第58話 花のドレス

 それから舞踏会の日まで、私はルークに会うことが出来なかった。というのも、ベルの店から戻った彼が、そのまま魔術院に行ってしまったからだ。魔術院からの急な呼び出しらしく、ドレスの御礼を言う暇もなかった。私は屋敷の正面玄関でノラに引き渡され、私はノラと女中数人と共に、ルークを乗せたまま魔術院に向かうテオの馬車を見送った。辺境の屋敷ではブラブラしていたルークだが、やはりあれは特別な休暇だったのだと、今更ながら私は痛感する。


 それから3日間、私は毎日、昼も夜も自室で一人ダンスの練習をしていた。だが今夜は遂に舞踏会という日の朝。私は、すっかり落ち着かなくなってニコに言った。


「もう舞踏会は今晩だわ……どうしよう。上手く出来るかしら」


「大丈夫だよ! だってクレア毎日練習してたもん。きっとうまく踊れるよ」


 ニコは裏庭で黄色い蝶を追いかけながら、気楽にそう言った。舞踏会になど関心は無さそうだ。ニコは明るい朝陽の中、蝶を追ってあちこち飛び跳ねている。


「早くフロガーと遊びたいな! 一人遊びはもう飽きちゃったよ。ご主人様はもうちょっとしたら治るって言ってたよね?」


「え? ええ……ルークは、あと半月もすれば回復すると言っていたわ。もう少しよ」


 フロガーを包んでいる魔法球は定期的に魔力を注がなければ消滅してしまうらしく、ルークが魔術院に持って行ってしまった。魔術院のおさの部屋に浮かべているらしい。そうしておけば、自分か、魔術院の高官が面倒を見られるから、とルークは言っていた。ニコが無邪気に足を踏み鳴らす。


「楽しみだな! ねえクレア。ボク、フロガーが治ったら、辺境のおうちに帰りたい。だってここでは、外で遊べないんだもん」


「え……」


「ねえ、クレアは帰りたくないの? クレアだって、ここに来てから全然外に行ってないでしょ? あっちのおうちでは、毎日ボク達と森に出ていたのに」


 私は開け放した窓辺に歩いて行った。ニコの遊んでいる裏庭の向こうに、魔術院が遠く見える。私は、窓から差し込むうららかな日の光を避けて、ぽつりと呟いた。


「そうね……私だって、辺境の屋敷は好きよ。でも、帰ったら、ルークに長い間会えなくなるわ。本当はみんなであの屋敷にいたいけど……そう上手くは行かないわね……」


 ルークは、私にとても良くしてくれる。この部屋も、ドレスも、彼が私を思ってしてくれたことだ。私は急にとても心細くなり、朝陽を受けてそびえ立つ魔術院を見つめた。ルークは今、何をしているのだろう。そう考えていた私は、ふと尖った耳を動かした。


「……誰か来たわ。聞いたことのない馬車の音よ」


 ニコが鼻を鳴らして首を上げる。


「誰だろう? お客様かな」


 私は、正面玄関の方から聞こえて来る声に耳を澄ませる。その声の主が誰か分かった時、私はパッと顔を上げた。


「ベルだわ! ドレスが仕上がったのね!」


 ややあってノラが私を呼びに来て、私は彼女とニコと共に、分厚いマント姿で応接間に向かう。ノラは私だけを部屋に通して扉を閉めようとしたが、ニコが私から離れようとしないので、私は笑ってニコと共に部屋に残る。ソファに座っていたベルが笑顔で立ち上がった。


「おはよう、奥方……って、あれ? どうしたの、その恰好。具合でも悪いのかな。それに、その仔馬はなに? 随分綺麗な白い仔馬だね」


「ごめんなさい。私は肌が弱くて、昼間はいつもマントを羽織っているのです。どうぞお気になさらないで……それと、こちらはニコ。私の大切な家族です。大人しい子なので、一緒にいさせて下さいね……それで、こちらが?」


 私はドキドキしながら、真紅のリボンのかかった大きな箱に顔を向けた。ベルは笑顔で頷いたが、よく見ると、彼女の目の下にはクマが出来ている。だが、その青い瞳は相変らず生き生きと輝いていた。ベルは腰に手を当て、胸を張った。


「その通り。これが、私ベルが3日丸々かけて仕上げた自慢の逸品だよ! 是非奥方に、この場で手に取ってみてもらいたい。本当は魔術師殿にも立ち会って欲しかったけど、今朝メイルバードが私の所に来てね。彼からの伝言で、私から貴女に渡して欲しいってさ。彼は、それを着た貴女を今晩迎えに来るそうだ。そういうわけだから、さあ奥方、開けてみて!」


 私は緊張しつつも、箱のリボンに手をかける。ベルが満足げに言った。


「私はこれまで色んなドレスを作って来たが、今回は本当に会心の出来栄えだ。というのもね、実はあの夜貴女に会ってから、何故だか私の胸がざわざわしてね。なんというかな……ちょっと、我ながら不思議なほどの高揚感を覚えたんだ。こんな感覚は、これまでの人生でもあまり無かったんだが……そうだな、敢えて言うなら……ずうっと昔に、いにしえの塔を訪れた時以来かな! と言っても、人間である貴女が、そんな場所を知るはずがないけどね」


 ベルはそう言って気楽に笑うが、私は驚きに息をのむ。古の塔? それは前にルークが言っていた、彼の師である大魔道士ミラーが命を落とした場所なのでは? 私の手が止まったのを見て、ベルが不思議そうに聞いた。


「奥方? どうかした? さあ早くリボンを解いてよ!」


「え……ええ。ごめんなさい、その、緊張してしまって。それに……少し気になったものですから」


「気になるって? 何が?」


「あなたが今、口にした名です。古の塔……どこかで、聞いたことがある気がしたもので」


 ベルが片方の眉を器用に釣り上げた。


「へえ? それは珍しいね。人間の世界では、もはや古文書くらいにしか出てこないと思っていたよ。古の塔。この地の果てにあるという、その名の通り古い塔だ。私は昔、一族の長老に連れられて行ったことがある。私は子供だったから、その正確な場所も、何のために行ったのかも、全然覚えてないけどね」


「そう……ですか……」


「うん。一族には、色んな古い風習があるからね。人間の世界とは違うしきたりがさ。塔に行くのも、その一つだったんじゃないかな。と言っても、塔の中に入ることは出来なくて、入り口から見上げた記憶しかないけど。大層高い塔で、上の方は雲に隠れて見えなかったね。だが、今でもよく覚えているよ。なんだか足元からゾクゾクする、あの不思議な高揚感。貴女に会ったあの夜、突然、すっかり忘れていたその感覚を思い出した。不思議だろ? なんだか分からないけど、きっと貴女の神秘的な雰囲気が呼び水になって、あんな昔の、大層曖昧な記憶が掘り起こされたのかもしれないな」


 古くから存在する妖精の一族なら、遥か昔に忘れられた賢者との繋がりがあってもおかしくはない……。そんなことに思いを馳せていると、ベルが「まあそれはいいとして!」と両手を打った。


「さあさあ。奥方、早く開けてみて。きっと、気に入ると思うよ!」


 私は、大きな白い箱の蓋を、ゆっくりと慎重に開けた……。


 夜は、あっという間にやってきた。紅く燃える夕陽が地平線に沈むと、それを追うように星瞬く麗しい夜が広がる。私は自室の大きな鏡の前に立ち、窓から流れ込んでくる夜の音に耳を澄ませた。もう昼間の私ではないけれど、屋敷の正面玄関がざわついているのはすぐに分かる。ルークが私を迎えに来たのだ。私のそばで寝そべっていたニコが、嬉しそうに首を上げた。


「ご主人様だ! きっと驚くよ! だってさ、クレアってば、とーっても……」


 コンコン、というノックの音と共に、扉が開く。仮面の魔術師姿のルークが部屋に入って来て、私は振り向く。ルークはこちらに一歩踏み出し、その場で足を止めた。


 ベルのドレスは、それは素晴らしいものだった。この真珠のように滑らかな薄紅色の布地が一体何で染め上げられたものかさえ、私には分からない。春先に野を彩るベリーの花びらか、はたまた、天上の女神の花々の紅をそのまま映して来たものか。その美しい紅色は、広く開いたデコルテは少し淡い色合いで、裾にかけて次第に濃くなっていく。細く絞ったウエストから夢のように流れて揺れる裾には、煌めく宝石と花々が随所に散りばめられており、まさに『花冠の祭り』に相応しい見事なドレスだ。


 私は、ずっと前にメアリが教えてくれた方法で、銀色の髪を高く結い上げていた。王宮での今の流行スタイルは分からないけれど、きっと悪くはない……はず。首元には生母の形見である首飾りを、結った髪にはそれと揃いの髪飾りを付けた。どちらも明けの明星のごとく輝く美しいもので、市場での価値がどれほどかは知らないが、私にとってはとても大切な宝物だ。


 私は、長い手袋をした両手でドレスの裾を持ち、膝を折って頭を垂れる。


「ル……いえ、あなた。ドレス、本当にありがとう。こんなに素晴らしいドレスを身に着けたのは、生まれて初めてよ! 本当はあの夜にお礼を言いたかったのだけれど……遅くなってごめんなさい。その……どう? 似合う、かしら?」


 扉が開いているし、廊下には使用人が控えているかもしれないので、ルークの名を口にするわけにはいかない。私は、慎重に言葉を選び、笑顔で御礼を伝えた。ルークは無言で突っ立っている。室内に、長い沈黙が流れた。かなり長い時間ののち、ルークは微かに頷いた。御礼に対して頷いたのか、似合っている、という意味で頷いたのかは分からないが、私は彼のそばに駆け寄り、その腕に両腕を絡めて身を摺り寄せた。何しろ3日も会えなかったのだから、こうして傍にいられるのはとても嬉しい。私は仮面のその顔を見上げる。


「舞踏会では、きっとずっとは一緒にいられないのでしょう? だから、今だけは、こうしていてもいいかしら。王宮につくまでくらい、いいわよね? ずっと会えなかったのだもの」


 ルークは化石のようにじっとしていたが、やっぱり、かなりの時間が経ってから微かに頷いた。この長いが不安になる。実際、ここにいる仮面の魔術師の中身がルークとは限らないので少し怖かったが、腕をからめたその感触は私のよく知る彼のものだから、きっと大丈夫だろう。


 私達は、居並ぶ使用人と、はしゃいで飛び跳ねているニコを後に、テオの馬車で屋敷を出発した。晴れた夜空の下、仄かに黄金の光に包まれている王宮を目指して。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る