私は、アゼルについて行くわけにはいかない……。アゼルは体を起こし、わざとらしく肩をすくめた。
「何を迷っているの? 私はね、親切心で教えてあげようと言っているのよ。だってあなたを見ていると、可哀想でたまらないんだもの」
「私が……可哀想?」
「ええ、そうよ。あなた、騙されているのよ。あの男は、あなたが思っているほど誠実な人間じゃない。私もついこの前までは、あなたのように随分可愛がられたものだったわ。けれど、あの男は自己中で強引で飽き性なのよ、知ってるでしょ? 自分の気が済んだら、相手の女をぽいっと放り出して、はいおしまい! あのイヴだって、その後の4人の妻達だって、みんな同じだったのよ。だからあなたにはね、私達のようになって欲しくないの」
「あの人が、私にそんな仕打ちをするはずが……」
「あっはは! 馬鹿ねえ、これだから騙されるのよ! 言ったでしょ、男なんてみんな獣と同じだって。あなたの夫だってそう。……それともまさか、あなたは自分だけ特別だとでも思っているの? 他の皆とは違う特別な何かが……あなたにあるとでも?」
アゼルが琥珀色の魅惑的な瞳で私を見据えた。胸がざわつく。私はさっと視線を逸らした。
「……いいえ。そういうわけでは……」
アゼルは「ふうん?」と言って何かを探る様に私を眺めまわしている。その視線を遮る様に、レインがアゼルと私の間に割って入った。
「さっきから聞いていれば、なんと無礼な! 奥様ッ、こんな女の言うことを真に受けたらいけません! さあ、こんなの放っておいて、あちらに!」
「全く、うるさい小娘ねえ! 私はクレアちゃんと話しているの。引っ込んでなさい、山猫」
背の高いアゼルと、小柄なレイン。体格も態度も、迫力で言えば、完全にアゼルの勝ちだ。アゼルは、自分に食って掛かって来たレインを無視し、私に微笑んだ。甘美に揺れる、魅惑的な声。
「さあ、魔術師様の可愛い奥様? 私の話を聞く? 聞かない? あなたの知らないあなたの夫の顔、知りたくないのかしら?」
ルークを疑うわけじゃない、けれど。王都に到着した夜、あの暗い道で会ったロブと言う男は確かに言ったのだ、『お前お気に入りの娼館の女連れて……』と。ルークは笑って誤魔化したが、私は忘れていなかった。
アゼルの声の不思議な揺らぎが、私の思考を捕らえてかき乱す。これまで聞いたことのない不思議な声に、頭に靄が掛かったみたいで、考えがまとまらない。気付いたら、私はゆるゆると頷いていた。
「……いいわ。あなたの話を聞いてあげる。……けれど、ほんの少しよ。5分したらここへ戻るわ」
隣で私達のやり取りを聞いていたレインが、信じられない、という顔付きで私を見た。
「奥様?! 嘘でしょう! 駄目ですよ、こんな得体の知れない女について行っては!」
アゼルがレインを押しのけ、私に手を差しのべた。爪が青く輝く、生白い手。私はぼんやりとその手を取り……。
「あっ!! 奥様!!!」
レインの焦った呼び声が、後ろから微かに聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます