第62話 舞踏会(4) 不穏

 ルークの微かな声が聞こえたはずもない、なのにその人物は、冷たい笑みを浮かべて真っすぐこちらを見つめている。ルークはまるで呼吸まで止めてしまったかのように、彼に背を向けたままピクリとも動かない。だが、その体に纏った雰囲気には、緊張と……覆い隠しようもない憎悪の感情が混じる。私は思わず、手袋越しにルークの手をぎゅっと握りしめていた。ルークが反射的に、私を腕の中にすっぽり閉じ込めた。まるで、サイラスの視界から私を覆い隠すように。私は、彼の体越しに、そっとサイラスの様子をうかがう。


 楽団が、陽気で軽やかな円舞曲ワルツを奏で始めた。サイラスはさも自然な動作で、彼の一番そばまで歩み寄っていたイヴの手を取り、その甲に口づけた。広間の女性達が色めき立つ。イヴは鼻高々で踊り始めた。だがサイラスは、優雅に彼女をリードしつつも、その視線はルークにしか向けていない。彼の狙いは、ルークただ一人……何を仕掛けて来るつもりだろう。我に帰ったらしきルークが、私を自身の体で覆い隠しながら、耳元で囁いた。


「このまま、僕の動きに合わせてくれ。踊りながら奴から離れよう。まさか、奴がこの場に出てくるとは思わなかった。すまない。きみを奴の前にさらすことになるなど……完全に、僕の失敗だ!」


 ルークは苦々しく舌打ちをした。私は、彼に身を預けて踊りながら囁く。


「ウンブラ卿というのは?」


「奴の偽名、そして立場の一つで、北の隣国、スティリア王国の外務卿だ。きみも知っての通り、スティリアは我が国と古くから関係が深い。だが、サイラスの奴……これまでデズがいくら招待しても舞踏会に参加したことなどなかったくせに、なぜ今回に限って……まさか……どこかできみの存在を知った……? 奴のヴィジュアルバードを使えば、不可能ではない……やはりきみを、あの結界の外に連れ出したのは悪手あくしゅだったか!」


 曲が一つ終わり、サイラスはイヴに優雅に礼をして、まだ踊りたそうな彼女をあとに、貴族達の談笑する回廊へと向かった。だがその視線は、挑発するようにこちらを向いている。そう、まるで、『ついて来い』とでも言うように。ルークは苛ついた声で囁いた。


「ふざけた奴め……! クレア。僕は、あいつと話を付けて来る。奴もこの王城で滅多な真似はしないだろう……こちらの方こそ、うっかり手元が狂って、あいつを殺さないようにしなければいけないな」


「そんな……」


「分かってる。我を忘れて暴走しないように、せいぜい気を付けるさ。きみは、この広間から出ずに、レインと共にいるんだ。決して、一人になってはいけないよ。奴が、どんな使い魔を忍ばせているか分からないから」


「ええ、分かったわ。ねえ、でも、あなたは一人で平気なの? 私も一緒に……」


「駄目だ。今は夜で、きみは非力だ。それに何よりも……いいか、クレア。きみは、僕の最大の弱点なんだよ。最大の敵の前に、最大の弱点を連れて行く馬鹿がいるわけないだろう」


 私は俯いた。彼の言う通り、昼の私ならともかく、今の私では何か起こったら確実に足手まといになってしまう。私はそっとため息をついて頷いた。


「ええ、そうね。私があなたでも、きっと同じことを言うでしょうね。……分かったわ、私はレインと一緒にいる。絶対に彼女のそばを離れないから、安心して。でも、本当に気を付けて。あの人……何をしてくるか分からないもの」


「ああ。……こんなことになって、本当にすまない」


 ルークは手短にそう言い、私を連れて広間の端にあるテーブルに向かった。若草色のドレスを着たレインが、目を輝かせて肉を頬張っている。彼女はこちらを見てぎょっと目を見開き、肉が山盛りになった皿を背後に隠しながら叫んだ。急いで肉を飲み込んだらしく、その目が白黒していて心配になる。


「お、おさッ?! 待って下さい、違います!! 私は決して、肉の誘惑に負けて、任務をサボっているわけでは……!」


 メイルバードが音もなく飛んで来て、テーブルの端にばさりと止まった。極彩色の魔法の鳥は、鮮やかな黄色いくちばしを動かす。


『私は急用で退出する。彼女を頼む』


「えっ?! 退出? あ、えっと、はい!! 畏まりました、このレインにお任せ下さい! 奥様には、何人たりとも近寄らせません!」


 ルークは駆け寄って来た魔術院の部下らしき人から長い杖を受け取ると、そのまま踵を返して行ってしまった。サイラスの姿は、既に人の賑わう回廊へと消えている。ルークもまた、広間の人々の畏怖と尊敬の視線を受けながら、足早に広間を後にした。レインが、「ふぃー」と呑気なため息をついて言う。


「あービックリした! にしても、急用? ……陛下はあちらにいらっしゃるし、今日の招待客の中に長と約束のある人なんて……って、あ! 奥様、すみません、一人にしてしまって。ええと、まだ楽団の演奏は続いておりますが、長より、奥様を他の男性と踊らせないように、との厳命を受けておりますので、申し訳ありませんが、このレインがお相手致します! と言っても、私は全く踊れませんので、主に食事のお供になりますが」


「ありがとう、レイン。……ねえ、教えてくれる? スティリアのウンブラ卿と言う人、あなたは会ったことがあるかしら?」


 レインは「ウンブラ?」と言って目を見開いた。


「お会いしたことなど、あるわけないじゃないですか! ウンブラ卿と言えば、スティリアでもナンバー1か2かというくらいの大貴族ですよ。こんな庶民が卿にお目通りする機会など、まずありませんって! ……そういえば、ウンブラ卿、今年は舞踏会にいらしたようで驚きました。私の覚えている限り、卿がこの舞踏会に来るのは初めてのことじゃないかな。初めてお見かけしましたが、なんともお美しくて色気のある方ですね。イヴ様を初め、女性達が大騒ぎするのも納得と言うものです。 ……ところで、そのウンブラ卿が何か? 長の言った急用って、ウンブラ卿のことですか?」


 レインはきょとんと私を見つめる。彼女の唇が、肉の脂でテカテカ光っていた。私は苦笑して首を振る。


「……さあ、どうでしょうね。私には分からないわ。ただ少し、気になっただけよ」


 私は、二人の消えた回廊を遠く見つめた。ルークも、もちろんサイラスも、もうその姿が見えない。心配でたまらないけれど、彼らの後を追うわけにはいかなかった。レインの声がする。


「はあ、そうですか……あ。すみません、奥様。出来るだけ、私の後ろ、ちょうどこの柱の前辺り、にいらして下さいます?」


 レインは私をさりげなく柱の前に追いやった。ここからでは、回廊が見えない。私は困惑して問いかける。


「ねえ、待って、レイン。一体なぜ……」


「先ほどから、奥様にダンスを申し込もうと言う不届きな男共がこちらに視線を投げて来ます。奥様をお守りしないと、あとで長から何を言われるか分かったものじゃない。私は、この肉にかけて、奥様をお守りしますよ! 近づいて来た奴はみんな、私の雷魔法でぶっ飛ばしてやりますからご安心を!」


「ええっ?」


 私が慌てて周囲に視線を巡らせる横で、レインは肉の皿を手に、辺りに睨みを利かせた。周りが明らかに尻込みしたのが分かる。レインは凄みのある視線を周囲に投げながら、肉にフォークを突き立てていた。どこかでボソッと、「げっ、あれは、魔術院のレイン! あの雷女がなぜここに!」という声が聞こえた。レインがさっと顔を振り向けると、そこにいた男性陣がサーッと逃げて行った。レインが腕組みをして不敵に笑った。


「ひ弱共が! このレイン様に勝てると思うなよ? ……さ、奥様! 何か召し上がりませんか? お飲み物は?」


「え……あ、ええ、そうね。ありがとう。……それにしても、レインは凄いのね。みんな、あなたに一目置いているみたいだわ」


 私が、レインの変わり身の早さに笑いをこらえて言うと、彼女はえへんと胸を張った。


「まあ、そうですね。僭越せんえつながら、あの長でさえ、私の魔力には感心してくれていますから。自分で言うのもなんですが、将来有望な若者なんです、私」


 私はこらえきれずに笑い声を立てた。


「ええ、そうね。私もそう思うわ」


「ありがとうございます! さ、奥様。長が戻られるまで、ゆっくりしていましょう。お飲み物はいかがですか。ちょうど給仕が来ました」


「ええ、そうね……頂くわ」


 と言って、私は給仕の差し出す盆に手を伸ばす。残っていたグラスは一つ。私がそれを取ろうとした時、横から別の女性の手が伸びた。私は反射的に手を引っ込めて非礼を詫びる。


「ごめんなさい。……どうぞ」


 顔を上げた私は、思わず相手の女性に視線を吸い寄せられていた。琥珀色の瞳に、透けるような……もはやと言っていい程の白い肌。豊かな胸の、背の高い肉感的な美女だ。彼女は最後のグラスを取り、妖艶な笑みを浮かべて言った。


「失礼。では遠慮なく」


 別の給仕がすぐにやってきて、私に沢山のグラスの載った盆を差し出す。私が一つ取ると、琥珀の瞳の彼女が、私に向けて自分のグラスを掲げた。


「これも何かの縁ね。乾杯しましょ」


 私は警戒しつつも無言で頷き、グラスを掲げる。私の横にぴったりくっついているレインが、彼女のことを注意深く観察しているのが伝わって来る。背の高い彼女は、レインを見下ろしてふふ、と笑った。


「可愛らしい方ね。従者?」


「私は魔術院の担当官です。失礼ながら、お名前とご所属をお伺いしても?」


 レインは堂々と言い、私を庇うように立ちはだかった。琥珀の瞳の彼女は、ふふ、と再び得体の知れない笑みを浮かべて言った。


「この場には招待客以外は入れないのだから、そんなに警戒することもないでしょうに。私の名は、。スティリア高官の娘よ」

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